2023-01-01から1年間の記事一覧

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(1) Tau Tao Tai タウ・タオ・タイ ・・・おののく魂はいつしか鎮められていく いつのころからだろう? わたしは迷ったときや決断を迫られたとき,こころに呪文めいたメッセージを唱えるようになった。 タウをもって,タオにしたがい,タイをつくしぬく。…

( 13 )

(13) 裕子へ 驚いたかな? 筆不精のおれが,手紙を書くなんて・・・なんかヘンだろ。 でも,浅谷さんが亡くなってから,のっぴきならない事情ができたんだ。 きょうの日をかぎりに,じつはね・・・おまえに,トワの別れを告げなければならない。 おまえが…

( 12 - 12 )

3月13日,日曜日。 5時半ごろに起床・・・ついに,この日がやってきた。 裕子が食事の支度をしてくれるあいだに朝刊にざっと目をとおす。大惨事の記事で埋めつくされていて,やりきれない気持ちになった。最新の情報には接したくない・・・なのでテレビは…

( 12 - 11 )

3月11日,金曜日。 午後,病棟回診をしている最中に多少の揺れを感じ,テレビからは臨時ニュースが流れていた。東北で地震が発生したのだという・・・病室を回っていたせいもあって,とくだん気にはとめていなかった。 夕方になっても,さほど深刻だとは思…

( 12 - 10 )

3月10日,木曜日。 ・・・あと三日後に迫る。 職務に関しては,ほとんど気になるところはなかった。その日の仕事は曲がりなりにもやり遂げて次の日に持ち越さないこと,それだけを心掛ける。 私がいなくなれば,差しあたって循環器の医師が分担して代わりを…

( 12 - 9 )

3月9日,水曜日。 その男性は心臓血管外科を受診し,外科的血行再建術は決定した。自己血保存の期間を考慮して4月5日の施行予定となる。 退院するさい,患者が訊ねてきた。 「手術がうまくいったら,百歳まで保証されるだろうね」 白寿を超えて生きると…

( 12 - 8 )

3月7日,月曜日。 午後,71歳の男性に対して,主治医としては最終となるはずの,冠動脈インターベンションいわゆる心カテ治療を行なう。 患者は,57歳のとき心筋梗塞を発症し,もともと他病院に通院していた。 62歳のとき,夜間に発作をおこして救急車でう…

( 12 - 7 )

3月5日,土曜日。 午後5時より当直の業務につく。 医師にとっては,もっとも好きになれない時間・・・そうではあるが,この役目はもう二度と回ってこないことを惜しみ,対処することを楽しんだ。 準夜帯で10名,深夜帯で3名,合計13名の内科系患者の診療…

( 12 - 6 )

3月4日,金曜日。 夜,呼吸と循環をテーマにした講演会に出席する。 近年では,心不全の基本治療に人工呼吸器による換気療法が用いられ,在宅でも臨床応用されている。今後はさらに,インターネットを通じて在宅での換気状況のモニタリングを行ない,その…

( 12 - 5 )

3月3日,木曜日。 夕食を軽めに済ませて,裕子といっしょに映画を見に出かける。 「こんな日にかぎって,雪が降るんだから!」 彼女が嘆くのもムリはない。雛祭りの日は冬がぶりかえし,ずいぶん寒い日になった。前日,誘ったときには天気は悪くなかったの…

( 12 - 4 )

タウ・タオ・タイ ・・・すべてはこのまま。 ここに存在する,ありとあらゆるものは,そのままでいいのだ! 悪であろうが,凶であろうが,不運であろうが,それがナニであろうとも。 でなければ・・・人間は,もちうる十全なる能力をいかんなく発揮すること…

( 12 - 3 )

2011年2月28日,月曜日,午前11時7分。 浅谷富子さん,家族全員に見守られ,安らかに眠るように逝く。 享年67。 満66歳の往生であった。 死に顔を目に焼きつける・・・そのとき瞼のうらに,5日前に見せてくれた刹那の笑みがよみがえる。 そうだ!・・・あ…

( 12 - 2 )

正月が明けると浅谷さんの病状は悪化の一途をたどった。 十分に食べられないため,毎日の点滴は中止のメドが立たない。排尿障害は改善する見込みがなく,尿道カテーテルも留置をつづけた。 心嚢水にあきらかな増加はなかったが,上大静脈症候群を合併して上…

( 12 - 1 )

(12) 年が明けて,いよいよ・・・2011年。 元日は雪も遠のいて,日中には時おり青空がのぞいた。 初もうでに行きたい・・・と裕子がいうので,オセチを食べてから近くの八幡神社に出かけた。無名の社は家から歩いて10分足らずのところにあったが,日ごろ参…

( 11 - 12 )

12月も中旬になると,浅谷さんの背部痛のぐあいは悪化し,しばしば前胸部の痛みも加わった。しだいにレスキューの使用頻度も多くなってきたので,貼付剤オピオイドの増量をすすめたが,最初は断られてしまった。どうも眠気が強くなって会話ができなくなるの…

( 11 - 11 )

12月の上旬,この時節としては暖かくて過ごしやすい日が多かった。近いうちに寒波が襲ってくるだろうが,いくらかでも穏やかな日が続いてくれたほうがありがたい。さながら浅谷さんの今の病状のようである。 「きょう,頚髄損傷のカレが,がんばって退院しま…

( 11 - 10 )

人は死のうとするとき,その前に自己の原点を訪ねてみたくなる。その原点とは何なのか? わたしは漠然と尾山神社にあると思っていた。それは若き日の失恋に関係があることは疑う余地がない。しかし,なんとなく釈然としないものがある。 12月5日の日曜日,…

( 11 - 9 )

あるがままでいいのだ。 ・・・過つがままに,と言っても差し支えないのかもしれない。その先にしか,真実は見えてこない,良いことであっても悪いことであっても。そして,見えなかったとしても,後もどりすることはできない。 嵩子と逢ってから,浅谷さん…

( 11 - 8 )

11月13日土曜日,13年ぶりに嵩子と逢う。 前日の金曜日,準夜勤務の時間帯に入って仕事が一段落したとき,K病院に就職して以来はじめて彼女の携帯電話に接続をこころみた。 現在のマンションへ引っ越してきたさいのこと。嵩子はレシートを差し出して,わた…

( 11 - 7 )

10月26日の昼前,浅谷さんは呼吸困難と全身倦怠感を訴えて救急センターを受診した。38.0℃の発熱と血液検査で細菌感染の所見がみとめられ,胸部X線では明らかな肺炎はなかったものの再入院してもらった。 抗生物質の点滴で症状は改善したけれども,前回の入…

( 11 - 6 )

10月22日,浅谷さんが心許なさを抱えたまま退院となった。自宅でも在宅酸素療法を行ない,外来は一週間ごとに受診する予定である。 退院の前日,病室へ行くと・・・当人の顔色がいつもより冴えなかった。家に帰りたいのはヤマヤマであっても,うまく生活でき…

( 11 - 5 )

別の日の夕方,病室に顔を出すと,子供を連れて娘さんが来ていた。浅谷さんは以前と変わらず,孫娘が愛おしくてしかたがない様子であった。 「孫はかわいいですよ。先生は,まだですか?」 言ってなかったかな? それとも覚えていないのか・・・。 「浅谷さ…

( 11 - 4 )

「あの心不全のおばあちゃん,家族はそんなに望んでいなかったのですが,転院に向けて完全静脈栄養をはじめることになりました」 「その点滴,先生は反対でしたよね」 「そういうわけではありませんが,たしかに寿命を延ばすばかりの医療には不満を抱いてい…

( 11 - 3 )

「痛みはどうですか・・・」 「きのうから,レスキューは,まだ使っていません」 「じゃ,オピオイドの量は,今のままでいいようですね」 これからは,どんな話題でもいいから,できるだけ浅谷さんと会話を重ねていこうと考えていた。 「五日前,ひとり暮ら…

( 11 - 2 )

オピオイドを少しずつ増量し,背部痛は徐々に抑えられつつあった。多少の眠気はあるようだが,制吐薬が効いているせいか吐き気の副作用はほとんどなかったし,便秘の副作用も緩下薬でコントロール可能であった。 日中の診察のほかに,不都合が生じないかぎり…

( 11 - 1 )

(11) 浅谷さんの症状は,入院して少量の酸素を吸入することで軽減した。追加の検査所見を確認しても前月と著変はなく,心エコーでも心嚢液の増加はみられない。したがって酸素吸入は,ほどなくして止めることも可能であったが,しっかり落ち着くまで継続す…

( 10 - 8 )

夜が明ける前に目が覚めてしまった。真横で裕子は未だ眠っているようであったが,股間に溜まった力を逃がそうと彼女を抱き寄せる。耳元で息をふるわせ,右手で臀部をそっと舐めるように撫でまわす・・・彼女が反応し,しだいに縺れあい,ベッドがミシッミシ…

( 10 - 7 )

8月25日の水曜日から3日間,急遽,夏季休暇をもらって裕子と共に東京へ行くことにした。看取りの約束が気になり,遠出をするなら早目がいいと思ったのだ。ただし彼女の勤務の都合もあるし,整理しなければならないことが山ほどあって,一泊二日の短い旅行…

( 10 - 6 )

7月,浅谷さんはもう一度外来を受診した。とくに変わりはなく,むしろ表情は明るくて,とても癌に侵されているふうには見えなかった。 ところが8月3日の火曜日,労作時の呼吸困難を訴えて,浅谷さんは午後外来を再診した。胸部X線ではあきらかに心嚢液の…

( 10 - 5 )

マンションへ帰ってから浅谷さんと交わした約束について考える。 もうちょっと先のことではあろうが,注意を怠らなければ役目を果たすことに支障はないはず・・・それにしても,と思いを馳せずにはいられない。 ・・・あの金井さんは,どのような思いで,最…