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 10月22日,浅谷さんが心許なさを抱えたまま退院となった。自宅でも在宅酸素療法を行ない,外来は一週間ごとに受診する予定である。

 退院の前日,病室へ行くと・・・当人の顔色がいつもより冴えなかった。家に帰りたいのはヤマヤマであっても,うまく生活できるのかどうか不安でいっぱいなのだろうと思った。というか思うことにした。退院が決まってから,それだけではなさそうな兆候も見え隠れしていたのであるが,患者のためと信じて疑わなかった私は,さほど気にも留めていなかった。

 この夜,久方ぶりにママ・・・アサちゃんの店へ飲みに出かける。

 週のはじめ,案内メールが携帯にとどいた。開店18周年を迎えるから,かならず来てね,待ってるわ! という半ば強制的な文面だった。折りしも浅谷さんの退院が決まって一息つきたい気分でもあった。

 

「いらっしゃい,アオちゃん! 元気にしてた?」

「ふつうさ。そっちは,もう大丈夫なのか?」

 8月,急性虫垂炎で入院し,緊急手術を受けたとメールがきていた。むりやり5日間で退院したらしい。

「なによ,いまごろになって・・・死にそうな目にあってたっていうのに,もう・・・今回だって,メールしなきゃ来てくれないんだから!」

「ちがうよ,はじめから来ようとおもってたさ」

「また,ウソばっかし!」

 そう言うなよ・・・思い残すことがないように,時期を見計らって来るつもりだったんだ。ただ,記念日のことまでは考えに入れてなかったけど。

「変わらんメンバーだな」

 カウンターにいる4人の客は,どいつもこいつも見慣れた顔だ。いつの頃からか,この店には常連客しか来なくなった。それも変わった連中ばかり。はからずもママの性格が馴染みの客質を決めているのだろう。

「まったくよね・・・お金のない,変人しか来ないわぁ。でも,青ちゃんも,そいつらの仲間だからね」

 ママは,この店の資金繰りをどうしているのだろう。片町で続けられるくらいに売上げがあるとは思えない。三人いた女の子もいつしか一人になり,今はもういなくなって・・・ママ,オンリー。ひょっとして,客の誰かとできているのか?

「18周年,おめでとう!」

 その昔と同じように・・・私はブランデーの水割り,ママはビールでグラスを合わせた。

「ありがとう・・・ヒロちゃんは?」

「準夜勤務してるよ」

「じゃ,終わるころに,店に呼ぼう」

「もう若くないから,止めておくよ」

「どっちが若くないの? 青ちゃんのほう?」

「おれもヒロコも」

「ヒロちゃんはいくつ?」

「41歳かな」

「まだ序の口,わたしより若いわ・・・呼ぼう!」

「そのまえに帰るかも・・・」

「なによ,たまに来て,はやく帰るなんて,ありえないわ! きょうは特別なのよ,ぜったい帰さないからね!」

 ・・・この主張を押しとおそうとする迫力は,今もって健在だ。さすがに参ってしまう。

「わかった。あとで考えてみるよ」

 

 5人の客を相手にして,ママは器用に話題をつないでいる。私はといえば,グラスを傾けるうちに他人のハナシについていくのが億劫になった。

 18年前を思いだす。

 あたかもホンモノの自己に覚醒した時分に,この店が開店した。

『おれの愛なき愛に,カンパイ!』

 心ひそかに乾杯したのは,つい先日のことのようにおもえる。あれから,またたくまに月日が流れてしまった。

 はたして,オノレの愛を,極めることができたのであろうか?

 ・・・絶えまなく精神の営みはつづき,どれだけ過ちを犯そうが,どれほど反省しようが,どうしたって同じ心がここにある。変わったかどうか・・・自分の内面だけを見ていても分からない。

 外面すなわち現実のわが身を省みる・・・極めるなんて滅相もない。ふたたび過つ日々の繰り返しである。

 しかし,終着点はもうすぐ・・・極めることに終わりはないだろうが,人間には終わりがあるのだ。ようやく終わりにすることができる。

 ・・・酔ってしまった証拠なのかもしれない。いま,あの日のように,乾杯したい気分だぜ!

『愛なき愛の終わりに,カンパイ!』

 

 すると,入り口のドアが開いて,若い女性が入ってきた。見たことのあるような顔だが・・・だれなのか? 女性のうしろから,小さな女の子が顔を出している。

「わたしの孫娘よ。かわいいでしょ!」ってママが言った。

 そうだ,若い女性は,ママの娘さんだ。いくつだろう?・・・ママは十代で子供を産んでいる。オレの10歳年下であるから・・・娘さんは二十代後半くらいということか。

 ママは孫娘にあいさつをさせた。3歳だという。かわいい盛りだ。

「青ちゃんは,子供が欲しいっておもわないの?」

「いまからじゃ遅すぎるよ」

「あら,そんなことないわよ。芸能人を見てごらんなさいよ」

「芸能人はトクベツさ」

「あら,そうかしら」

「そうじゃなくても,おれは,子供はいらない・・・」

 そう告げた直後だった・・・裕子の堕胎シーンが,フラッシュバックのように甦った。

 

 半同棲生活をはじめて間もないころ,裕子は妊娠した。

 知ったのは,これにサインしてくれないって同意書をみせられ,中絶手術を予約してきたから・・・と彼女に打ち明けられたとき。

 裕子は,みずから決断したのだった。私に対して判断を求めずに,だれにも相談することなく。

「でも,ひとつだけ,お願いがあるの・・・できたら,いっしょにきてほしいの・・・当日,あなたに!」

 

 その日,切りのいいところで早めに仕事を済ませ,彼女を乗せて産婦人科医院へと急いでいた車中でのこと。

「ヒロコ・・・おれは,きょうの一部始終を,この目で見届けたいんだ。医者だって明かしたら,できないかな?」

「いいわ,先生にお願いしてみる・・・わたしもナースだから,あなたがドクターだって話したら,なんとかなるかもね」

 診療時間内ぎりぎりに到着した。彼女はあわてて診察室に消えたが,あっという間に出てきた。

「ほかに患者さんがいないから,オッケーだって。わたしも,あなたがソバにいてくれたほうが,安心できるわ」

 

 処置室に案内されたとき,術着にきがえた裕子が,すでにどっしりとした内診台・・・分娩台ではないだろう,そこに横たわっていた。

 傍らに立って右手でやわらかな左手を取りあげると,彼女はギュッと握りかえし,オレの目をみて・・・『がんばるわ』ってうなずいた。留置針が右手の静脈に挿入され,血管確保ができたところで薬剤がシリンジにつめられる。

 すべての準備が整った時点でナースがドクターを呼んできた。目が合って軽く会釈する。60歳前後の太った産婦人科医は,おもむろに首を小さく縦に振って開始の合図をした。

 陰部を覆っていたタオルが取り除かれ,麻酔薬の静脈注射をナースが行ないはじめる・・・指示どおりに数字を読みあげていく裕子。

 そのうちに声を出せなくなったかとおもうと,彼女の手の力も抜けてしまった。中年のナースが手際よく大腿を固定しなおして大きく開脚させる。ドクターがこっちへ来いと手招きした。そっと左手を台に置き,産婦人科医の後ろに移動して状況を見守った。

 ナースが膣鏡で局部を露わにしているあいだに,ドクターが鉗子でポルティオを器用に摘まんで手前まで引っ張ってくる・・・ただちに重りが鉗子につけられ,そのおかげで子宮の入口は膣外に引っ張られたままなのだ。次いでブジーを用いて子宮頚管を徐々に拡張し,最後に匙のような器具を入れて内部をしつこく掻爬する。

 百聞は一見にしかず・・・『ソウハ』といわれる所以はおのずと理解できたものの,裕子の子宮と胎内にやどる生命がまるで物のように扱われる様子を目の当たりにし,医師として了解できる反面,込みあげる半端ない憤りをどうにも押しとどめることができなかった。なによりも,知らぬまま眠っている彼女が不憫で,不憫でならない!

 処置が終了して,ドクターが内容物を見せてくれた。わずか妊娠3か月の胎児のありさまは無残極まりなく,とうてい語れるものではない。

 

 裕子はなかなか目覚めなかった。外来は閉められてしまうので,ストレッチャーに彼女を乗せて2階の物置きみたいな小部屋へ移ることになった。

「ごめんなさい。意識がしっかりするまで,ここで休んでください。なにかあった場合や帰るさいには,そこのボタンを押してもらえれば,かならず病棟のナースが飛んできますから心配いりませんよ」と説明を受けた。

 ストレッチャーが入ると,もはや余分なスペースはなかった。棚や床には物品がいっぱい積み重なっていたが,さいわい丸イスが置いてあったので座ることはできた。

 うす暗い蛍光灯の明かりのもと,裕子は時おり表情を曇らせる。

 ・・・なぜ妊娠したのだろう? なぜ産もうとしなかったのだろう? なぜいっさい相談しないで決めたのだろう? 

 なにゆえなのだ?

 気になったというのに,藪蛇になるのが怖くて,彼女に質すことができなかった。どう考えても私にとっては,彼女が心変わりしないほうが好都合であるに違いなかった。

 ・・・イマとなっては真相など,どうでもいいことではないか。 詳らかにはしないで,あやふやなままにしておいたほうがいいのだ・・・裕子の顔をじいっと見つめるうちに疑問はしだいに消えていく。

 不意に,彼女が身体を捩じって私の手を引いた。

「守らねば!・・・この子を,わたしが守ってやらねば!」

 うわ言だった。そこには,いまだ夢の中で闘いつづける裕子がいた。

『けっして本意ではなかったのだ!』

 ・・・決意したのは,まさしくオレが無関係ではなかったということか。

 

 意識がもどったとき,おもわず顔を近づけて頬擦りをした。宙を見たまま彼女がつぶやいた。

「終わったのね・・・」

 しずかに溢れるものがヒトミから頬を伝っていた。「ちゃんと見届けた?」

 ちいさく頷いて「ありがとう・・・」とのみ答えた。あそこで目にした一切のことを,どんなに些細なことであっても口にはしたくなかった・・・たとえ相手が裕子であっても。

 

「ママ,わるいけど・・・かえるよ」

 ヒロコを,家で待っていたい気分になった。なにか張り詰めた気持ちが顔に表れていたのだろう・・・意外にもママはつよく拒もうとはしなかった。

「もう帰るの? ヒロちゃんは呼ばないの?」

「ああ,呼ばない。なにかあって,今夜はおそいような気がするから・・・」

 ママとも,お別れだ!・・・「久しぶりに楽しく飲んだよ」

「青ちゃんの意地悪! こんどは,いつ来てくれるの?」

「そうだな,つぎは,夢の中かも・・・」

「エッ・・・どういう意味?」

「キモチがあっても簡単には来られないってことさ」

「あかん,あかん・・・まじで来てくれないと,店つぶれちゃうからね! わかってるの?」

「分かってるさ」

 はじめて出会ったとき,朝ちゃんは17歳だった・・・こんな人間も世の中にはいるんだと,その自我の強さに驚いたものだ。

 常連客にあいさつをして店を出ると,ママがいつものようにエレベーター前まで見送ってくれる。

「アサちゃん・・・」

 さいごに挨拶を交わすときには,そう呼ぶことに決めていた。乱視用の眼鏡ごしに瞳が輝いている。「いろいろありがとう,ゲンキでな!」

「青ちゃん,また来てね!」

 水商売で生きる人の処世術なのだろう・・・「きょうは,ありがとうございました」と,ママが深々と頭を下げているあいだに扉がゆっくり閉まった。

 ・・・いつまでもガンバレよ!