8月25日の水曜日から3日間,急遽,夏季休暇をもらって裕子と共に東京へ行くことにした。看取りの約束が気になり,遠出をするなら早目がいいと思ったのだ。ただし彼女の勤務の都合もあるし,整理しなければならないことが山ほどあって,一泊二日の短い旅行とならざるをえない。
これが見納めになるだろう。30代までは東京の喧騒が好きだった。近ごろは想い出を手繰って歩くだけ・・・今回も,手繰るために行こうとしている。
小松空港から羽田空港へ・・・大変わりした空港からリムジンバスで台場のホテルに着いたのは,14時前。レインボーブリッジの見える部屋を予約しておいたので,裕子はえらく満悦顔である。
「頼みたいことがあるんだけど・・・」自分の神経を疑ったりもするが,大いなる流れであるのなら,逆らったりするつもりはない。「行ってみたいところがあるから,付き合ってくれないか」
「いいわよ」と,彼女からこころよい返事をもらった。さあ,追憶をたどって猛暑の街を歩きまわるとしよう。
ゆりかもめと地下鉄を乗り継ぎ,むかし慣れ親しんだ赤坂見附へと行く。
円通寺坂を登って稲荷坂を下った。予想どおり,前に住んでいた古住居は取り壊され,侘しいばかりの跡地をながめる・・・建物はなく,駐車場と駐輪場に変わっていた。
赤坂通りに出て,頭に焼きついているあの小路に入った。幾度となく見まわすが,ラブホテルの影も形もない・・・ここだと確信した場所は,時間貸しの平面パーキングに様変わりしていた。
もどって乃木坂に向かう。外苑東通りに面するS病院の入口周辺には,相変わらず高級車が乗り付けられていた。車のあいだを縫って正面玄関のまえに立つ。20年前のさまざまな断片が脳裏を去来してやまない。
自動ドアが開いた。病院から人が出てくる。ドアが閉まり,また開いて人が出てくる。ドアの開閉がオレをいざなう。一歩だけ踏み締める。ドアが開き,それで決心がついた。そのまま前へすすむと・・・外来の待合があたかも私を迎え入れてくれるようだった。
受付へ行って,身分と元職員であることを自ら明かし,懐かしくて院内を見学させてほしい旨を一応は断わっておいた。
待合の横を通りすぎ,エレベーターで2階へ上がる。扉が開けば・・・レジデントたちが所属した研究室の前だ。部屋の中から話し声が聞こえて記憶が鮮やかによみがえる。となりには・・・図書室があったはず。
廊下を左へと向かう。右手にすぐさま図書室の出入り口が見えた。覗いてみると・・・誰もいないようだ。ここまできたら,どうして中に入らずにいられようか! ワクワクして一歩,二歩,三歩,中へとすすんだ。本棚の数が増えて配置も変わっている。そうだ,真子の坐っていた机は?・・・丹念に繰りかえし見まわしても,どこにもなかった。病歴室自体がなくなった? というより移動したのであろう。奥までいって右隅のほうをじっと見つめる。しだいに目に浮かんできた・・・
・・・そこには大きな机があって,彼女は椅子に腰かけ,書類の整理をしている。ふと私に気づいて微笑みかける・・・真子。
「ねえ,ここにいて,だいじょうぶ?」
不意に裕子のおさえた声で現実に呼び戻された。
「だれか来たら,説明するさ」
そう答えたものの,見知らぬ職員が入ってきそうで,余韻に浸っているわけにもいかない。
廊下にもどり,会議室をめざす・・・カンファレンスが行なわれていた場所だ。その前に立ってみたが,さすがにドアを開ける気がしない。Uターンして廊下をひと回りする・・・秘書室もなくなったのか? 分からなくて何ともいえない淋しさを味わった。
再度エレベーターに乗って5階のボタンを押したら,どうしてか胸騒ぎを覚えてならない。止まって視界がひらけると・・・思い出した,ナースセンターが目の前にあったのだ。とたんに緊張も解けていく。
カウンターからは見えにくいが,向かって左側窓ぎわの奥まったところに小さな休憩室があって,そこでよく談笑したものだった。
「なにか御用でしょうか?」
不審に思ったナースがセンターから出てきて詰問した。
「むかし,ここで働いていたものです。ちょっと,病棟を回らせてもらえませんか」
返事を待たずに廊下を歩きはじめる。
『かまうもんか! べつに悪いことをしているわけじゃない。恋しくて回っているだけさ』
と,独りうそぶいた。そういえば当直のとき,消灯前に準夜ナースと病室を回っていたっけ・・・きょうは,裕子がついている。
病棟をぐるりと巡ってみる。
芸能人や著名人,その関係者などが入院して,時には人間模様の見え隠れした個室。 廣行と最後の言葉を交わした,あの忘れられない大部屋。 映画会社日活の入居するビルが目と鼻の先に見えた,くつろぐには狭すぎるロビー。 高額にもかかわらず長期入院の多かった,裕福な人しか入らない,というか入れない特別室。 主として急性心筋梗塞のクランケが入院した,近年では見かけることのない当時の集中治療室。
どこをみても心を掴まれて仕方がないが,そうゆっくりもしていられない。ナースセンターの手前で切りをつけて階段を下りていく。
途中,当直室のあった4階をのぞき,2階では研究室と図書室に向かって別れの挨拶をしておいた。
『あのころ,いろいろと世話になったな。もう来ることはないだろうから,いつまでも頑張れよ・・・じゃあな』
受付に寄って,お礼の言葉を述べて締めくくった。
後日わかったことであるが,S病院は来年に西麻布へ移転するそうなのだ。約30年前に建てられた現在の病院は,求められるハイレベルな医療の役割を十分に果たしえなくなって,機能的に寿命がきたということだろう。そうであるならば,お互い現役として再会できたことは,私にとって単なる偶然とおもえないラッキーな出来事であった。
往時をしのんで東京ミッドタウンの周辺を探索し,六本木通りにきて立ち尽くす。その寂れたビルの中は遮光ガラスで見えにくく,外階段には出入りを禁ずる小さな門扉・・・どう見てもナイトクラブがあったとは思えない。
それから半ば当然のように足が向いて檜町公園へ下りていく。高みから一見すると,以前とは似ても似つかない風景であった。池のすぐ前では,若くてスタイルのいい女の子が日傘をさしてポーズをとっていた。プロのカメラマンが撮影しているようだ。ついつい目がいってしまう・・・出逢ったころ,真子もあんなふうだった。
「気になるみたいね・・・ピチピチ肌のカワイイ子」と,裕子が見兼ねたように言葉をかけてくる。
「そんなことないさ・・・」
「ウソばっかり」
「・・・」 ズバリ見抜かれている。
池のそばの休憩所で一服した。さりげなくチラ見するが,モデルは草木の向こうに隠れて見えない。
移転した防衛庁の跡地開発にともない,檜町公園も再整備されて景観が大きく変わってしまった。かつての面影は微塵もない。運動場のような広場と,周りに備え付けられた遊具・・・都会の一角に,ふつうの古くさい公園があったのだ。たいていは赤坂への近道として通り過ぎていたから,池のある木立の中を遊歩することは殆んどなかった。そうであっても,ここは数え切れないほどに通ったところ,酔って帰りがけに一休みしたところ,真子と夜中にブランコに乗ったところなのだ。どんなに美しく洗練されたものに改善されようとも,親しんだものが消えていく淋しさは拭えない。そのことは,わたしが年輪を重ねた証拠でもある。
檜町公園から赤坂通りに戻って,赤坂サカスの方面は混雑しているだろうから,五丁目交番から三分坂を登っていく。この傾斜もカーブもきつい坂が,元のまま残っているのが嬉しくてたまらなかった。そのあとコロンビア通りを歩いて赤坂見附にもどったときには・・・はや夕暮れ。
「夕食はどこで食べるの?」と裕子が訊いた。
「きょうは,ホテルでディナーを予約してあるんだ」
「えっ,何時に?」
「午後7時」
「なんで言ってくれないの!」
「ゴメン,サプライズにとっておいたんだ。いまから向かえば,ちょうどの時間じゃないかな?」
「ちょうど過ぎ。もっと,のんびりにして欲しいわ」
あわてて来たときの逆コースで台場まで戻らなければならなかった。
電車の中では,行けなかった過ぎし日の TBS 付近を思い浮かべる・・・どうしたって新しく生まれ変わっているに違いない。夏イベントも行なわれているようで,おそらくは追想するどころではなかっただろう。
ホテルに着いたのは予約の10分前だった。部屋に寄って3階のレストランに入ったのは3分前・・・「ほら,ピッタリだろ」って言うと「余裕なし,ってことでしょ」と手厳しい。
案内されたのはテラス席と称する小さなベランダだった。この店にはテラスはないと思っていたので,この目で実際に確かめるまではネットで選んだプランに今ひとつ自信がもてなかった。ようやく合点がいき,正解であったとおもえる。
ベランダは狭苦しいが,二人だけの空間は何にも代えがたく,眺望も申し分ない。レインボーブリッジを一望でき,東京タワーはブリッジを突き刺すように聳えていた。
「あなた,すばらしいわ!」
「おまえのために知恵を絞ったよ」
「どういう意味?」
「どのプランを予約するか,いろいろ検討したってことさ」
「ありがとう」
「もっと早く来ていたら,夕焼けが見られたかも・・・」
「ぜいたく言わないわ。この景色を眺めながら,食事ができるだけで十分よ」
白ワインで乾杯,ゆっくりイタリアンのフルコースを味わう。料理は格別おいしそうにはみえないが,今宵は特別な日となるように・・・とガラにもなく願いを込めつつ,大きめの封筒から小さな手提げ袋を取り出してテーブルの上に置いた。
「今月じゃないけど・・・来月の誕生日プレゼントを,さきに渡しておくよ」
「えっ,ホントに! さっきからおもってたの,その封筒はなんだろうって。今,ここで開けていい?」
「あぁ,いいよ」
手提げ袋に入っていたケースを裕子は丁寧にひらいた。
「これ,ピンクサファイア?」 さっそくプチネックレスを身につける。「うれしい!・・・よく買いに行けたね」
「そうじゃなくて,ネットだよ。だから現物を確認するまでは,すごく不安だったけどね」
「似合う?」
「バッチリ!」
「アリガト」と微笑んで「なんど言っても足りないくらいね」
「きょうは,無理やり歩かせてしまったからなぁ・・・ここで,プレゼントできてよかったよ」
「今年は,あんまり良いことがあり過ぎて,すこし怖いわ。来年は,その反動があったりして・・・」
瞬間,ドキッとする。
「そんなこと,ないよね」
と裕子は言いながら,本気とも冗談とも,とれそうな笑いを浮かべて顔を近づけてくる。 彼女には余計な心配をさせたくない。
「そうさ,縁起でもない。よいことは,素直によろこぶもんだよ」
「だよね」って,ハネ返るように元の姿勢へ。
・・・夜の海原には,光を放つ物体が浮かんでいた。それらは,ほんの僅かずつではあるが移動していて,かつ増えている。
「ねぇ,あれは・・・船だよね」 裕子も気になるようだ。
「どうみても,あれは屋形船だな。東京湾にも,こんなにたくさん屋形船が出るとは知らなかった。今度,あれに乗ってみようか」
「わたしは,どこでもいいけど・・・なんだか,どんちゃん騒ぎしてる人が,いそうじゃなぁい?」
「それは最悪だな,やっぱし止めておこう」
どんな風情なのか?・・・乗ったことがないので分からない。ともかく,次の約束はすべきではない。もういちど東京に来ることはないとおもうから。
料理が順番に運ばれてきて,説明はうわの空で聞きながし,ドアが閉まってから食べたり話したりをつないでいく。
「あしたはどうするの?」
訊かれるまで,ひとつも考えていなかった・・・屋形船に乗ることはできないけれど,船で移動するのはいいかもしれない。
「水上バスで,浅草へ行こうか?」
「水上バス?」
「ほら,あそこあたりに・・・たぶん」
立ち上がり,らしきところを指さした。「お台場海浜公園の乗り場があるはずさ。そこから船が出ていて,隅田川をクルーズできるんだよ」
「いいわね,それ乗りたい」
「じゃ,あしたは浅草だ」
はじめて乗船したときのことを想う。 真子に・・・これから一緒にしたいことがあるから,って浜離宮に連れていかれた。行ってからのお楽しみ,の一点張りで何も教えてくれない。着くまでがイヤに遠く感じられ,やがて見えてきたのは乗船場・・・そこへ水上バスがやってきた時には,知らない分よけいに感動を覚えたものだった。
浅草までふたりで乗った隅田川クルーズ・・・爽快な乗り心地と相まって,この上ない楽しいひとときであった。
真子はどうしているのだろう。東京は真子との想い出の巣だ。手繰れば手繰るほど逢ってみたい気持ちが高まる。
愛なき愛・・・なにひとつ求めないと言いつつも,一目でいいから逢ってみたい。話したいわけではない。その反対であって,この世に在るかぎり彼女には悟られたくない。ただ遠目で見るだけでいいのだ。
・・・とはいうものの,如何にしたら彼女に逢えるのか?
あのころ,まだ携帯電話はなかった。最後に逢ったとき,真子は携帯を持っていたとおもうが,あえて番号は訊かなかった。わかるのは・・・当時の自宅の電話番号のみ。
ダメだ,ダメだ,ダメだ。
いずれにしても電話はいけない。真子にとって,私はとっくに過去の人間なのだ。けっして彼女の現在に甦りたくはない。
・・・にわかに追憶とともに海の向こうから真子がやってくる。
『それに,あなたにはちゃんと・・・命をかけて愛してくれるヒトがいるんだもの』
あのときのまんま,真子が私に語りかけてきたので・・・おもわず腕を組んで東京湾をフラリフラリあるいた。
『嵩子は・・・もう,オレのそばには,いないよ』
『別れたの?』
『そうではないけど,逢ってはいないさ』
『でも,別の女性がいるじゃない,なにも変わらないわ』
『違うんだ!』
と叫ぶやいなや,真子はレインボーブリッジの真上に舞い上がり,微笑んだかとおもうと姿を消してしまった。
そうやもしれぬ・・・裕子がいる。
だけど・・・だけど,ちがうんだ! オレは,あのときから,独りで生きているんだ。 だから・・・死ねるんだよ。
『死ぬときには自ら命を絶とう』
孤独と自死は,やはり密接に関係していると言わざるをえない。独りを貫くために死のう・・・あのとき真子の言葉に導かれるように,そう思った。
私は自らに証明しなければならないのだ,独りで生きていることを。少なくとも実行できなければ独りでいることにはならない。
もちろん真子にも証さなければならない。嵩子にも。そして裕子にも。それは下らない意地かもしれない。だが,孤独を失ってしまったら,わたしは私ではなくなるのだ。
なんとでも理屈はつく。おもうに,大いなる道なのだ。
自身もその道を形成している一部ならば,まさしく正しいとおもえるではないか。正しくなければ人は歩んではいけない。
そのうえで最終的に・・・タウ・タオ・タイなのである。
裕子を見る。 目が合った。
「また,考えごとしてたの?」
「ごめん」
「最高の夜景を見ていても,あなたは飽きてしまうみたいね。いったい,なにを考えていたの?」
「・・・孤独と共生について」
「きょうせい?」
「共に生きることだよ」
「たまには,わかるように話してくれる? 今夜は,わたしの願いをきいてくれるでしょ」
「うまく話せるかな。いつも自己流で考えているだけだから・・・」
「じゃ,自己流でいいわ」
「孤独な・・・人間だからといって,ひとりで生きていけるわけじゃない。生きるって,当たり前だけど,世の中を生きることだから,どんな人間であろうと,この世界を生きなければならない」
ワインを一口ながしこむ。ここでわたしも休まなければ,という感じで裕子も一口ふくんだ。
「もし孤独な人間が,独りぼっちをハカなんで,人や社会や・・・くわえて自然をも避けてしまったら,それこそ一人になって存在している理由を失ってしまう。拠りどころがなくなって死んでしまう。自分がここにいる意義は,世の中のヒトやモノに接して共に歩んでいくこと,そこにしかないんだ」
もう一口ワインをふくんで,ながしこむ。
「孤独な人間は,社会を受けいれて共に生きようとするとき,はじめて独りに価値が見出だせる。孤独を否定する世の中にあってこそ,独りに意味がある。独りをよしとする生き方が主張できる。だれをも拒んでまったくの一人であれば,独りに意味はない。だから,独りでありながら,だんじて一人であってはならないんだ。それが,孤独であっても共生ということだよ」
「とにかく・・・共に生きるということね,あなたも」
「まあ,そういうことだ」
「なぜだかわからないけど,あなたが・・・みずから死んでしまうんじゃないかって,ふっと心配になるときがあるの。でも,大丈夫ってことね?」
「おれは死なないさ」
肝心な,彼女に告げるわけにはいかないところを,私は省いた。
『とことん独りにこだわり,みんなと共に生きていくさ。だがな,その生の果てには,どうしても自死がある。孤独な人間のたどり着くべきところは,オレにとってはどうあっても自死でなくてはならぬ・・・最期を,オノレ以外のものに委ねるわけにはいかないんだよ』
ごめんな,裕子。 ほんとうは『自死するまで,オレは死なない』なのさ。
ところで・・・もしも真子と今も一緒にいたとしたら,オレは命を絶つのだろうか? わからない。それはわからないのだ。
ほんものの『愛なき愛』に到達できたかどうか? 命を絶つか否かはその点にかかっている。
「ねぇ,ダイヤモンドヴェールって知ってる?」
と,彼女は安心したのか,話題を変えてくれたので大いに助かった。孤独のことは他人に話し過ぎてはいけない・・・後味が悪くなるから。
「いいや,聞いたことない」
「東京タワーは,この時間帯になると週末だけ,特別のライトアップに変わるらしいわ。それをダイヤモンドヴェールっていうみたいだけど,今夜は平日だから見られないのね。それだけが残念だわ」
「また今度にとっておこう」
「わかったわ」
どうにも裕子には言えそうにない,今度はないのだと。
メインディッシュのビステッカを食べ終えてから15分ちかく経ったであろうか,ドアが開いて,食後のデザートが運ばれてきた。フルコースの料理は腹にこたえる。大きなティラミスは遠慮しようともおもったが,特別な夜にケチをつけたくなかったので,ジェラードもろとも頑張って平らげた。
時刻はあと少しで21時・・・屋形船の光は,いつのまにか数えるほどしか見えなくなっていた。