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 3月13日,日曜日。

 5時半ごろに起床・・・ついに,この日がやってきた。

 

 裕子が食事の支度をしてくれるあいだに朝刊にざっと目をとおす。大惨事の記事で埋めつくされていて,やりきれない気持ちになった。最新の情報には接したくない・・・なのでテレビはワザとつけなかった。

 朝食をとったのは,6時10分頃・・・むろん,ふたりでいっしょに,食パンにハムエッグという定番メニュー。

 ときおり我れをわすれて,彼女の顔立ちをじっと見ていると,なにか付いてる?って裕子が訊く。いつ見てもキレイだから,とマジメに答えるが,朝っぱらから冗談はよしてよね,って取りあってくれない。

 どことなく初恋の女性に似てなくもない・・・目と鼻と口のそれぞれは違っているけれど,輪郭や各パーツの全体的なバランスが,不意になつかしい面影を偲ばせたりする。とはいえ,あの冷たい美しさとは似ても似つかない感じであるから,長い年月のうちに思い違いが生じたのかも?

 いきなり突拍子もないことが頭に浮かんだ。

 冷たさを温かさにして生まれかわったとしたら・・・それは,裕子になるのではないか!

 バカげてる・・・と思いながらも,何であるのか分からずに追い求めていたものが,あたかもぎりぎりの段階で見出だされたような気分になって心が満たされていった。

 7時過ぎ,彼女が出勤する直前,玄関でみじかいキスを交わす。たぶん自宅マンションに寄っていくのだろう。

「行ってきま~す」

 両手をふって出かけていく,真っ白な・・・恋人。

「行っておいで」

 と,片手をあげて見おくる。そのような普段と変わらないやりとりが今生の別れとなった。

 あとはじっとしてなんかいられず,見えなくなるまで別れを惜しもうとベランダへと走り,とおく垣間みえる道路に必死に焦点を合わせる・・・そこを彼女の車が通り過ぎようとした刹那だった。

 なんと,裕子もこちらを見やったのだ!

 その不安に駆られたような眼差しが頭から離れない・・・おまえは何かを感じ取っていたのだろうか?

『すまない・・・』 今しがたの顔つきをココロに噛みしめる。

 これまで,ほんとにありがとう,元気でな! ・・・『さようなら』

 

 用意をするうちに,残していくものに万感の思いが込み上げる。ほどほどのところで手を打たねばならぬ。

 仕上げの一筆を手紙に書きくわえ,封をしてテーブルの上に置いた。キッチンから包丁を取りだし,新聞紙に包んでボストンバッグに入れる。

 これで,もういい,出発しよう。 目ざすは,奥能登・・・輪島のむこう,曽々木海岸の手前あたり。

 13年前・・・いざという時のために,自死の地を求めて奥能登を探しまわった折りのこと。

 輪島より先の海沿いの道路を走っていると,曽々木付近で路肩が大きくふくらんだ箇所があった。もしやとおもい,広がる景観をたしかめる・・・車外に降り立つと,道路の下は海岸線まで緩やかな斜面を描いており,中途には痩せほそった松が一本だけ根づいていた。その一本松こそ恰好の死に場所におもえたのだが,その後ふたたび訪れることはなかった。

 なにぶんにも位置の記憶はあいまいで,現在でも松の木があるかどうかは定かではない。

 枝ぶりのよい立派な松の根元にもたれかかり,水平線のかなたへ沈みゆく金色の夕陽をめでつつ,舞い落ちる桜のひと片ひと片をおもい浮かべる・・・幾度となく夢想した人生のオワリの光景だ。

 まあ,思いどおりのところが見つからなくても,贅沢はいわないさ。海が見晴らせるなら,どこだってかまわない。日付が変わらないうちに,かならず自尽を遂げるつもりだ。

 戸外へ出て,玄関ドアに施錠をする。

 

 午前9時をすこし回っていた。

 マンションの共用廊下で立ち止まり,おもわず顔が綻んでしまう・・・一年前の蒼天をあおいだ日と同じく,春の朝陽が柔らかく射し込んでいた。

 あのときの奇妙な感覚はウソではなかった。デジャブではなく,あれは未来に対する確信だったのだ。

 その光と・・・コトバを交わす。

 

『ジタバタするなよ,サイゴになって!』

『わかってるさ,それぐらい』

 

 ・・・あばよ。わが家にも別れを告げ,私はブラックの愛車にどっかりと腰をおろした。

 

 

 

 さあ,行こう,新たなる地獄へ!