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 人は死のうとするとき,その前に自己の原点を訪ねてみたくなる。その原点とは何なのか? わたしは漠然と尾山神社にあると思っていた。それは若き日の失恋に関係があることは疑う余地がない。しかし,なんとなく釈然としないものがある。

 

 12月5日の日曜日,裕子は朝食もそこそこにして日勤に出かけた。

 雪のふる前にぜひとも出向かねば・・・と気にかけていた私は,午後になって尾山神社にひとり向かった。

 

 神社の裏手,旧丸の内通りにある有料パーキングに車を止めた。そこから通りに面する東神門まで,あたりを見回しつつ歩みをすすめる。

 大学キャンパスが移転したのち,金沢城は順次復元改修されて,この通りからの眺めはモノのみごとに一変した。過ぎし日のような豊かな森のイメージはない。合同庁舎前交差点から望まれる風景も様変わりし,まったくといえるほどに往時とは異なっている。

 目を凝らす・・・めまぐるしく環境が変化するなか,東神門はかつてのままそこにあった。

 高校生のとき,この東参道の裏門より神社に入り,庭園のまえで頑なに閉じこもって時間をやり過ごし,そのあとは北参道へ抜けるのが常だった。当時の兼六園は無料で出入りできたのであるが,市民や観光客など大勢がたむろしていて好きにはなれなかった。また時間もかかり過ぎる。それにくらべ,尾山神社は人もまばらで通るのも楽であった。

 東神門で立ち止まり,一呼吸して境内に足を踏み入れる。

 胸の奥で,うずうずしているナンともいえない気持ちを抑えねばならぬ。忘却のかなたで星屑になっても煌めきを失わない,無二の知己に再会できるという歓喜・・・そのピカイチの楽しみは最後までとっておくにかぎるだろう。

 神苑と称される庭園・・・わが親友を横目に見やって通り過ぎる。

 いやに建立物が増えているとおもう。どれが昔ながらのものなのか,たやすく分かりそうで,やがて判断がつかなくなってしまった。

 拝殿正面をのぼっていき,百円玉ふたつと五十円玉ひとつを賽銭箱に投げ入れる。小銭はこれだけだから・・・と陳腐な言いわけをして参拝した。ガラス戸越しの拝殿内では偶然にも御祈祷がおこなわれていた。

 神門をくぐって表参道へ。

 周辺一帯がきれいに整備されていて,距離は長くないもののオモテと呼ぶにふさわしい趣きがあった。なかでも目についたのは,参道の両脇にならんだ金色の幟ならぬ衝立みたいなもの・・・金屏風を模したパネルで,夜にはライトアップされるらしい。

 さて,そろそろ戻るとしよう・・・久々に,あそこへ行くのだ。

 

 池のまえでじっと佇んで,まっすぐ神苑と向かいあう。

『変わらない』・・・と思った。

 ・・・オレは変わってしまったが,神苑は変わっていない。むろん細かい部分では変わったところもあるのだろうが,あのころの雰囲気がそこはかとなく漂っている。

 真冬が到来する直前,紅葉の名残りをとどめるこの時節も,近ごろの心境にはちょうどふさわしい・・・七五三もおわり,境内はモノ静かであった。

 ・・・苑内の樹木は,当然ながら前よりも生い茂った気がする。 池に突き出して設けられた藤棚は,いまなお見事というしかない・・・が,落葉しているハンデを考慮しても,以前のほうがスマートだったかな? 生長し過ぎたのかもしれない。 根元の幹の太さといい,こみいった捩れ方といい,ずいぶん年輪を重ねている証拠なのだろう。

 その藤棚の手前,すこし左寄りに,石の縁台がある。そこに座ると,眼前に池がひろがり,すぐ右手に藤棚が見える構図となる。

 失恋して以来,尾山神社を通り抜けることはあっても,一度としてこの縁台に腰掛けたことはなかった。初恋の女性と並んですわったあの日から,まこと35年の時を経て,今ここに座してみる。

 なんという,懐かしい眺めなんだろう!

 ・・・難をいえば,むかしはもっと視界が開けていた。縁台と池のあいだに木々が育って邪魔をしている。

 どっぷり甘酸っぱい追憶に浸りたい,そんな気分だった。ところが,意外なことに,ぜんぜん異なった感慨を禁じえないのだ。

 込みあげる思いとともに胸に去来するのは,彼女のすがたではない!

 ・・・限られた自然と対峙し,そのなかに何かしら安らぎと真実らしきものを感じ取り,現実とも真摯に向きあった若かりし頃のオノが幻影ばかり。

 ウソではない,ホントに,ふたりで座ったのだ。

 ・・・有頂天になったのも昨日のことのように覚えている。されど,今となっては,命より大切であった人に心ときめくことはない。 ただの遠い日の一コマに過ぎなかった。

 

 神苑がわたしに深くかかわったのは,振りかえってみると・・・恋にかんしてではない,孤独にかんしてだ。

 ここで思索に没頭し,たとえ独りであろうとも,だれをも恨まずに生きぬく力を身につけた。それこそ真に,私の原点といえるものである。

 その後に味わうことになった失恋は,わたしを否応なしに閉ざされた世界へと導いて,そこから新しい生きザマがはじまった。失恋がなければ,孤独をきわめる道はありえない。人生の一大事は,まちがいなく私の運命を決定づけたのである。

 新しい道のはじまりは,原点のおわりを意味する。

 失恋は原点のおわりであったというのに,なぜか原点そのものであるかのように記銘されてしまった。孤独の象徴であった神社は,あやまって悲恋の象徴としてのみ記憶に残ってしまったのだった。したがって核心の部分が欠落したまま,恋にやぶれた悲劇だけが神社と一体化し,記念碑のごとくココロに刻みこまれたのである。

 ようやく蟠りがなくなって得心がいく。

 ただ不思議におもえるのは,あの日のことを想い返しても,ココロがいっこうに揺れ動きそうにないこと・・・あまりに醒めていて,恋に一途だった過去の自分がいつわりに思えるくらい。愛を捨てた結果でもあるだろうが,おそらく真子のせいなのだ。でも余分なことは考えたくない。

 

 尾山神社神苑は・・・孤独な精神をはぐくんだ私の原点である。

 大学生になると,気が滅入ったときなど海をたびたび見に出かけたが,若年の私にとっては神苑が海だった。

 その神苑という海には,わたしが私となる以前の,かけがえのないオモイデが鎮められている。それは・・・青春と呼ぶには早すぎる頃の,純なココロで愛してやまなかった命がけの初恋・・・なのに,実をむすぶことなく散ってしまった悲恋のこと。

 あの日,彼女とふたりで訪れて,神苑と相まみえた。

 ゆえに・・・神苑は知っている! わかき日の恋に悩めるわたしとその相手のことを。

 いうなれば・・・神苑こそは,わたしがまだ青いままに女性を愛した,この世に存在する唯一無二の証しなのだ。

 ところで失恋は,未熟な若さにトドメの楔までも打ちこんで,人生行路における一大転機となった。それ以降,わたしは孤独を意識して自らの道を歩みはじめる。

 そういう経緯があって,神苑は海であると同時に,あたかもモニュメントのような形で私のなかに存在しているのであった。

 

 本物の海を見るようになって思ったこと。

 山は・・・肉体のシンボルであり,海は・・・精神のシンボルである。海のつねに流動してやまない本質は,精神とよく似ている。

 海を眺めてココロが洗われるのは,疲れて凝り固まった意識が海に同調して自然に動くからだとおもう。いわば・・・海というものは,魂をマッサージして本来の自在な流れへと導くのであろう。

 神苑の静かな佇まいは,私の心のうちに絶え間ない流転の波を起こさせる。

 

   かつての愛が葬られている

   神苑という名の海には,まぎれもなく

   私の原点がある。

 

 この日の結論だ。これで終わりを告げられるとおもった。

 けれど,解決できてうれしい気持ちと,一歩ずつ終焉に近づく淋しさが交錯して,人の弱さというものを感ぜずにはいられなかった。

 

 縁台から立ちあがる。神苑内を歩いてみたくなった。

 ゆっくり築山をのぼっていく。清らかな滝の流れを見て,なにげなく振りかえった刹那だった。あわてて作り笑いする彼女の顔がおもい浮かんだ。

 そうだ!・・・この道をふたりで歩いたのだ。

 ・・・間違いない。さほど乗り気じゃない彼女の冷めきった顔つきを覚えている。いったい私はどんなことを話したのだろう? 座っても,歩いても,朴訥と精いっぱい語ったであろうに・・・なんにも思い起こせない。

 遙拝所をおりて庭園の中央にかえり,池にうかぶ島へと歩をすすめる。沢渡りと八つ橋を踏みしめる。図月橋をわたる。藤棚を池ごしに眺める。

 はっきりしたのは,あの頃は,ほとんど神苑の中を歩かなかったことだ。いつも縁台にすわり,海と向き合うように見つめていた・・・心のなかで絶えず己れと格闘を繰りかえしながら。

 

 ふたたび縁台のところへもどって藤棚の手前に立った。池には鯉がゆったり泳いでいる。

 鯉よ,おまえは幸せなんだろうか・・・ここで囲われて,いのちは保証されているだろうが,つまらなくはないのか?

 大きなお世話だ,というように鯉はクルリと方向転換した。

 わかった・・・そんなことは関係ない,と言うのだな。この池に,望んで住んでいるわけでもなかろうに,人間より分かっているではないか・・・おまえは,どこにいても,どのような目にあっても,不平も言わずに泳ぎつづけることだろう。

 私も,そのような心境でありたいのだよ。

 タウ・タオ・タイ・・・さあ,これで,おしまいにしよう。

『さらば,オレの原点!』

 

 藤棚を一瞥して踵をかえす。

 拝殿正面で立ち止まり,神社にも別れを告げた。道筋は考えるまでもない,往年を偲んで北参道へ向かう。

 金渓閣を過ぎて北の鳥居をくぐり抜け,真っすぐにすすむと大谷廟所が見えてきた。この敷地内には女子高と定時制高校があったはずだが,現在その形跡をみつけるのは容易ではない。

 当時を回想するうちに,ふと思いだす。この近くに友人の家があった。正確には友人の母親の実家である。祖父の看病のため,友人が母親と移り住んでいた時期があり,私はいくどか遊びに行った。

 記憶をたどって探してみると,周囲がガラリと変わったなかに,その家だけが旧態依然として残っていた。

 いま見ると,古風でなかなか風情のある屋敷だ。親しみがわいて玄関に近づいてみたら・・・表札の名前が違っている。淋しい心持ちになって懐かしさも一瞬のうちに萎んでしまった。周りの状況から判断すると,この家も今後どうなるか分からない。

 神社仏閣は,過ぎ去った時代との架け橋になっているのだろう。いろいろなものが新しくなるなか,旧きを守って現代を生き抜いている。

 パーキングへもどる途中,ゲートで封鎖された甚右衛門坂が見えた。坂道の両がわには樹林が密に生い茂り,むかしの面影を伝えている。心惹かれながら坂の前をおもむろに通り過ぎようとしたとき・・・忘れ去っていた一場面が突然よみがえる。

 あの日,この坂で彼女と別れたのだ。

 

 ・・・甚右衛門坂をのぼってゆく彼女の後ろすがたは,たとえようもないほどに美しくて冷たかった。できれば見ていたいのに,それ以上に振り返らぬ彼女を見たくはなくて,わたしは即座にその場を離れたのだった。

 

 苛立ちをおぼえて立ち止まることなく駐車場へと急いだ。

『もう要らないんだ! きみの想い出なんて・・・』