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 あるがままでいいのだ。

 ・・・過つがままに,と言っても差し支えないのかもしれない。その先にしか,真実は見えてこない,良いことであっても悪いことであっても。そして,見えなかったとしても,後もどりすることはできない。

 嵩子と逢ってから,浅谷さんを少しでもいい方向へ導こうとする気持ちは,まるっきり無くなってしまった。

 夕方や夜の回診では,話題に困らないよう医療現場でのエピソードを持ち出した。テーマは入院中の患者さんから頂戴する。

 

 11月下旬,施設に入所中の頸髄損傷の男性が持続する発熱にて紹介され,肺炎と心不全合併のため入院となった。

 年齢は56歳,私と2歳しか違わない。

「三日前に,寝たきりの50代男性が,肺炎で入院することになりました」

「50代で,寝たきりですか?」

「51歳のとき,てんかん発作がおきてトラックの荷台から転落したそうです。運がわるいことに,首を打ちつけて頸髄を損傷し,四肢麻痺の状態に陥ってしまった,ということです」

「あのぅ・・・漏らしてもいいのでしょうか? 患者さんの個人情報・・・」

「この病室では定期的に,特別な医療カンファレンスが開かれているんです。少なくともボクはそのつもりで話しています。名前や病棟を公表したわけでもありませんし,それに浅谷さんが,だれか他の人に喋らなければ不都合は生じないでしょう」

「それなら,わたしも参加します」

「きちんと説明すれば,患者さんも分かってくれますよ。それが,主治医との信頼関係というものです」

 言い過ぎであったが,事実を語って動じる男でもない。「じつは,彼はさまざまな要求をしてくるので,ナース泣かせの患者なんです」

 頚髄損傷の人たちは,見たところ,みな癖のある性格を有している。頭は普通なのに手足を動かせないから,やって欲しいことすべてをだれかに頼まなければならない。そのため世話をする人たちにやたらと注文が多くなり,性質も似かよってくるのである。

「ときどき気に入らないことがあると,ナースにけっこう辛くあたるので,じつのところ困っています。もともとは心根のやさしい人ではないかとおもうのですが・・・」

「せんせいは,その人の味方ですか? ナースさんの味方ですか?」

「両方の味方です」 つい,聞こえのいいことを言ってしまった。ホントはどちらの味方でもない。

「わたしは,いつでも,ナースさんの味方ですよ。彼女たちのお仕事は,とっても過酷ですもの・・・」

「ですが,彼の言い分が正しいというか,考えてみると,ふつうのことを主張しているんです」

「どうも先生は,あちらの味方のようですけど・・・」

「ぼくは,どちらかといえば,ナースの味方ですよ。でもですね,スタッフ全員,病気とか事故とかで重い後遺症に悩まされた経験がないから,頚髄損傷の人の論理がわからない。そのことは仕方がないけれど,分かったような口をきいたあげくに普通人の論理を通そうとする・・・それが許せなくて彼は剥れてしまうんです。きのうもご機嫌斜めになって,身体を触ろうとすると,暴言を吐いて抵抗したみたいです」

「暴言は,いやですね・・・」

「そこなんですよ,浅谷さん。暴言はイヤかもしれませんが,彼はそのようにしか自己主張できない。自分の意思を,どう転んでも行動では示せないから,どうしても口でアピールせざるをえない。ふつうの人なら言葉以外の手段に訴えることもできるし,だいたい問題自体がおきていないでしょう」

「でも・・・暴言はダメです」

「わかりましたが,一応断っておきます。彼は,だれにでも反抗するわけではありません。たとえば,罵詈雑言はいけませんと言うばかりで,その状況をすこしも考えようとしない人に悪態をついてしまうんです」

「それでも,ダメだと思います」

「・・・ダメですよね」

 人生のなかで一度たりとも暴言を吐かない人なんて,この世にどれだけいるというのだろうか・・・凡人として彼のことをもう少し弁護したかったが,浅谷さんは経験から物を言っているのだとおもったから,ここではあえて否定しなかった。

「もちろん,ナースたちにも言い分があります。いちいちまともに取り合っていたら仕事になりませんから。なんといっても女性たちは強い。協力しあって罵倒をものともせず,一気に作業を行なったそうです」

「作業というと・・・」

「きのうは,おむつ交換だったようです」

「シモのほうも,お世話してもらわないといけないなんて,さぞかし惨めで哀しいでしょうね・・・言葉の暴力はいけませんが,そのような気持ちなら分かるような気がします。病気のことは,患った本人しか理解できませんから」

「ぼくも,それが言いたかったんです」

「かわいそうな人なんですね・・・」

「いけない,ずいぶん遅くなりました。つづきは,また明日にしましょう。おやすみなさい」

 

 翌日,帰宅前に浅谷さんの病室へ立ち寄った。

「きのうの麻痺の人なんですが・・・」と,まず浅谷さんに訊ねられる。

「そうでした。つづきをするんでしたね。なんでしょう?」

「じっさい,ナースさんと,どんなことで揉めてしまったのでしょうか?」

「胃瘻からの経管栄養,つまり流動食のことで揉めたんです」

「食事を,とれないのですか!」

「話すことはできるんですが,嚥下障害があって,飲み込みが悪いんですよ。肺炎を繰りかえすので,ことしの夏に胃瘻を造設したそうです。ほかにも膀胱瘻といって,下腹部から膀胱に直接カテーテルが入っています」

「その人も大変なんですね・・・」

「そうなんです。手足は動かせないし,胃腸の神経も侵されているから,便秘になってお腹もよく張ってきます。おとつい彼は,お腹が張っているために,昼の経管栄養の時間を遅らせてほしいと頼んだみたいです」

「それは,遅らせてあげたいですね」

「ナースも彼のために,時間をずらしたんですよ」

「それでは,どうして揉めたのですか?」

「1時間遅れで行なうはずだったんですが,約束の時間になっても調子が悪かったのか,今度はやりたくないと訴えだした。でも,ナースが勝手に中止することはできません。それで本人が嫌がったにもかかわらず,流動食を開始しようとした矢先に・・・あとは,なんとなく想像がつくでしょ」

「抵抗したのですね・・・」

 いっしょにニヤリとして顔を見合わせた。

「彼は大声を出して,すさまじい勢いで騒ぎはじめました。病室には他の患者さんもいるので,とりあえず流動食を止めてから,ぼくのところへ連絡がありました。病室へ行ってみると,たしかに彼はものすごく怒っているんです。顔つきを見て,絶対に説得できないと思ったので経管栄養は中止しました。その代わり,点滴をしましたけどね。たぶん,ぼくらが考える以上に,お腹の張りがひどかったんでしょうね」

「・・・どちらにも言い分がありそうですね」

「そのあとは,きのうも話したとおり,ずっと騒ぎまくってオムツ交換をさせてくれない。放っておくわけにもいかないので,ナース数人が彼のところへ行って,宥めながらも罵声には一切耳を貸さず,すばやくオムツ交換をやり終えた・・・そういうことです」

「やっぱりナースさんは偉いですよね。いろんな患者さんを世話しないといけないですから・・・」

「彼も立派ですよ。その日のことは忘れて,いまはナースたちの言うことをちゃんと聞いていますから」

「ホントですか」

「自らの現実を知っているし,障害者の論理が理解されにくいことも学習しているとおもいます」

「その人のことを,くわしく観察しているんですね」

「どうでしょう? そんなふうに意識したことはありませんが,見ているとなかなか勉強になります。それに,みながいうほど彼がキライではありません。武骨な感じがして,どうみたって素直ではない・・・けれど,そこがいかにも人間的で憎めないとこなんですよ」

「わたしも,先生に見られているんでしょうね」

「ごくフツウに」

「どんなふうに見えているんでしょう?」

「ありのままに・・・」

「先生らしい答えですね」

「ぼくは医者ですが,ガンを患っているわけではありません。いくらガンを患ったつもりで患者さんのことを考えても,どこかしらかならず違ってくるとおもいます。それなら下手に考えないで,浅谷さん自身をあるがままに見て判断したほうがいい・・・頚髄損傷の彼にも同じことです」

「なるほど,そういうことですか」

「口幅ったいことを言うようですが,大病を経験した医者のみが,本物の医師になれるのかもしれません」

 自分のことは棚に上げて偉そうなことを語ってしまった。こんやは,このあたりで止めることにしよう。