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裕子へ

 

 

 

驚いたかな?

筆不精のおれが,手紙を書くなんて・・・なんかヘンだろ。

でも,浅谷さんが亡くなってから,のっぴきならない事情ができたんだ。

 

きょうの日をかぎりに,じつはね・・・おまえに,トワの別れを告げなければならない。

おまえがこいつを読むころ,おれはすでに,この世には・・・いないかな?

それとも,虫の息になりながらも海を眺めているかな?

じっさいのところは分からないけど・・・あしたになるまでには,かならずやこの世界とおさらばしているはずだ。

さいごのさいごまで・・・ホントに,ごめんな。

こんなに身勝手な振舞いをしておきながら許しを乞おうなんて,あまりにも虫がよすぎるというものだろうが,せめて自分のありのままを語るぐらいなら許してくれるだろうか?

どうだろう?

正直に告げるよ・・・たとえ拒否されようとも,おれは伝えておきたいんだ。

おまえにどうあっても知ってもらいたいんだ。

 

なにゆえに,かくのごとき生き方をなさねばならなかったのか?

 

おれが不器用な自分に気づきはじめたのは,ふつうに思春期のころ。

ある女性を好きになって,この人しか愛せないし愛したくないとおもった。

片想いにもかかわらず,命をかけて真剣に愛を育もうとしていた。

ところが,言うまでもなく・・・恋愛するまえに失恋してしまったんだ。

あとはもう,愛することなんかどうでもよくなって,己れのなかの非自己をことごとく無くしてしまいたい欲求にかられた。

自己を完全に占有して,だれにも左右されずに生きていきたい。

もともと孤独だったおれは,自らの哲学でさらに武装することにしたんだ。

 

完ペキに遂行するには,どうしても自己の実体を知らなければならない。

当然ながら,その過程で自己の本質も知ることになった。

おまえも分かっているだろう・・・ほかならぬ,ナニも持てない自分だ。

のちに振り返ってみると,そんな資質は実体のありさまを捉えるには有利だったのかもしれない。

 

実体とはナニか?

真に存在するもの,今この瞬間にも実在しているものである。

もとより物体のことを指しているのではない・・・感じているモノのことだ。

 

人類が知的に生きるようになってこのかた,たえず現実に在るそれそのものを感得しようと挑んできた数多の先達たち・・・第一に,仏陀

『色即是空 空即是色』

この有名すぎるフレーズは,実体智がなければ綴られることはない。

しかし,おれは・・・さらに余すところなく知り尽くしてみたかったのだ。

いっさいの妥協を排して,追い求めつづけた青春の日々。

 

おまえは,おれの考えていることを知りたいという。

おれも思うところを語ってみたいときがある。

だが,実体に関しては,どのように明かそうとしても無理があるのだ。

若いころに言及したことはあったけれど,伝えづらいものに理解を示した同志は,だれ一人としていなかった。

それは・・・あたりまえのこと。

自己を占有するため,おれには是が非でも必要であったことも,おしなべて不要なことなのだ。

必要でないことは会得しようとしないか,もしくはできないか,どちらか。

でも,いささか説いてみたい・・・おまえにだけは語ってみたいのだ。

 

 

 

実体智または不動智。

在るものを感得することで掌中におさめられる智慧,といった意。

わたしは実生活のなかでは,このんで不動智と呼んでいた。

古くより使われている用語であるが,たぶん微妙に意味合いが異なっていることだろう。

 

つねに絶えまなく今ここに在って無くならないもの・・・実体。

それは・・・自己と呼ばれ,ふつうに意識されているもののように思われる。

しかるに意識されているのは,実体とともにある相対,いわば虚体のほうだ。

確認しておきたい・・・考えを論じようとしているのではない。

わたしは実際の事実のみを述べている。

実体と虚体のありようは次のようだ。

   実体は虚体であり,

         虚体は実体である。

   実体は虚体でありながら

         虚体ではない。

   虚体は実体でありながら

         実体ではない。

このように表現するのが,もっとも違和感がない。

 

似たような関係のものは実体の関わるところで見出だせる。

たとえば・・・肉体と精神。

   肉体は精神ではなく,

         精神は肉体ではない。

   しかれども,

   肉体は精神であり,

         精神は肉体である。

肉体は行ない・行動に,精神は考え・こころ・思索などに置き換えたほうが解しやすい。

ただし,派生した同じような性質のものが見て取れるからといって,その大本のものが読み取れるとはかぎらない・・・かえって難しくなるばかりなのだ。

 

実感していても掴みどころがなくて指し示しようのない・・・されど,自分なる相対と一体をなして紛れもなく存在している,精神の根源。

そのような意味合いから,虚体を相対と言いあらわすとき,わたしは実体を相対そのものと言いあらわす。

そうすると先ほどの実体智は,以下のようにも言いあらわされる。

   相対そのものは相対であり,

      相対は相対そのものである。

   相対そのものは相対ではなく,

      相対は相対そのものではない。

むろん相対に対して相対そのものは絶対的であって,いわゆる絶対と称してもかまわない。

 

さて,ここまできて分かるように,もっともらしく述べていること自体が,相対そのものを感得できていなければ了解しがたいのであって,まったくもって説明になっていないと強い非難を受けることだろう。

しかしながら,実体の本性のうえからは,それは致し方ないことなのだ。

 

では,相対そのものを感得するには・・・というと,唯一の方法しかない。

自らの内部に収束すること,それのみが手段である。

聞いているぶんには簡単そうであるが,これがなかなかのクセモノなのだ。

なぜなら行なおうとする時点で,すでに誤っているからである。

自己はつねに相対そのものから発散している。

そのため収束しようとして反対に発散している過誤から,どうころんでも抜け出すことができない。

よってイメージしているかぎり,永久にゴールに到達することはないのだ。

体得するには,自己を滅する態度が不可欠であるが,如何せん意識すれば可能というシロモノでもない。

あえて言うなら,自己が崩壊してしまう状況に身を置くしかなかろうか。

 

滅して相対そのものに達するとき,相対は空となる。

そこに自己はない。

すべてが一となる世界である。

そのときの相対そのものを,真諦とわたしは呼ぶ。

そうなのだ!

内部に収束するとき真諦という相対そのものに至り,

外部に発散するとき自己という相対そのものになる。

 

自己として在るとき,発散してくる相対が見えるばかりで,相対そのものを感覚あるいは推測できても感得することはできない。

逆に,自己を滅しきることができれば,おのずと在るものが現われる。

とはいっても,外部に働きかけようとすれば,滅しきれるものではない。

世にいう悟りの境地に自己が入り込んでいく齟齬を,わたしはつねづね感じていた。

 

その刹那,にわかには信じられなかった・・・まさか,これが真実なのか!

無意識に行なっていることこそ,掴みがたい。

真諦と自己は,じつは同一のものなのだ。

まさしく実在するものの裏と表の顔といってよいであろう。

 

自己と真諦・・・在りかたは始原からして,あくまでも対照的だ。

もとより,対極に立っているといっても過言ではない。

自己にとって真諦はどこまでも相容れないもの,いっぽう真諦にとってはそうではない・・・真諦は自己を否定しえないのである。

相反しているといっても,おさまるところは案外に似かよったりもする。

そうして,万事のかぎは相対そのもの自身が握っているということ。

 

西洋では自己によって相対を展開するが,その出どころを決して捉えることはできない。

東洋では真諦によって相対を展開し,その在りどころをまさに把握することができる。

 

おもうに,いずれにも利と不利がある。

西洋的自己では,絶対といえる相対そのものを捉えられないため,精神的にはいろいろと不安定だ。

ゆえに,全知全能の神が求められる。

発散するものといえば・・・あまりにも多種多様で,おのおのが独自性を主張してやまない。

それにたいして東洋的真諦では,相対そのものを見据えてこころは落ち着き,自分を見失うことがない・・・が,収束することは平穏をもたらす反面,周囲への働きかけは残念にも不得手となりやすい。

けれども,あらゆる個体がそれぞれの持ち味を活かしつつ,全一なる宇宙に辿りつくとすれば,それはすばらしく画期的なことであるはずだ。

 

西洋と東洋における根本的な差異は,近ごろ曖昧になっているものの上述したような,実体の違いにあるとわたしは思っている。

しかし両者を比較すると,東洋には物足りなく感ずるところがあった。

のちになって認識した・・・時間の欠如。

いや正確には,時間の概念すら真諦には要らない・・・滅することがすべてであるから。

ところが西洋的自己の場合,相対そのものを明らかにしても,まだ完全に占有できない部分がわたしのなかに残っていた。

 

そう,別モノの実体があるのだ。

・・・時である。

かこ,げんざい,みらいの時ではない。永遠のげんざいという時でもない。

比べるものがない時なのだ。

相対そのものを容れる時・・・時そのもの。

時の実体を,わたしは時そのものと言いあらわすことにした。

 

時そのものは相対そのものによって刻まれている。

   時そのものは相対そのもの,

      相対そのものは時そのもの。

また,このように言っても差しつかえない。

   相対そのものは有実体であり,

      時そのものは無実体である。

 

刻まれているとは,いったいどういうことなのか。

相対そのものが消滅するとき,どうじに時そのものも消滅する。

すなわち,わたしが尽きるとき・・・時は,終わるのだ。

このあたりのことについては異論もでてくるだろう・・・自己とは,そういうものである。

真諦には,そのような問題は生じてこない。

 

今わたしは,自分が死んでもかならず誰かが生きていて,時は永劫につづいていくと想定することができる。

が,わたしという実体がなくなれば,未来の仮定どころではない,自分自身にとっての時自体がなくなってしまうのだ。

そう書き綴りながら,あることに気づいて暗澹たる気持ちに陥っていく。

・・・時そのものの論理は,単なる時に関する記述と,外面上それほど変わりないではないか!

かといって筆をおきたくはない,自らを勇気づける。

・・・なんの変哲もないということが,無の実体の証左といえなくもない。

ほかに,否定の手段を用いることは可能である。

 

永遠の現在も,在りつづけるものをしっかり把握しているとはいいがたい。

相対そのものがなければ時の実体は存在しえないのであるから,永遠の現在は一つの概念に過ぎない。

時そのものと永遠の現在は相違している。

正しくは,現在そのもの,ないしは永遠そのもの,と言われるべきであろう。

時の在りかを真に認識するには,やはり相対そのものを感得できていなければ困難と言わざるをえない。

 

時そのものという本物の時は,相対そのものが現存することによって刻まれている。

 

以上が,実体の大まかなところであるが,肝要な箇所を確認しておく。

自己として在るかぎり・・・己れの根源は,いかなる心眼をもってしても,見極めることはできぬということ。

おわりに一言つけ加えたい。

相対そのものを,ゆめゆめ覗きみようとするなかれ。

ヒロコ・・・おれは,マジにそう思っているよ。

 

 

 

久しぶりに実体の論証をこころみたが,あまり気分のいいものではない。

苦心して説き明かそうとすればするほど,真実から遠ざかるような気がする。

それは,感得するものであって,論証するものではないのだ。

だいたい現に,ここに在るのだから,あらためて把握するまでもない。

重要なのは,そいつを感じて生きることだ。

それで現実に立ち戻ってからは,実体にかんする一切を封印してきた。

おまえにも,こんなバカげたことを分かってほしいのではない。

これまでどうしても伝えられなかったことを語りたいがために,下らぬとはいえ,おれが真剣に向き合ったことを多少とも知ってほしかったのである。

 

二度とない青春をむだに費やして,なんなのか定かでないものと悪戦苦闘を繰りかえすうちに,余分で不要な領域を獲得したおれは,世の中に戻ってはじめて,欠落したものが必要で大切な領域であることを見出だした。

もともと自己を完璧なまでに占有するのが目的であったから,当然といえば当然,すでに非自己の入りこむ余地はないに等しかった。

一抹の不安を覚えずにはいられなかったものの,仕方がなかった。

今後,女性を愛することはないだろうし,結婚もしないと覚悟をきめた。

 

意図したわけではないが,奇妙なことに自己を占有しているありさまは,見たところ非自己に占有されている状況に似ていた。

なぜなのか?

無為に過ごしているあいだに,何も持てない本質を自覚したおれは,あらゆるものを捨てて何ひとつ持たないで生きようとしていた。

ナニも持たなければ,現実に求めるものはナニもない。

自己を利己的に占有して本性にしたがえばしたがうほど,周囲には相手を受けいれているかのようにみられた。

このような倒錯的事情はだれにも理解されようがなく,ある種の思い違いを惹きおこすことは否めない。

 

それと,もう一つ・・・容易に掴みとれそうであるのに,じっさいに生活していても十分には呑み込めていないことがあった。

自己の占有と何も持たない生き方・・・二つのことは資質として表裏一体をなすばかりでなく,その実現には互いを不可欠としていたのだ。

 

国家試験に合格して医師になったおれは,新人として共に働いた女性と半同棲生活をおくるようになった・・・もちろん彼女はおれを愛していた。

はじめは,他のことと同じように受けいれたのだが,おれも彼女が好きだったから,だんだん愛みたいな感じで暮らすようになっていった。

本当のところ,愛ではなかったものの,それだけなら致命的にはならなかったはずだ。

もんだいは・・・彼女の一途な想いを痛いほど承知していながら,おれが別の女性を愛してしまったこと。

 

あれほど,愛は要らないと断言していたくせに。

おれの生き方には,愛は禁物だと知っていたくせに。

惚れていても心の奥底では,愛は持てないと信じていたくせに。

それなのに,愛してしまったのは,どうしてなのだろう?

初恋に命をささげたけれど,熟することなく失恋してしまった・・・過ぎし日の傷あと。

愛する女性は一人のみと,強がりじゃなく本気で思っていたけれど,まことの恋愛を知らずに終わってしまった・・・おさめきれない淋しさ。

愛なんかどうでもいいと言い放っていても,本物の恋愛に,さぞ未練があったにちがいない。

こころのどこかできっと,命がけの恋を欲していたのだ。

 

だんじて持たないと決めていたものを,この愛ばかりは死んでも手放したくない,なにがなんでも成就させてみせる・・・そんな気持ちだった。

三十代になって,まるで未熟のまま終わらざるをえなかったあの十代の悲恋の続きをするかのように,おれは命をかけて別の彼女を愛した。

もはや,自己矛盾なんぞ眼中にはなかった・・・恋は盲目というように,恋愛感情を制御することなんて絶対にできやしない。

禁断の恋に,おれはどんどん引きこまれていった。

むろん結婚も視野に入れていた。

だけど,元の彼女はどうなったのか?

想像をはるかに超えて,目の前でみるみるうちに壊れていったのだ。

いかんともしがたい,その悲惨なすがたは,今もこころの内奥に刻まれていて消え去ることはない。

おれには所詮,元の彼女を切り捨てることなど,できるはずがなかった。

 

どのような理由があったにせよ,二股をかけた愛が実を結ぶなんてことは,万が一にもありえない。

神経をすり減らしてでも花開かせたかった恋は,けっきょく別の彼女によって破局へと導かれた・・・誰のせいでもない自業自得だった。

 

愛してる。

このうえなく愛しているのに,捨てなければならない。

だがしかし・・・おれはたえず,こころの奥深くで感じていた。

愛は捨てられても,ナニカを持つことはできない。

 

土壇場に追いこまれて,ようやく判然と一つに繋がった。

何ひとつ持たずに生きる・・・そういう自分を貫くには,いかに最愛の女性であろうとも,あきらめなければならない。

何も持たないことに,つまりは,例外はないということだ。

自己を,うそ偽りなく占有したいのなら,どうあろうとも愛を捨てなければならない。

愛のみならず,すべてのことを捨て去らなければ,それは遂げられるべくもない。

帰するところは,なんとも分かりきったようなことであった。

何も持たずに生きることが,とりもなおさず自己を占有することなのだ。

いずれも同一の本質を意味している。

 

愛を捨て去るとき,おのずとありとあらゆるものを捨てることができる。

愛とは・・・所有の最たるものであるから。

わが道を歩んでいくために,愛をみずから遺棄しなければならぬ。

この愛を捨て去るという道こそ,定めなのだ。

それ以外はまるっきり縁がなかったし,おれも孤独の道しか望みたくない。

 

もし今でも愛せるとすれば,ただひとり・・・それは永遠に変わらない。

別の彼女が,むかし愛したときのままで,ずっと心のなかに生きている。

おれの胸のなかで,あいつはいつだって微笑んでいるんだ。

 

もうナニもいらない・・・自己さえあればいい。

愛はいらない,愛なんか無用の長物,こんりんざい愛はいらないんだ。

この一瞬に能うかぎりのオノレを尽くすことのみ。

 

そのような状況のなかで,新天地をもとめてK病院に就職した。

追いかけるように,おまえもK病院にやってきたんだ。

運命の出逢いだった。

おれは,おまえをすぐに気に入ってしまったよ。

おまえも,おれをこころから愛してくれた。

 

できうることなら,おれもおまえをふつうに愛したい。

でも,それはできないんだ。

おまえがいつも,もどかしく感じていたように,おれにできるのは・・・愛さないままに愛することだけ。

 

だれも愛さない,それがおれの生き方だから。

それでも,愛さないままに愛するよ,それが無限の愛だとおもうから。

やっと分かったけど,愛なき愛とは・・・愛の極致に近づく道なんだ。

なぜなら,たとえおまえに裏切られても,おれは一向にかまわない。

裏切らねばならなかったおまえを,ありのままにどこまでも信じるよ。

おまえのためなら,この命は果ててもいい。

だから,おれはまちがいなく,おまえを愛しているのだ。

 

たしかにそうだけど・・・愛なき愛はひとつの愛だけど,いくら能書きを並べたところで言いわけに過ぎないのだろう。

おまえが寂しい思いをしてきた事実は,消し去ることはできないのだから。

これから,おれがやろうとしていることも,その証拠みたいなものだから。

 

おれは医師として,いろんな死を間近でみてきた。

そのなかで,死をみずから受けいれて最期をむかえた人はごく僅か。

医療が高度になればなるほど,人間は素直には死を受けいれられないのだ。

 

人は・・・相対のなかで生きている。

人間は・・・相対を離れては生きていけない。

その相対について,ちょっぴり考えてみたほうがよい。

相対とは,例外なく陰陽があり,そしてかならず影響しあう。

どんなにすばらしいことであっても,その負の作用を免れることはできない。

すなわち影響は・・・すぐに顕われなくても,目にみえなくても,当事者が感じなくても,ないということはない。

それが相対の原理である。

その意味で現代の発展のつけは,この世の中を回りに回っている。

 

疾病にしても・・・治療にかんしては同じことなのだ。

治癒するなり,軽快するなりの正の効果はたやすく感じられても,表裏をなす負の作用を察知することは一般にはない。

それは,かくれて見えないまま影響しているからにほかならない。

知らないうちに,こころに微妙な変化を及ぼしている。

逆の場合のほうが捉えやすい。

よくない環境の負の結果は,だれでもはっきり認識できるが,じつは正の作用のほうが重要である。

艱難汝を玉にす,などがそのことだ。

 

医師にいたっては,たちの悪い病人のようなヤツがたくさんいる。

疾患はそのようであるはずだと思い込んでいるのを,本人は露ほども気づいていない・・・これでは認知症の周辺症状ではないか!

 

そんなふうに突きつめて考えていくと,良いと思われることが果たして本当に好ましいことなのかどうか?

 

おれの結論はこうだ。

すべては・・・そのままであり,それなりであり,それだけである。

 

生命は大事なれど,ただの長きを求めたくはない。

病気は必ずしも,完治しなくても差しつかえない。

自分らしく生きる分相応に治してほしいだけ。

やがて迎える最期には,納得できるかたちで一生を終えたいものだ。

自死は・・・『オレなりの医療』への挑戦なのかもしれない。

 

オノレのなかにも影響がある。

本質を極めるのに,さんざん苦労を重ねたけれど,もっとも肝心なことは何であったのか?

それは・・・ふたりの女性との出逢いだ。

 

おれは,己れの生きかたに驕っていた。

自己の占有は,個人の問題であるから独りで可能であって,すでに実現しているものと過信していた。

どのようなことでも,たとえ自身のことであっても,一人では分からないし,失敗しないと呑み込めない。

現実のなかで実践をかさねて葛藤しなければ,けっして本物にはなれない。

それが相対ということだ,あたりまえじゃないか・・・と,今ならはっきり言いきれることも,誤った過去のおかげである。

 

曲がりなりにも極められたのは,二人にめぐり逢えたからこそであって,おそらく彼女らに出逢うことがなければ不可能であったにちがいない。

その巡りあわせに,宿命というものを感じないわけにはいかない。

どちらか一方にしかめぐり逢えなかったとしたら,まったく異なった人生を送っていたであろうし,自己を突きとめられたかどうかは怪しいかぎりだ。

 

ふたりには感謝している・・・というより,すまない気持ちでいっぱいだ。

別れて以来,胸のうちには罪のイシキが芽生え,年々増している。

彼女たちは・・・おれの人生の犠牲になったも同然であるからだ。

おれは,罰を受けなければならない。

その罰はなんとしても生命の代償でなければならない。

どうしてか?

命の炎を燃やせないものは,おれには物足りない。

 

元の彼女には,命をかけて愛してくれた,そのお返しを。

別の彼女には,命をかけて愛した,その証しを。

自裁は,おのれ自身にくだした,生命をかけた罰なのだ。

 

自分を見つめてここに至ったからには,行なうことは決まっている。

肉体は精神であり,精神は肉体である・・・ということ。

自決は,おれの信じる道の果てでもある。

 

ところが・・・おとついの大地震だ。

あの恐ろしい大津波で,どれくらいの人々が亡くなっているのか?

想像もつかない。

とにかく,ものすごい人数にのぼること,それだけは疑いようがない。

 

きのう,ずいぶんと迷ったよ。

きょうという日は,浅谷さんを見送ったあと,はやくに決めていたから。

それにしても,なんでオトツイなんだろって思った。

いまも分からないけど・・・決心はついた。

だれか一人くらいは,大津波で亡くなった人たちにつきあってもいいんじゃないかって。

 

人生で,おまえにメグリ逢えたことは,イチバンの幸せだ。

いっしょに生きて,はっきりと分かった。

独りのおれでも,いのちをかけて,愛さないままにおまえを愛したい。

愛なき愛は,まぎれもなく,おれの終わりのない愛なのだ。

こんな愛をうけいれてくれる女は,おまえしかいない。

 

『タウ・タオ・タイ』

呪文のように唱えていた言葉を,辞世としておまえに贈りたい。

タウは,オレという実体・・・ここでいう相対そのもの。

タオは,タオイズム・・・おれの魂にしっくりあう。

タイは,生を尽くしぬくこと。

 

 

 

ひろこ,おれを信じてくれてホントにありがとう。

でも・・・おまえは,おれの愛にどれほど苦しんだことだろう。

それでも,おれは・・・最期まで,オレでありたいのだ。

 

 

 

愛しているけど・・・さようなら。

 

   2011.3.13 8:53 a.m.   浩一郎