11月13日土曜日,13年ぶりに嵩子と逢う。
前日の金曜日,準夜勤務の時間帯に入って仕事が一段落したとき,K病院に就職して以来はじめて彼女の携帯電話に接続をこころみた。
現在のマンションへ引っ越してきたさいのこと。嵩子はレシートを差し出して,わたしのケイタイよ,と微笑んだ。裏には番号が書いてあった。
それにしても・・・偽れないとはいえ,快く受け取ったにしてはあまりにも薄情すぎる。その後,私から連絡を入れたことは,ただの一度だってなかったのだから・・・流れがあるなら,向こうよりコンタクトがあるだろう,そう安易に考えていた。で,最後に話したのは就職した年の大晦日・・・彼女からの電話だった。
知らない番号に嵩子が出てくれるかどうか,そもそも相手が嵩子じゃなかったら・・・おそるおそる発信ボタンを押してみた。そんな柄でもないだろ!と気持ちを奮い立たせても,ドクッドクッドクッと脈打つ心ゾウ。
「ハァイ・・・」携帯の主の声を聞いて,一気に不安は消し飛んだ。
「タカコ,おれだよ。わかるか?」
「わかるわよ,あなた・・・やっと,かけてくれたのね」
「あぁ,やっと電話したよ」
「どうしてるかな・・・って,近ごろ思ってたわ」
「おれも,気になることがあって・・・急なハナシでわるいんだけど,あした逢えないかな?」
「あした?」
「そう,おれは,あしたが都合いいんだけど・・・」
「いいわ。どこで待ってればいい?」
「13年前に入った・・・あの駅前のホテルは,どうかな?」
「えぇ,いいわよ。時間は?」
「午後1時ごろ,ロビーで。 よかったら,いっしょにお昼でも食べようか」
「わかったわ」
約束の時刻になる10分ほど前から,喫煙ルームで一服していた。そこへ携帯が鳴った,というかバイブが作動した・・・嵩子からである。
「もう着いてる?」
「あぁ,タバコ吸ってる」
「はやく逢いたくて電話しちゃった。どこにいるの?」
「喫煙ルーム」
「どこにある?」
「トイレの横あたり・・・」
「わかった。すぐに行くわ」
2本目を吸い終わっても彼女は現れなかった。おそらく場所が分からないのだろう。タバコを消していると,さいど携帯がバイブする。
「どこにいる?・・・わからないわ」
煙りのたちこめる小部屋を出ると,耳にケイタイをあてて立っている女性が目に入った。
「おれが,そっちへ行くから・・・」
「ありがとう」
そっと近づきながら「ここだよ」と携帯にささやく。すると,その人があたりを見回した・・・やはり嵩子だ。もういちど繰りかえす。「こ~こ」
振り向いた女性は,なつかしい笑みを浮かべた。
30階スカイラウンジへ行く。
午前中に予約を入れたとき,窓ぎわの席は空いていないと断わられたが,御用意できましたのでと丁重に告げられ,海がみえる窓側の左端テーブルへと案内された。
ランチセットとノンアルコールビールを頼んだあと,嵩子が語りはじめる。
「隣のテーブルだったのよ,13年前・・・あなたは覚えてる?」
「そうだったかな?」
「あなたは考えてばかりだから,下らないことは頭に入らないのね」
「大目にみてくれよ,窓ぎわに座れたのはラッキーなんだから・・・」私の関心は他にあった。「タカコは,まえよりも,いちだんと若くみえるね」
顔はふっくらして,表情も明るくて,とても48歳には見えない。
「ありがとう。あなたは・・・やっぱり,渋い!」
「ちがうだろ・・・老けてるのさ」
「あら,わたしには,全然そうは見えないわ」
オードブルが運ばれてきて,ビールがグラスに注がれるのを待つ。ボーイが去ってから,再会を祝して乾杯した。
「元気にしてたか?」
「うん,以前より元気かも。あなたは?」
「年を重ねるって,たいへんだよ。このメガネも遠近両用さ」
「わたしもよ! 最近,老眼が入ってきてる」
「それはうれしいね。すこしでも,おれに近づいてくれ」
「いくら近づいても,年の差は変わらないわよ」
「いつまでたっても6歳ちがいか・・・なんとも悲しいね。タカコは,もう師長クラスだろ?」
「わたしは主任・・・そうね,やりたいわけでもないのに,役職が付いてまわるんだから」
「そういえば,職場は・・・勤務先は,変わってないのか?」
「あの病院のままよ・・・」
彼女は向きなおり,あらたまった顔でたずねる。「どうして,きのう電話くれたの?」
「どうしてって・・・」
はたと言葉に詰まってしまう。嘘をつく必要はない。「おまえが,呼んでいるような気がしたんだ」
「・・・むかしは,いつも呼んでいたわよ。だけど,ぜんぜん連絡がなかったから。ケイタイ番号の・・・あのメモだって,どこかに失くしちゃったんだろうとおもって,半分あきらめてたわ」
「ケイタイは好きにはなれないけど,不便さには勝てなくて,ミレニアムの年に買ったんだ。タカコの番号はちゃんと登録しておいたさ」
「電話してくれても,おたがい,どうすることもできなかったけどね・・・」
因縁には逆らえっこない,とでも言いたげな口調だった。
『わたしの中から,あなたを消して!・・・おねがい』
・・・唐突として,追想の中から嵩子の声が目覚めた。あのころの嵩子は生きる意味を私に求めていた。だが,いま目の前にいる嵩子はちがう。私という人間に苦しんだ面影は微塵も感じられない。
『嵩子は変わった』
もはや,私の知っている嵩子ではないのだ・・・安堵に混じる一抹の淋しさが,過ぎ去りし日の様々なシーンを想い起こさせる。
料理が運ばれてきた。
「年をとったら,魚料理がいいね・・・」
「あなたは前から海鮮が好きだったわよ」
「そうか・・・じゃ,このごろ,さらに好きになったみたいだ」
「うん,かなり美味しいわ!」
さりげなく訊いてみる。
「タカコは結婚したのか?」
「ううん,してないわ」
「いまもひとり?」
「まえに話したヒトと,いっしょに住んでる」
「整形外科のドクターと?」
「よく覚えているのね・・・」
「当たり前だよ」
「あなたは?」
「半同棲ってとこかな・・・」
「だれと?」
「いまの病院のナースと・・・」
「へー,いくつのひと?」
「41歳かな」
「変わらないわね・・・」
「どういう意味だよ」
「女性にもてるってこと」
沈黙をはさんで料理を食べ終えた。それから皿が片づけられるのを待って,ふたたび喋りはじめる。
「タカコには,おれは,もう要らないんだろうな」
「なぜ?」
「そう感じるから・・・」
「わたしは,あなたのことを忘れたことはないわ,いつの日も・・・」
「・・・」
「あなたと逢っていなければ,今のわたしはないし,あの約束がなければ死んでいたかもしれない・・・」
「約束?」
「この場所で・・・」
『ここで?』
「わたしが逢いたくなったら,また逢ってくれるって・・・あなたは,答えてくれたわ」
あのとき,確かに『もちろん』と返事をした。しかし私には,約束という自覚はカケラもなかった。
「あなたの言葉を・・・どんなときも信じていたわ。あなたが約束してくれたから,いざとなれば,かならず逢える・・・そう思えた。だから,逢えなくても耐えられたのよ。あのころ,あなたとの生活に疲れていたし,なによりも報われる生活が欲しかった。それで気がついたら,あの人と生活するようになっていたわ。たぶん,お互いが必要としていたのね」
「どうして結婚しないんだ?」
「あの人は離婚していないから・・・これからも,籍を抜くつもりはないみたい。わたしも結婚にこだわる気は,まったくないしね」
「まわりの人は,同棲してることを知っているのか?」
「うん,知ってる」
「それはいいことだ・・・」
「あなたこそ結婚しないの?」
「おれに,結婚はありえないさ!」
「なんにも変わってないわね」
「タカコは変わったよ」
「そうね,変わらなければ,生きていけないもの・・・」彼女は,ふっと遠くを見つめた。「出逢ったころ,あなたからアドバイスを受けたわ・・・いまでもときどき思いだすの」
「なんて?」
「年齢を・・・横にではなく,縦に比べてみることだって」
「意味不明だな・・・」
「同年齢の他人と比べないで,自分を年ごとに比べて成長しろ,ってことかしら。 記憶にないの?」
「・・・そんなこと,言ったかな?」
「まちがいないわ! はっきり覚えているもの」
彼女のためだったのか,それとも自らのことであったのか,どちらかだと思うけれど,今だったら言わない文句だろう。
「忘れてしまうなんて,いかんね・・・とにかく,タカコがいい感じに変わってくれて,安心したよ」
オレが死んでも,嵩子は大丈夫だ。それが変わった意味なんだ,と思った。
「あなたは,分かっていない・・・」
「ん・・・」なにを?
デザートが運ばれてきて会話は中断した。
窓の外を見やると,上空に黒ずんだ雲があって,もう先ほどまでの海は見えない。つぶさに見ると・・・遠くのほうは靄ですっぽり覆い隠されていた。
・・・靄は内陸に向かって景色を飲み込んでいる。いずれこちらにも迫ってくる勢いだ。ポツリポツリと雨粒が窓をやさしく叩きはじめる。すると,いきなり稲妻が走り雷鳴が轟いた。
・・・みるみるうちに景色が霞んでいく。それどころか,つぎの瞬間には県庁舎ビルが消えてなくなった。かろうじて近くのビルが霞みのなかに滲んで見える。そのような変化の中にあっても,ラウンジは驚くほど静かだった。なにが起きているのか,一瞬わからない。
外は・・・大雨なのだ。
降らない処から眺めると,雨は・・・霞みに見える。くわえて風は海に向かって吹き,ために窓を打つ雨粒は案外に大したことがなかった。それらが状況を分かりにくくしていたのである。
「急に,降ってきたな」
「すごい雨だわ・・・相変わらず,大雨男ね」
「大雨はないだろ」
「だって,この雨はフツウじゃないわ」
「・・・たしかになぁ。おれは,尋常じゃないのが好きかもしれんな」
「やっとわかったの」
「そうさ。一番大事なことは,最後にならないと分からないんだ」
人間,生まれ落ちたときから,もっとも大切なことを分かっていれば,人生は違ってくるだろうに・・・。
「・・・ほんとね」
「さっきのハナシだけど,なにを分かっていないって?」
「いいのよ,べつに気にしなくても」
「そう言われると,よけい気になるさ」
「わたしにとって・・・あなたは,まったくの特別なの」
「いまでも特別?」
「・・・もっと特別」
「よくわからないなぁ」
「言わないといけない?」
「教えてほしいんだ。タカコにとって,おれは,どんな存在なんだろう?」
「今のあなたは・・・天皇みたいな存在」
「・・・」
「わたしの,生きている象徴よ」
デザートを食べ,コーヒーをお代わりし,しばし雨脚が衰えるのを待った。その甲斐あって勘定を済ませるころには小降りになっていた。
かえりのエレベーターに,ピッタリくっつきあい肩をならべて乗りこんだ。目を閉じると,駆けだし時代のふたりにタイムスリップする・・・こっそり若かりし彼女に口づけをした。
『さよなら,嵩子』
目を開けてビックリ,まるで頭のなかに思い描いた情景がそのまま続いているかのように,彼女の笑顔が真横にあったのだ。
ここにいる嵩子は,いかにも自ら力強く生きている。しかし,暇乞いしないで別れるつもりだ・・・天皇と聞いたからには,なおさらのこと。
「きょうは,わざわざ逢いにきてくれて,ありがとう」
「わたしこそ,ありがとう。あなたに逢えて,ホントによかった。なんとかして,一度だけでも逢わなくては・・・って思ってたから」
「おれもだよ」
「でも,これで終わりじゃないでしょ?」 感づいているのか?
・・・それはないだろうが,肯定すればウソになる。かといって,否定して気づかれたくはない。それに否定してはならない。嵩子が変わったとしても,過去の傷痕は消えることはないのだ。それと・・・彼女のなかのオレも。
「いつか・・・また逢おう」
「いつか,きっとね!」
「ああ,そのうちに・・・」
ロビーで嵩子を見送った。彼女は金沢駅への連絡通路に向かっている。西口のパーキングに車を止めてあるという。じっと見つめていたら,生き生きとしたうしろ姿にT病院での忘れられないシーンが重なった。
・・・デートの約束をして足早に去っていった22歳の嵩子。あれから,四半世紀の歳月が流れたのだ。
彼女がこちらを向いて手を振った。私も左手を小さく振ると,嵩子はたちまち視界から消えていった。
『すまない・・・タカコ』
もう,逢うまい!
迷いはなかったけれど,割り切れない情念が,心のいたるところに渦を巻いていた。ナンだろう・・・やけ酒でも食らいたい気分だ。
ホテルを出て,やみくもに歩いた。だが,どこまで行っても,モヤモヤとした気持ちは収まりそうにない。
・・・いつかと同じではないか。ナニカが狂っている。
それから30分ちかく歩いたであろうか,ココロの隅のほうに小さな綻びを見つけた。そこを丹念に調べると,内側から糸が切れていたのだ。直そうとして手が止まる・・・どう綻びを縫い合わせても,あげくの果てには破れてしまいそうな気がしてならない。
耳を澄ましてみる。かすかに叫び声が聞こえた。
『タカコを不幸にしたのは,おまえだ!』
声の出所を探っていくと・・・それはなんと,独りを貫くためにとっくの昔に斬り捨てたはずの,死にぞこないのタマシイであった! 威圧感のある低くて鈍い独特な音声を響かせる。
『彼女は,おまえという存在の犠牲者なのだ!』
そいつの中に信じられないものを,カイマ見た。いまだ絶え果てぬ,飽くなき生への執着・・・それが糸の切れた原因だったのである。
もっと生きるべきだ! という生命のうねり。
私のことを,生きている象徴だと,嵩子は明言した。ならば嵩子は,私が遺棄した魂の象徴ではないか!
・・・そうであるからこそ,深淵に封じ込められた共生の魂は,彼女の内面に触れて息を吹き返し,大きく揺さぶられて共鳴した。
『おまえは,未来永劫にわたって,嵩子と共に生きつづけなければならぬ』
・・・良心の呵責にも似た心情とひとつになって,孤独の暗闇を照らそうとしている。
「ふう~」と,大息をついた。
なんてこった・・・立ち止まり,天を仰いだ。空には黒い雲がふたたび広がりつつある。いっそのこと,このまま雨に打たれてしまいたい。
・・・さっきみたいに,土砂降りになるがいい。
そう願ってみた。そしたら,天も捨てたものではない,ぽつりと顔に雨粒が落ちてきたのだ! ホテルの駐車場へ引きかえす。途中で望みどおり大雨になった。
『おまえなんか,ずぶ濡れになってしまえよ!』
ものすごい雨しぶきのなかを,わざと勢いよく歩いた。気がつけば笑みがこぼれ,ときおり大笑いする自分がいた。
『今しがたの迷いも,なにもかも,洗い流されてしまえばいいんだ!』
やがて体温が奪われ,昂ぶった神経も鎮まってくる。そのときになって,はじめて気づいた。
罪は・・・けっして洗い流されない! 生きているかぎり,消え去ることはないのだ,と。
詰まるところ,完全に無くしてしまうには,オレ自身が消滅してしまう以外に手立てはないということ。
心というものは本人に合うものへと流れていく・・・嵩子と捨てたはずの魂によって内奥を激しく揺すられたが,結局は自らを裁くのがもっとも納得できる道であった。生きて責任を果たすことを拒否しているのではない。己れの命を犠牲にできないことが,なんとしても許せないのだ。
きょうという日に嵩子と逢って,ことの真相が分かった。彼女がオレを呼んでいたのではない! 逢わなければならぬ理由はオレのほうにあったのだ。それが,なんと結末を見定めることだったとは。
まさしく浮き彫りになったオノレの・・・罪と罰。
午後7時ごろ,裕子が勤務を終えて帰宅した。
その夜,昼間のできごとの余波を,オレは無言のまま平然と裕子の身体にぶつけた・・・さらなる独善を自覚しながらも,オノが生きんがために!