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 じきに,お盆になった。

 これこそ天佑とばかりに,富山県にくらす母を三年ぶりにたずねてみると偽り,泊りがけで嵩子のところへ行くことにした。

 前もって電話しておいたが,ドアを開けるとき,彼女が普通であるようにと願わないではいられない。

 リビングに入ると,タバコを吹かして嵩子は窓の外を見やっていた。

「ただいま・・・」

 声をかけても返事がない。といっても,この前のような異様な雰囲気は感じられなかった。

 あきらめかけたころに「おかえりなさい」と,チラッとこちらを一瞥した。おだやかな彼女の声色を聞いてホッとする。

「きょうはどうする? どこかへ食べに行こうか?」

「あなたの好きなようにしてください」

 窓の外へ目を向けたまま,嵩子はヨソヨソしい言い方をした。

「なにが食べたい?」

「なんでもいいです」

「寿司屋がいいかな? それとも居酒屋? 焼肉という手もあるかな?」

 すこし考えて彼女は言いなおした。

「やっぱり止めておきます」

 さらに付け加えて「ここにあるもので,なにか作りますから出かけなくてもいいです」

「そうか・・・」

 彼女は立ち上がり,支度をしにキッチンへ。

 

 角瓶の水割りを自分でこしらえて飲んでいた。二杯目を嗜んでいるところへ運ばれてきたのは・・・ツマミ一人分。嵩子は私のとなりに座った。

「おまえは食べないのか?」

「わたしは要りません」

「どうして?」

「おなかが空いていないからです」

 強要はいけない・・・彼女を刺激するようなことは禁物だ。嵩子は窓際にもどり,コーヒーをひとくち飲んで,またぞろタバコを吸いはじめる。

 いたずらに時が過ぎてゆき,ホロ酔いかげんで気が緩んできたころ,もどかしくて喋らないではいられなくなった。傍らにいって座りなおす。

 その晩,すこぶる気になったこと・・・「こんやは,なんでそんなに他人行儀なんかな?」

「・・・」

「なんか変だよ」

「ふつうに話したら,文句ばかり出てきそうだからです」

「いいよ,それで」

「あなたはいいかもしれませんが,わたしにはよくないことです」

「わからんな」

「わからなくて結構です」

「今,こうして一緒にいる時間を大切にしようよ。せっかく,ここに来ているんだから・・・」

 自分では気づかないうちに他人を傷つけてしまうのはよくあること。この時もそうだった。無神経な私の言葉と素振りで心境が変わり,嵩子は苛立った。

「わたしだって大切にしたい。あなたはせっかく来ているって言うけど,わたしだって我慢ばかりしている・・・我慢してあなたに期待していたら,けっきょく報われないで,反対にどんどんイヤな女になってしまう・・・だから,もうあなたには期待したくない」

 彼女の言い分はもっともである・・・なにも言い返せなかった。しかし,感情的な理性がアタマの隅っこで反抗をこころみる。

『期待しないためにヨソヨソしい態度で接するというのか? なら,それはそれで仕方がない。でも本気で期待しないのなら,一緒にいないほうがいいんじゃないのか!』

 堰を切ったように嵩子はつづける。

「今月,あなたから連絡がなくて,無性にイライラしてしょうがなかった。そうして気がついたら,あなたの家のまえに来ていたわ。夜中にナンドもナンドも行ったけど,灯りが点いていなくて,わたしは気が狂いそうだった」

 思い返すうちに彼女はハッとしたらしい,上擦った声で「そうじゃない,もう狂ってしまってるわ!」

 クルウ・・・と聞いて,刃物を持ち出した火曜日の一件を思い起こした。

「わたしは,どうしたらいい・・・?」

 あの出来事について,まず確認しなければならない。

「今週,火曜日の夜のことを覚えているかい?」

「あなたが来たことは知ってるわ。でも,来てからのことは・・・よく思いだせない」

「あの日のおまえは変だった」

「ものすごくイライラしているときに,あなたが入ってきて・・・」

 眉間にしわを寄せ,彼女は目を閉じて「やっぱりダメだわ,そのあとのことはわからない」

「おれが部屋に入っていくと,おまえはしばらくして,キッチン台の扉から包丁を持ち出したんだ」

 意識障害のことは伏せておく・・・原因を特定できなかったし,余計なことは言わないに越したことはない。

「それから包丁を振り回して,なにせ大変だったよ。奪って隠してなきゃ,どうなっていたことやら」

「どうせなら,そのまま死んでしまいたかった・・・」

「いいや,おれが刺されて・・・」

 言い淀んで,おもわず目線は嵩子のほうへ・・・マズったかな? でも彼女は,温みのある眼差しを向けてくれた。

「そんなことになっちゃったら,わたしだって,苦しまずに終わってしまえるかしら?」

「刺されたっておれは,クタばったりしないだろうけど・・・」

「どっちみち,わたしは恨まれておしまいになるのね」

「どうかな?」

 挽回しなくてはならぬ。「恨まれる謂れなんて,無くなるかも」

「・・・イワレがなくなる?」

「恨まれるまえに,元の木阿弥になってしまうってことさ」

「むこうのヒトと別れるってこと?」

 トラブルがあれば隠しおおせるものではない。真子が私から離れていくのは必定・・・なにがあっても事故を起こしてはいけないってことだ。

「そう」

 ややあって嵩子がひょいと言った。

「じゃあ,刺されてくれる・・・わたしのために」

「あぁ,いいよ」

 ウソも方便・・・いくぶん蟠りがしぼんだような?

「わたしも,お腹が空いてきたみたい」

 

 有りあわせの惣菜を追加して仕切りなおしの夕食をとった。わるくない流れに気が緩んでしまい,濃いめの水割りを調子づいて飲むこと数杯・・・それがいけなかった。

 晩酌のあと,湯につかると酔いが回ってカラダがしんどい。洗うのもそこそこに風呂からあがって布団に寝転がった・・・とたんに眠気におそわれ,疲労が溜まっていたせいもあって熟睡してしまったらしい。

 

 明け方ちかくに目が覚める。

 わきに嵩子の息づかい・・・自らの不覚を反省しながらもアソコは元気いっぱい,むらむらして胸のふくらみへ手をしのばせる。が,彼女の肉体はレスポンスを示さない。カオに触れると濡れていた。ナミダだった。

「どうした? タカコ」

「どうもしないわ」

 そう答えて,さみしげに嵩子は「ただ悲しいだけ」と付け足した。

 萎えゆく男根・・・こまかな事情はわからないが,悲しみの大もとはオレ以外に考えられない。

「ごめんな・・・」

 私が眠っているあいだ,嵩子はひとり悶々としていたのであろう。鬱積しているものを投げつけるように彼女はつぶやいた。

「あなたはここに来て,一緒にいる時間を大切にしようって言っていたけど,そんな大切な時間にあなたは寝ているだけ・・・あなたにとってわたしは何なの? ただのセックス相手? あなたにとってわたしは必要なの? わたしにはあなたが必要だけど,あなたには,わたしはちっとも要らないみたい。そうなの?」

 返答に窮する,オレ。

「あなたは,なんでわたしといるの?」と,なおも詰め寄られる。

「おまえがおれのこと,大好きでいてくれるから・・・命をかけて愛してくれるから」

「あなたは,わたしのことがキライでもいっしょにいるの?」

「嫌いなら一緒にいないさ。好きだから一緒にいる,そうに決まってるだろ」

「どこがスキなの?」

「どことは言えない・・・タカコの全体かな」

「わたしは自分が大キライ」

 上っ面のみの辻褄合わせに彼女はアキアキし,カラ回りばかりの我が身にもウンザリした様子。ほどなくして・・・「すこし眠りたい」

 煮えきらない己れをかえりみて自身に問うてみる。

『おれは,どうして嵩子といっしょにいるのだろう?』

 こたえは・・・一つしかない。

 嵩子がオレを愛しているから・・・だがオレは,真子を愛している。だから真子と結婚する。

 勝手な言い分であろうと,それが私の偽らざる胸の内であった。

 嵩子は・・・相当に神経を磨り減らしていたのだろう,つかの間の安息を得たように,しずかな寝息を立てていた。

 

 自らが掘り起こした穴のなかで,どうにか外界と折り合いをつけようとモガキ苦しんだ私だったが,現実に計りしれない精神的痛手を被っていたのは,変人との穴倉生活を強いられた嵩子のほうであった。

 そのことを,真に理解し,切実な問題として捉えていたとは言いがたい。私には・・・頭上にカガヤク光しか見えていなかった。

 しかしながら・・・よしんば把握していたとしても,如何ともしがたい状況であったと思うのだ。

 

 考えているうちにまたしても寝入ってしまい,気がついたときには嵩子が朝食を並べ終えたところだった。

「はやく起きて食べよう」

 彼女から,時間を惜しむように促がされる。

「わかった」と起きあがり,テーブルで意識したことはあまり気乗りのしない話題であった。でも告げないわけにはいかない。その日の心づもりを,食べはじめる前につぶやいた。

「きょうの予定だけど・・・昼ごろに帰らないと」

「・・・」 声なき返事にオレは身構える。

「すまない」

 覚悟はしていたけれど,嵩子の顔つきが変わりつつあった。「マギワに話したら,きついとおもって・・・」

「なによ,食事くらい気持ちよく摂らせてよ!」と,彼女は気色ばんだ。

 一難去ってまた一難。嵐がやってくるまえに検証する・・・言わないで昼になってしまったなら,それこそどうなっているかわからない。ところが,考えているより事態はもっと深刻だったのだ。

 ピシャリと箸をおき,嵩子はまっすぐにオレを見据えて問いただす。

「わたしは,あなたにとって,ホントに必要なの?」

 最後の決戦を挑むがごとく・・・その眼光の厳しさに私はたじろいだ。

「そんなことは問題じゃないだろ。おまえがおれを必要としているんだから」

 本質的に明け方と変わらぬ問答であった。

「それじゃ,わたしは一緒にやっていけない・・・」

「おまえがおれを必要としているから,おれはおまえを必要とするんだ」

「じゃ,あなたには,わたしは必要ないんだ」

「そうじゃないよ・・・」

「でも,わたしにはそんなふうにしか聞こえない」

「・・・」 もう訊いてくれるな!

「あなたの言っていることは全然わからない。ちゃんと,わたしにもわかるように話して!」

「おれは100%の自分が欲しいだけ・・・求めつづけ,ついに100%の地点に達したら,結局のところ,自分が無くなって100%の他人になってしまった。そいつが・・・オレという人間なんだよ!」

 彼女に触発され,二度と語りたくなかった,だれにも通じないことと封印してきた自己をさらけだす羽目に・・・なれど,火にアブラ。

「ナオサラわからないわ! 説明は要らないから,結論を言って! あなたはわたしを必要としているの?」

 まだ分からないのか! オレが唯一必要としているのは・・・相手。タカコでなくてもいい。相手と向かいあうことさえできれば十分なのだ。

「おまえが必要なんじゃない,おまえという相手が必要なんだ」

「ナ・・・ナニを言っているの! 結論だけ,はっきり言って!」

「タカコが必要ってわけじゃないさ!」

 オノレを抑えきれず,つい叫んでしまった。『必要だ』って表明しても,あながち間違いではなかったろうに。

 瞬時に,ココロは後悔一色に染まった。

 なぜなら・・・嵩子の身に,これまで幾度か目にした異常なる反応が,今まさに起きようとしていることは疑うべくもなかったのだ。

 回避する術もなく,悪霊にでも魂を抜き取られているがごとき光景を,ただひたすら祈るように見守るよりほかなかった。

 徐々に全身の硬直と震えのような痙攣があらわれ,タイミングを見計らって寝かせてやるのが精一杯,こと細かな成り行きについては言い表しがたく,やがて最終的には爆睡状態へ・・・それらは,おそろしく凄まじいだけにとどまらず,途中でまったくもって想定外の局面に遭遇することになった。

 移行していく過程で起こった,呼吸停止!

 痙攣がようやっと治まり,彼女のカラダは弛緩へと転じていった。大事に至らなくて安堵していると・・・どうみても息をしていない。いくら見ていても息をしない・・・タカコ!? まさかと思ったが,頸動脈も触れにくいのだ。

 とんでもないことになった。

『チキショー! 待ってろよ,いま助けてやるからな!』

 とっさに彼女を広さのあるダイニングキッチンに引き摺りだし,マウスtoマウスの人工呼吸を2回おこなって心マッサージを開始する。

 どうすればいいのだ? ここには蘇生のための道具はナニ一つとしてない。当たりまえに今すぐ救急車を呼ぶべきなのか?・・・ちがうだろ! それは可能性を放棄するようなものだ。

 不安が駆けめぐり,気持ちが焦るばかりで頭のなかは真っ白,わけがわからないまま心マッサージを数回は実施したであろうか。

 こんなことでどうする,なんとしてでも生き返らせなくては・・・この状況下でおこなうべきは何なのか? 心マでいいのか?・・・人工呼吸をすべきではないのか?

『エェーイ,こうなったら,蘇生の方法もクソもない!』

 心マッサージをやめ・・・息を大きく吸いこみながら,左手で嵩子の鼻を摘まんで右手で下顎を固定,あとは祈りをこめて彼女の口へ思いっきり一息吹き込んだ。このまま死なせてなるものかと,もう一度繰りかえす。

 するとどうだ,心マッサージを再開したとたん,嵩子は息を吹きかえしたではないか! 筋肉は相変わらず弛緩したままであるものの,みるまに大呼吸をしだして仮死状態から完全に脱した手応えがあった。

『助かった!』

 と思った。 119番通報していなくて正解だった。電話するあいだは施術を止めねばならないのだから。

 ただし,実際に私の処置が有効であったかどうかは分からない。なにもしなくても彼女は甦ったかもしれない。あるいは,なにもしなければ致死性不整脈などが起こって死に至っていたかもしれない。

 

 冷静になって検討を加えてみる。

 最悪の事態・・・臨床的心停止と診断し,気が動転するなか蘇生の処置を施したが,経過から判断すると心静止や心室細動の状態ではない。

 臨床的心停止の状態では,循環を維持するために心マッサージは施行されなければならない。であるから誤った対応はしていない。ただ・・・特殊な事態の,特異な局面において,有害ではないと言い切れるものかどうか? かえってトラブルが生じやすくなるのではないか?

 さすがにそれはなさそう・・・それよりも,マニュアルを度外視した人工呼吸は効いたのであろうか?

 あのとき・・・私の頭には呼吸停止の診断しかなかった。しかし,睡眠時に発生するような無呼吸,もしくはその延長線上の病態を考えても矛盾はなかろう。すなわちショックと無呼吸の状態で,なおかつ徐脈はあっても心臓は停止していない病態がもっとも疑われるのでないか。そうであるならば,人工呼吸を優先したことはよかった気がするし,意外と・・・なにもせずに様子をみたとしても命に別状はなかったのかもしれない。

 いずくに真相があろうと,肌で感じたことは否定されるものではない。

 現場の感触では,必死でおこなった人工呼吸が殊のほか効いたように思われた。それゆえ時機を逸しないで息を吹き込めたことがうれしくて,不可思議な力が働いた感じがして天に感謝を捧げたいくらい!

 ところで,嵩子は・・・正体なく眠ること1時間あまり,そのあと瞼を開けられるようになっても2時間ちかく音声を発することができなかった。

 

 意識がもどって彼女の口からコボレ落ちた,一生涯・・・ワスラレヌ言の葉。

「わたしの中から,あなたを消して!・・・おねがい」

 かたわらで誓いを立てる。今後いかなることがあろうとも,嵩子をしりぞけるような言葉は,決して・・・けっして口にはすまい。

 

 夕方になっても彼女は歩けなかった。

 この日,明るいうちに帰ることはできない。午後,飲み物を買いに出かけたさいに自宅へ電話を入れておいた。

 それはともかく,危機を乗り切るために嵩子はどうしたのか?・・・信じたのである。どこまでも私を信じることしか彼女は知らなかった。

「おれは,おまえとも一緒にいるよ」

 節操のないセリフを発する根拠なんぞクソくらえ・・・嵩子が救われるならそれでいい。だれもが今を生きる必要があるのだ。

 彼女の心身が落ち着いたところで,先ほどの生命にかかわるアクシデントを説明し,心肺蘇生術をおこなったことも明かした。

「わたしは病気? なおすには何科を受診すればいい? 精神科?」

「こころと関係しているみたいだから,やっぱり精神科かな・・・」

 そう助言はしたけれど,疑われる疾病がさっぱり分からない。

「でも心配するな。おれが,かならず治してやるから!」

 コトの発端はオレにある・・・それだけは明瞭なること。であるなら私が治せると言えなくもなかったが,抜き差しならぬ現状のなかで果たしてそんなことができうるのだろうか?・・・と自身でも疑いをいだく始末だった。

「ありがとう。きっとわたしを治してね」

「わかった」

 

 その疑問は的を射ていた。結果的に私の言動は,さらに傷を深めているのみであった。