10月初旬・・・真子は一旦,両親のもとへ帰ることになった。世話になった親戚が危篤一歩手前とかで,見舞いがてら婚姻の心づもりをつたえようと帰京したのだった。私はといえば・・・国立病院へ二度目の出張となり,なにかと忙しくて東京へ同行する余裕はなかった。逆に,寄り道して嵩子と時間をともにするには恰好の機会となった。
紅葉の時節,波瀾は巻き起こらず小康状態を保っていた。
真子が戻ってきたのはいつ頃であったのか,記憶は抜けおちて師走へと跳んでしまう・・・金沢に彼女がきてからほぼ一年が経とうとしていた。
両親のあからさまな反対はなかったらしいが,結婚のハナシは七夕のときから進んでいないに等しかった。決めているのに先延ばしにしていたのは,ひとえに嵩子のことがあったから・・・どこかで埋め合わせを,と思いつつも実現できないまま月日が過ぎていった。
そうやって,いつのまにか・・・クリスマスイヴ。
早々に仕事を切りあげ,真子といっしょに食事に出かける。リングを手渡した夏の日以来だった。
片町のスクランブル交差点の近くまでくると,あたり一帯は若者たちで溢れかえり,くっついていなければアイダに割り込まれてしまいそう・・・「ものすごい混みようだな」って口にしたら「あたりまえでしょ」って真子。喧噪につられて久方ぶりにノビノビとした心持ちへと導かれていった。
予約しておいたステーキハウスに着いたのは19時30分過ぎ。その店は小路に面したビルの半地下にあって,安くはなかったけれど混まないところが気に入っていた。
コースではなく単品で料理を注文し,ワインはマスターお勧めのマコンをたのんだ。ワインを飲みながら,目の前でステーキや海鮮が焼きあがるのをながめるのは,じつに興味深くて楽しいかぎり・・・まして美味しいとくれば,十二分にクリスマス気分を味わった。
おなかを満たしたあとは,勢いづいて朝ちゃんのいるスナックへ。 内心では危惧の念を捨てきれず行こうか行くまいか躊躇していた・・・オープンな性格の朝ちゃんは嵩子を知っている。つつみ隠さず喋られたら,オレの不義が露呈しないともかぎらない。でも水商売のプロであれば,告げ口なんかしないものではあるまいか。
スナックは常連客で大賑わい,カウンターの客が次の店へ行くからと席を譲ってくれた。
「あら,こんやは一人じゃないのね」と,逡巡なんぞ吹き飛ばすように朝ちゃんは迎えてくれる。
「スミにおけないわね,青ちゃん」
「べつにフツウだろ」
などと,ありきたりの問いかけと受け答えがあったのだろうが,メモリーの引き出しのなかで風化してしまったらしい・・・印象に残っているのは,日常から解き放たれて大いに盛り上がったこと,それに悲しいかなウィークデイであったので24時を回ったところでおとなしく帰ったこと。
外に出てからの真子の第一声。
「かなり個性的なヒトね・・・」
「アサちゃんのことか?」
「そう,つきあいは長いの?」
「・・・かれこれ,7年ちかくになるかな」
「ふぅーん」
その含みのある返しにかつてのグレーな部分を思いだす・・・いちど朝ちゃんと犀川べりを歩いたことがあったっけ。真夜中,猛スピードで車を走らせたことも・・・が,嵩子の場合とちがってブラックな部分はない。
そのときポケットベルが鳴った。緊急の呼び出しかとおもって表示を確かめると,嵩子からなのだ。
よりによってこんなときに・・・黙殺する手もあったが,やはり見過ごすわけにはいかない。突拍子もないことに進展しかねないし,何回もポケベルを鳴らされたら余計に困ることになるかも。
病院へかけるからと通り過ぎた電話ボックスにもどり,カラダで隠すようにして嵩子のナンバーを打ちこむと,二回目のコールでつながった。
「どうした?」
「・・・」
はやく用件を言ってくれよ!って怒鳴りたいところを,グッと呑みこむ。発作のことがある。なるだけ優しく誘導しなくては・・・。
「なにかあったのかな?」
「なにもないわ・・・」 かぼそい声だった。
「じゃ,明日また電話するから,それまで待っていてくれないか」
「・・・」
「タカコ?」
「あとで会えないかな?」
「きょうはダメだよ」
「・・・」
無言の応答にイライラする。真子がボックスの外に控えているせいで,なおさら苛立ちがツノった。
「こんな時間に,ちょっと無理だよ。この電話だって,病院ってことにしてあるんだから!」
つい嵩子を責めてしまう。それでも一向に返事をしてくれない。もう増幅するイラつきを封じ込めなくなった。
「いい加減にしてくれよ!」
大声を出せないぶん怒気の含んだイントネーションで吐き捨て,嫌な気分になりかけた矢先だった。奇妙な口調で「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ」と遠く聞こえて通話はプツリと切れてしまった。
どうも腑に落ちないまま,ホッと息をついて受話器をかける。例のガチャという特有の音がボックス内にひびき,ちょうど強制的にリセットされるようだった。たちまち関わりあるものが一つにつながり,もしや・・・という思いに捕らわれる。離さんとする右手に反射的に力がこもった。
とぎれる寸前,彼女の喋りかたは紛れもなくヘンだった。抑揚のないメカニカルな声音,しかも重症の心身障害者が片言の日本語を,一音一音ふりしぼっているみたいな・・・。
思い返すうちに,どうしようもない不安に襲われる・・・私の一言が,またもや,アノとんでもない発作を誘発してしまったのではないか?
「病院,だいじょうぶだった?」
心配そうに真子が電話ボックスの外から覗きこんだ。飛んでいた意識が一気に引き戻される。
「あぁ,行かなくてもよさそう・・・」
曲がりなりにも言葉を返したけれど,顔を合わせると嘘を見抜かれてしまいそうで,そそくさとボックスを出て歩きはじめる。
『聞き流していいのか?』
タクシーに乗ってからも心が痛んで落ち着かなかった。
「あした・・・じゃなくて,きょうのアサは頑張って起きなくっちゃねぇ」
「ぅん」
大発作を起こせば,嵩子は死んでしまうやもしれぬ・・・真子との会話も上の空であった。
患者の容態にかこつけて嵩子のところへ行ってみようか? ここで,いま一度ポケベルが鳴ってくれたら・・・じゃなくても,病院へ電話する振りをしてから出かけてしまえばおかしくないのではないか? それとも,むしろヘタな小細工などしないで,急変と言って平然と出てしまったほうがいいのか?
「目覚まし,いるわよね」
「えっ?」
「め・ざ・ま・し!」
「うん,要る」
なにかしらアクションを起こそうと考えてみても,堂々めぐりで踏ん切りがつかなかった。そこへしかし,見込みちがいのことが起こったのだ。
家に着くまぎわ,ポケベルが鳴ってドキッとする。ひょっとしてオモイが通じたのか? 着信音を止めて消音すなわちバイブに変更・・・これ幸いとおもいきや,家のなかに入ってからも続けざまに着信があって,その都度もう鳴ってくれるな!と念じつつ振動を止める。
たてつづけに着信がはいるのを,真子は不思議がった。
「患者さんが亡くなったのかしら?」
「そうかもしれない」
と返事して,ポケベルの電源をオフにした。そして病院へかける振りをして嵩子に電話したところが,話し中でつながらないのだ。これはマズいぞ,マズすぎる・・・とプッシュしなおし,三度目の正直でつながったかとおもうと,予想をはるかに超える衝撃が押し寄せてきたのだった。
「アアア・ナナナナ・タタタ・ゴゴゴゴゴ・メメメ・ンンン・ナナナナ・サササ・イイイイ・・・アアア・ナナナ・タタタタ・ゴゴゴ・メメメメ・ンンン」
片言の日本語どころではない。吃って嵩子はうまく喋れない。あたかも壊れた音声機器のように,幾度となくアナタゴメンナサイを繰りかえす彼女の異状に一切の言葉を失ってしまった。
「ゴゴゴ・メメメメメ・ンンン・ナナナ・ササササ・イイイ・・・アアア」
聞くうちに手が震えてくる。足だってガクガクと,それこそ悪寒のごとく全身に・・・向かいあう現実の恐ろしさが骨の髄まで沁みてきたのだ。
ヤバイ! 真子に感づかれてしまう・・・左手で受話器ごと右手の手掌側をつかんだが,それぐらいで震動を抑えきれるものではない。したたか力をいれて,なんとか震えが判らなくなったか?
いま・・・傷つきし相手のこころの痛手を癒しうる手段があるとしたら,それはただヒトツ。
『タカコ!』
と叫んで,わが胸の内のいくらかでも伝えたいのに,真子の前ではつぶやくことすらできない・・・あきらめて目をつぶり,ゆるしてくれと瞼の阿修羅にあやまるしかなかった。
「アアア・ナナナナ・タタタ・ゴゴゴゴ・メメ・ンンン」 小刻みに揺れうごく受話器をしんちょうに,おそるおそる定位置に置いた。
と同時に・・・イナズマがはしる! その非道な所業の刃は,シールドを切り裂き,のこり火を掻きけし,するどく肺腑をえぐった。
剥き出しになったオノレのタマシイ! そいつは,かつてない暗闇のなかでおののいた。
『とうとうタカコが壊れてしまった・・・いや,オレが打ち砕いて潰したようなものだ。せめて早急に,消滅への連鎖反応を喰い止めなければ・・・だんじて捨ておいてはならぬ。かりにも,このままタカコを見殺しにするようなことがあれば,おれは・・・もはやオレではない』
いつか嵩子のことを白状しなくてはいけなくなる・・・とは思っていた。卑怯さと後ろめたさから解放されたい気持ちも徐々に強くなっていた。ここに至ってようやく突き動かされる。
深淵から這いあがりたい一心で真子に向かって呼びかけた。
「以前から付きあってた,女性のイノチがあぶないんだ。だからって許されることじゃないけど・・・いまから,その女性のところへ行ってくる」
さっさと出かけようとして引き止められる。
「待って! どういうこと? まだ別れていなかったの?」
問答を重ねている暇はない。
「帰ってきたら説明するから・・・たのむ,なにも訊かないで,行かせてくれ」
「・・・どうして? どうしてこんな日に?」
一瞥するなり,強引に自宅を出ていく。 目の奥には,血の気の引いた真子の顔が・・・見たこともない怒りのこもった悲しみの顔つきが消えては浮かんで,いつまでも付きまとった。
リビングのソファで嵩子はうつ伏せになっていた。小物類は部屋のあちこちに散乱,ローテーブルの上は飲み物で汚れているが・・・部屋中見回しても,血の塊りらしきものは見当たらない。ひとまず安堵するとともに,この体勢では苦しそうなので仰向けにしてやろうと嵩子を抱きよせる。そのとき彼女が目を開けた。
「アア・ナ・タ・ゴゴゴ・メ・ン・ナ・ササ・イ」
フツウに喋ることはできないまでも,電話のときより随分ましだ。声色にも暖かさが感じられる。
「助けにきたよ」
「アアア・リ・ガガ・ト・ウ」
「おまえのことを打ち明けて,ここへ来たんだ」
嵩子のかたい無表情の顔がこころなし曇ったようにみえたが,気のせいか。
「いまは休むことだ」
と言って,ふっと引っかかる。「きょうの勤務は?」
「ジジジュジュ・ジュ・ン・ヤヤ」
「それはよかった」
寝返りするのを手助けし,瞼が閉じられていくのをながめつつ・・・『なんでこのようになるのだろう?』
これまでの発作では脱力して動けないことが多かったが,この日の嵩子は力がないものの少々ならば四肢を動かすことができた。そのかわり話すことが難しい状況にある・・・?
一貫性を欠いていて病態がまるでわからない。でも,どうでもいいではないか,そんなこと。すみやかに彼女が回復してくれさえすればいいのだ。
それから嵩子は1時間ほど眠った。
「キキョ・キョ・ウウ・ハ・ココ・レ・デ・カカ・エエッ・テ。オオ・ネ・ガガ・イ」
「もう少しここにいるよ」
促されても帰る気にはなれない。見守るためにフローリングの床で・・・彼女の横たわるソファのもとで寝転んでいた。
午前3時をまわったとき,いくらなんでも帰らなくては,と思った。仕事だって休めない。
「タカコ,これで行くけど,大丈夫か?」
「ダダ・イ・ジョ・ウ・ブ」
まだ発語障害は治りきっていなかったが,ここらあたりが精神的に私の限界だった。あたえた苦痛はいかばかりかと慮る・・・待っている真子のことで胸が痛みはじめていたのだ。
心の準備が整わないまま私は自宅へもどった。
真子は起きていた。
テーブルを前にして裁判官のように静かに身構えて・・・結膜は充血し,瞼があきらかに腫れぼったい。放たれる眼光はマタタくように見え,するどい視線には行き場のない怒りがこもっていた。が,まず冷静に釈明を聞こうという彼女の姿勢が見て取れて,おもわず感謝したい気持ちになる。
「ナニから話せばいいのか・・・おれにはよく分からない。できれば真子から質問してくれないか」
「あなたは・・・わたしに隠れてそのヒトと逢っていたの?」
ただちに詰問することで真子は了解の意を示してくれた。その問いに対して虚言を吐くつもりはなかった。
「ときどき逢っていた」
「どうして?」
考えがまとまらないままに答える。
「別れるつもりでいたけど,できなかった・・・」
「どうしてなの?」
ありのままを言うしかなかった。
「彼女が死にそうだったから・・・」
閉ざされた真子のこころの扉は,どのような言葉にも微動だにしない。
「いつ逢っていたの?」
「仕事がえりや研究会のあとで・・・」
しばらく沈黙があって,ついでのように真子は訊いた。
「これからどうするつもり?」
アシュラの顔が浮かんだ。嵩子に告げたことが思い起こされたけれど,なんとしても真子を手放したくない・・・しんそこ真子が欲しかった。
「時間がかかっても,かならず関係を絶つから・・・」
そんなふうにつぶやく自分自身が信じられない。二人と交わした約束は二律背反ではないか!・・・たとえその場は凌げたとしても,両方の約束を果たすことはできない。それどころか近い将来,さらなる苦難が待ち受けているだろうことは目にみえている。
しかしながら,百も承知の行く末よりも,今まさに向かい合っている現実がすべて・・・どちらの約束も私にとっては偽りのない真実であったというよりほかにない。さればこそ自力ではどうしてもジレンマから逃れることはできなかった。
硬くて冷たい表情を崩さないまま,時おり真子は厳しくてまっすぐな視線を浴びせかけた。そうすることで怒りをかろうじてコントロールしているかのようだった。おそらく真子はオレの弁明を半信半疑で聞いている。にもかかわらず,しつこく追求するような真似はしなかった。なによりも真子も私も疲労困憊していた。悪夢の夜を一刻も早く終わりにしたかった。
この夜,はじめて別々に眠った。
クリスマスの日,なにかにつけて回復の具合が気になった。昼休みを待って嵩子に電話をかける。
「きのうは・・・じゃなくて,きょうはホントにありがとう」
吃るようすもなく,彼女の話しぶりは普段と変わりなさそうであった。
「だいじょうぶか?・・・準夜は行けそうなのか?」
「もう平気よ,ちゃんと行けるわ」
「よかった,これでおれも安心したよ」
「でも・・・あなたこそ,だいじょうぶだった?」
「まあな・・・」
と,言い淀んでしまう。発作につながることはコリゴリだった。
「どうなったの?」
わたしだって関与してるんだから聞かせてよって,せがんでいるふう。
「ちょっぴり,タカコのことをしゃべった」
「なんて?」
「別れていないって・・・」
真子に表明した『関係を絶つ』という契りはどこへ行ってしまったのか,嵩子と話すときは彼女の発作のことが絶えず頭から離れない。
その日は早ばやと帰宅した。が,その必要はなかったと感じるくらいに真子の態度は冷ややか・・・おさめきれない怒りを八方に発散させ,他人行儀に動きまわっている。いかように申し開きをしても跳ね返ってきそうだった。でも嵩子のことをうやむやにしてはおけない。
「マコ・・・ゴメン」
「・・・」
「おれがワルかった・・・」
「あやまって済むような問題じゃないわ!」
「わかってる・・・」
「ナニがわかってるの? あなたはずっと裏切っていたのよ!」
この場をしずめられる答え方などありそうにない。示せるのは謝罪の気持ちのみであって明日のことすら誓えない。だいいち「今すぐ別れる」って言い切ることもできない。現状を軽視して断言すれば,ウソをウソで塗り固めていかねばならず,あげくのはては自爆するしかなくなることだろう。
ふたりとも無言で食事をした。彼女は食べ終わると後片付けや掃除や洗濯に口惜しさをぶつける。そのようなとき二部屋のマンションは困りものだ。折りたたみの小さなテーブルと灰皿を,寝室代わりに使っていた畳敷きの部屋に持ち込んで,なんとも切ない時間を遣り過ごさねばならなかった。