年が明けてからも,依然として険悪な状況は燻りつづけていた。しらぬまに薬指の指輪も外されて・・・。
1月の雪深い夜,帰宅する前に嵩子のところへ寄り道していた。
国立病院は兼六園のすぐそば,大学病院と直線距離にして一キロも隔たっていない。彼女のアパートは通勤のいわば裏道ルートにあり,立ち寄るには持ってこいであった。ただし,そこには駐車スペースが2台分しかなく,嵩子と他の住人関係者が車を止めていた場合,小路の歩道に半分乗りあげて路上駐車をしなければならなかった。
ある程度の雪が降り積もった日には,歩道に乗りあげることは困難なうえに迷惑千万な行為,その夜はしかたなく大通りに回って違法駐車をしていた。
じつは車をとめた場所から二百メートルほど先に交差点があって,その十字路の一角に真子の勤める出版社の本社ビルが建っていた。もちろんそのことは知っていたけれど,時刻が遅かったので別段気にもしていなかった。
家にかえると,着替えもしないで真子が待っていて・・・『おや?』 どうしたんだろ・・・「ただいま」
「どこからの帰り?」
「どこ?」
おもわぬ問い詰めに私はたじろいだ。「病院からだよ・・・」
「うそよ!」
「・・・ウソって?」
「会社を出て,たまたま通りに目を向けたら,あなたの車を見つけたのよ!」
そういうことか。真子は仕事かなんかで遅くなったってことだ。偶然が重なって危ない夜もあるかも・・・と思ってはいたが,それが今夜だったとは!
「すまなかった。用事があって回り道してきたんだ」
「どこへ?」
嵩子の住んでいる場所を真子は明確には把握していなかった。
「・・・向こうにちょっ」
言い終わらないうちに,険しい目つきで真子がこちらへ迫ってくる。ハッとして身構えた・・・押し倒される! はたして彼女は,両手で力いっぱい私の胸を突きとばした。うしろのソファに勢いよく飛ばされてしまったオレ。
そのうえ予測する間もなく,いきなりクッションが眼前にあらわれ,払いのけることもできなかった。
でも,これでいいんだ・・・なんであろうと罰として受けとめねば。
「なによ,こんな状況で,やっていけるとおもうの?」
「ゴメン」
「そんなんじゃ,あなたはいつまでたっても別れられっこないわ!」
「時間をかけてナントカするから・・・」
「ジカン?・・・いつまで待てっていうの」
「それは分からない」
「なんて身勝手な・・・わたしは,もう待てない!」
見限るような冷めた口調で彼女は言い放った。これじゃ最後通牒を突きつけられたも同然・・・唇を噛みしめる。いかなる事態になろうとも真子を諦めるなんてイヤだ。そうしてヤミクモに絞り出した文句は,ただの捨て台詞に過ぎなかった。
「おまえも,なってみたら分かるさ」
「わかるってなにを?」
「マコだって,おれの立場だったら・・・同じようなことをしないともかぎらないだろ」
「ゼッタイ,おなじい立場になんかならないわよ」
そのとおりだ。真子がこのような状況に陥ることはない・・・これはオレが招いたこと。スジ違いもいいところ,弁解にも言い逃れにもなりゃしない。
「あなたへの気持ちが,ちょっとずつ変わっていくような気がする・・・」
「おれは,ぜんぜん変わらないよ,マコ」
そのあと彼女は一言だって口をきいてくれなかった。
真子が東京に帰ってしまう懸念をよそに,嵩子のところへ私は相も変わらず顔を出していた。密通に勘づいていたのだろう,非難こそ真子は口にしなかったが,日を追うごとに私をあからさまに無視するようになった。
それは彼女の内部で『オレ』が進行性かつ不可逆的に変質していることを意味していたが,真子に対する私の気持ちは浸食されることがなかったから,金沢で生活してくれる限りどうにかなるだろうと高を括っていた。
ところが,春の足音が聞こえて間もないころ,そいつは大変な誤りであると図らずも思い知らされる。
3月中旬,まだ肌寒い週末の夜。
出版社の送別会に出席して真子は家を空けていた。嵩子はというと,折あしく準夜勤務・・・それで,足がしぜんと片町へ向いたのだ。
朝ちゃんのいる店で格別楽しく飲んだわけでもないが,日頃の気遣いに疲れていたのだろう,それなりの憂さ晴らしにはなった。
しかし,飲みすぎて夜更けになれば,どうせろくなことはない。余分なストレスを溜めないためにも真子より早く帰宅しようと,23時頃には朝ちゃんの不満げな見送りをうけたのである。
人のまばらな裏通りをぶらぶらと,ラブホテルの正面を横切る小路へと曲がった。目に飛び込んできたのは一組のカップル・・・私より背が高くてやや太めの男性と,いかにも均整がとれて艶めかしい女性のうしろ姿。
いささか女は酔っているのか,よろめいて男に抱きかかえられ,そのまま一緒にホテルへ入ろうとする・・・刹那にチラリと見えた,たちどころに酔いが醒めてしまうほどの,オンナの横顔。
自身の目を疑いたくなるくらいに,そっくり? 否!・・・突如,直観的に下された審判はイナズマのごとく脳天をつらぬいた。
あれは,まぎれもなく,真子だ!
追い討ちをかけるように・・・脳味噌が焼けこげる間に,二人はホテルの中へと忽然と消えてしまったのだ。
あわててホテルの入り口に駈けよった。だが,覗きみようにもフェンスに遮られて中の様子はまったく窺い知ることができない。
一歩退いて立ち尽くす・・・今しがた,目の前で繰り広げられた信じられない光景を,細部にわたって一つずつ吟味せずにはいられようか。
あのヘアースタイル,あの見覚えのあるような服の色あい,あのウェストからヒップへのシルエットライン,あの微かな笑いを形づくる口もと,とりわけあの仕草の・・・いいようのない滑らかなバランスの良さ。
時間をかけて反芻し,確証にちかい印象を得てからも受容したくなくて思い直してみる。なれど・・・願うような結論に導かれることはなかった。
不意に胸の奥底から,憤怒がモーレツに湧き上がって,湧き上がって,湧き上がって・・・一挙にカラダの隅々に流れこみ,アタマは巨大なマグマだまりへと変容していった。
『真子! これがおまえの本心か!』
踵を返さずにはいられない。怒りにまかせて荒々しく路面を踏みつける。落ち着こうにも次々に激情が押し寄せてきてどうすることもできない。信じたくもないシーンが見えるものより鮮やかに網膜に映しだされ,悶々とした感情を繰りかえし増幅させていく。
あっという間に朝ちゃんの店のところまで戻ってしまった。が,再度顔を合わせたくなかったし,だれとも喋りたくない・・・ひとりで居酒屋のカウンターでやけ酒をあおるよりほかなかった。
いつしか,ただの酔っ払いと化し,あげくに千鳥足でふらふらと帰ることになろうとは・・・どこへ? むろん嵩子のアパートへ!
気がついたら隣に嵩子が眠っていた。たぶん準夜勤務から帰ってきたところへ押しかけたのだろう。ガンガンする二日酔いの頭脳で,飲みはじめてからの断片的な記憶を辿っていると,突然・・・あのイマイマしい光景がはっきりと強烈によみがえる。その映像を殲滅するべく,嵩子と交わるだけではあきたらず激しく愛することで真子に復讐した。
恋人の荒れている事由なんぞ嵩子には取るにたらないことであったにちがいない。いつになく彼女は悦びに浸りきっていた。「気をつけてね」・・・朝食を食べずに帰ろうとしても,そう言ってやさしく送り出してくれたのだから。
羽目をはずしたりした場合,どれほどウォーキングが好きであろうと,早朝に歩いて帰ることは避けたほうが無難である。早起きの人たちと必ず出会うことになり,どう取り繕ってみても白い目で見られるのが落ち・・・だけど,この日曜日の朝はそれどころではなかった。
なにかに追われるようにスタスタと歩みをすすめる。いくらか時間が経ったことで多少アタマも働くようになったけれど,家に近づくにつれて怒りがじわじわと高まっていくのを喰い止めることはできなかった。
『元をただせば,オレの責任ではないか』
真子のこころが私から離れたとしたら,その要因は私自身の言動にあるといわざるをえない。かくも正しいことはないだろう。そうであっても,真子を許せない気持ちは理性とは別物であった。 理性は家に着いたとき,感情によって完全に息の根を止められた。
彼女は眠っていた。その寝スガタを見るなり,嫉妬と憤怒の混ざりあった情動はよりいっそう荒れ狂ったのだ。
「マコ・・・真子! 起きろよ!」
目を覚まし,すばやく起きあがった彼女・・・鬼のような私の形相にびっくりしていたものの,目つきは冷たく刃向っていて『なんでわたしが非難されなければいけないの?』とでも言いたげな態度を示していた。
「おまえは,きのうの夜,どこへ行っていたんだ!」
「ナニを言ってるの?」
「きのう送別会が終わったあと,おまえはどうしたんだって言ってるのさ」
「二次会にきまってるでしょ」
「そのあとは」
「どこへも行かないわ・・・」
「冗談言うんじゃないぜ! おれは見たんだよ」
「・・・」
彼女の目線が動いた。
「おまえが,オトコとホテルに入るのを,この目でしっかり見たんだよ!」
「そうなの・・・」と,ため息まじりに彼女はこたえた。
すると,身構えていたものが真子から消えていくような感じがして,防御も攻撃も捨てたような自然体で彼女はつぶやいた。「わたしは,どうにもできない苦しさから解き放たれたかっただけ・・・ただ,それだけ」
意外な返答であった。ナミダが頬を伝って零れおちる。
「あなたのことで毎日毎日がつらくて,でも誰にも相談できなくて,それできのうはすこし飲み過ぎたみたい。二次会が終わったところで先輩が送ってくれて,そのときに告白されたの・・・好きだって。信じられなかったけど,わたしはうれしくて,なにか救われたような気がしたわ」
「で,好きにでもなったのか,そいつを」
「そうじゃないわ。誤解しないで・・・告白を聞いたとき,あなたの言ってたことを思いだしたの。おまえもなってみたら分かるって・・・あなたが言ったのよ。おぼえてないの?」
「バッ,バカいうなよ,おぼえてるさ」
見破られて苦しまぎれに吐いたセリフだったのに・・・なにゆえに真子,そんな言葉に左右されるんだ!
まともに受けとってしまった彼女を,つい発言した自分の責任も忘れて恨んでしまう。軽はずみで投げそこなったボールなんか,実のところ戻ってこなくてよかったのだ。なんて皮肉なことなんだろう・・・こんなにズシリと重くなって自らに跳ね返ってくるとは!
「わたしも,あなた以外の人に,抱かれていいのかもしれないとおもったの。なってみないと分からないのなら一度なってみようって。それに,酔っていたから・・・とにかくわたしは,いまの苦しみから逃れたかった・・・」
「だからといって,そいつに抱かれてもいいのか!」
気も狂わんばかりに嫉妬しているこのオレは,さぞかし醜いことであろう。でも,どう見えようが,いっこうにかまやしない。もはや感情を封じ込めるなど,どうしたって不可能なこと。もし,その男がこの場にいたら,ひとおもいに刺し殺してやりたいくらい。
「ごめんなさい。でもわたし,あなたのことを,こんなに愛しているとは思わなかったから・・・」
愛しているというのに,どうしてオトコに抱かれたりするのだ。嵩子なら,そんなことは起こりっこない・・・おこりえない?
オレは?・・・しかし,かくいうオレは,いったいどうなのだ? 嵩子を抱いているオレは,真子を非難できるのか? 現にさっきも,真子が許せなくて嵩子を抱いたではないか! 愛するがゆえに許せなくて・・・。
嫉妬に狂っていた私であったが,その妬みの深さが真子の苦しみを浮き彫りにしたのは,まだしも救いだった・・・からくも理性が働いた。
愛するがゆえに許せないというのなら,オレがやっていることは何なのだ。真子にとって許しがたい行為をしている自分・・・オレは真子を非難できる人間ではない。もっとも許されないはずのオレが真子を非難してはならぬ。
「でも,そのオトコは勘弁できない」
すんでのところで彼女を責め立てるのは思いとどまったが,抑えきれないジェラシーの矛先はおのずと相手の男に向けられた。
「そいつに会って,きっちり決着をつけてやる」
「それはやめて! お願いだから。あなたと一緒にいるかぎり,もうあなた以外のオトコに抱かれたりはしないわ」
「そんなわけにはいかない! おまえにその気がなくても,そいつはどうだか分かったもんじゃない。 男なんて,口先では調子いいこと言ってもカラダはまるっきり違うんだ」
「あなたもそうなの?」
「おっ・・・おれは,むりやり女を抱いたりはしないさ」
「それならわたしを信じて。わたしにもオトコを見る目はあるわ」
その男は断じて許せないが・・・引き下がるよりほかないのだろう。彼女の肉体もこころも,ぜんぶオレのものにしておきたかった。それに言い争うあいだに少々怖じ気づく。嵩子のことでは自分が責められる側であるのに気づいたのだ。
形勢が逆転すれば藪蛇ではないか。「しょうがない。大目にみてやるよ,マコに免じてな」