母が永眠して,わたしは天涯孤独の身の上となった。
6月になって母の言い残したとおり,遠縁の人の協力をえて,祖父母の眠っている墓に納骨を済ませた。けれど・・・悲しくはなかった。それどころか今まで以上に,宿命めいたものをおぼえてココロは打ち震えたのだった。
この世に生まれた経緯,生まれついた性格,生まれてからの境遇・・・それらがそれぞれ私の生き方に大きく関わっている。
しかも,どれか一つでも与えられていなければ,未熟のままで終わってしまうにちがいない。すなわち,十全なる成熟に欠くべからざる要因を,私はすべて授かっているのである。
ならば,どのようなことがあろうとも,成就しなければならぬ。
『あくまでも独りで生きていこう』
・・・オレに与えられた使命ではないか。
もはや恋にも未練はない。恋の全エネルギーを使い果たした。要するに,恋するココロは無用の長物に過ぎなくなったのだ。
7月下旬,大学から内々で異動の相談があった。
学位論文を書いていなかったので,私はいまだに医局に在籍していた。もとより博士号を取得するつもりなんかない。たんに医局の慣例に従っていたまでのこと。この機を逃さずに私は就職をつよく希望した。
8月お盆まえ,研究室のリーダーと話し合って10月よりK病院に就職することが内定した。さらに学位を取らない意思を伝え,医局からも離れることが決まった。
その月の最終の週末,気ぜわしくなるまえに嵩子を夕食に誘った。
ちょうど彼女は誕生日を迎えたばかり。見た目には,ひと昔前の若さ真っ盛りの頃とは違っているが,依然として嵩子らしい輝きは失ってはいない。純粋で一途なところは色褪せないまま・・・深みのある,みごとに熟した女の香りがする。むろんのこと,あの過去の発作の翳は毛ほども感じられない。
金沢駅前にそびえたつホテルの30階,はじめて入ったスカイラウンジは,さすがに眺望が素晴らしい。ここから夕日を見たならば,さぞかしキレイなことだろう・・・でも,ちょっと眩しすぎるかな,と想像してしまうほど印象深いものがあった。
辛口の白ワインに,一品もの二つとサラダを注文する。「相変わらずワンパターンね」と,彼女が笑った。まさにその通りだとおもう。
35歳の嵩子に遅ればせの祝杯をあげたのち,ハナシの口火を私がきった。
「じつは10月から,転勤することになったんだ」
「えぇ,ホントに・・・どこの病院?」
「K病院」
「どれくらいの予定?」
「こんどは出張じゃなくて就職するから,ずっとかな。それで,9月に引越そうとおもってる」
K病院からは,住むところは自分で探してほしいと要望された。住居費は規定分だけは出るそうで,足りない分は自前で払うことになる。
「どこに住むの?」
「いや,まだ決めてない。これから探さないといけないんだ」
「じゃ・・・わたしも手伝ってあげる」
と,嵩子は案外さばさばしている。が,彼女の内部では複雑な思いが交錯しているのではないか?
8年前の引越しの情景が脳裏に浮かんでくる・・・あの東京への転勤からふたりの関係が変わりはじめた,と言ってもおかしくはないのだ。
「でも・・・頼んでもいいのかな」
「なによ,いまさら」
オレの独りとは,こういったことでもいいんだろうか? 今回も転居の手助けをしてくれるという。
でも,独りだとおもう。もっと生きていれば,さらなる真実がみえてくるのかもしれない。ひょっとすると逆であって,どれだけ生きていてもすっきりとしたモノはみえてこないのかもしれない。
いずれにしても私は,この時すでに・・・K病院に就職したら,自らは嵩子に逢わないと心に決めていた。とはいっても,彼女が逢いたいと言ってくれば拒否するつもりはない。
それがオレの生き方であって,だからこそ思うところがあっても別れの言葉は要らない。まして頭には例の発作の惨劇がこびりついていたから,なおさら口にする気にはなれない。
「わたし,あなたに話しておこうかな」
何だろう?・・・好きなオコトでも,できたというのか。
「うちの病院の整形外科の先生が,奥さんと別居していてね・・・最近,その人の世話をしているの。いろいろ精神的に参ってるみたいで,こころのケアをしている感じかな」
「そうか・・・その人はいくつくらい?」
「たしか47歳・・・」
以前なら,まちがいなく嫉妬めいた感情を持ったことだろう。いまは誰であろうと,何ものも求めたくはない。
「わかったよ。タカコの思うようにしてあげたらいい」
ほかにも訊ねてみたいことはあったが,遠ざかる人間にはその資格がないようにおもわれ,口には出さなかった。
「そう言ってくれると,やっぱりうれしいわ。あとねぇ・・・ひとつだけ訊いてもいい?」
「いいよ」
「また逢ってくれる?」
「もちろん」
引越し先を決めてから,是が非でも真子に逢わなければならない,そんな思いに捕らわれた。
・・・きっぱり訣別せねばならないのだ,彼女とは。
なにゆえに? きっと,恋するココロに・・・急所をはずさず,正真正銘のトドメを刺すために。
連絡をとり,9月半ばの週末に逢う約束をした。
その日,不動産会社に寄って賃貸マンションの契約を済ませてから,東京方面行き,ほくほく線経由の特急に3月の開業以来はじめて乗車した。
午後6時に待ち合わせをしていたので,新橋のホテルにチェックインして銀座へと急ぐ。
約束の時刻より10分早く和光に着いたが,彼女のほうが先に来ていた。
「はやいね」って言うと,
「あなたを待たせたくなかったから」と真子。
金沢に住んでいたときと違って,いかにも溌剌として爽やかな雰囲気が漂っている・・・どことなく束縛するものを嫌って自分の意思で行動する女の匂いがした。三十路も近いというのに,信じられないほど若くて麗しい。
「今夜も,すごくステキだよ」
離れてから内なるものが深まって,いちだんと魅力的になったようだ。
「なかなか,ほめ上手になったわね」
と,真子が微笑んだ。その何ともいえない笑顔が好きでたまらない。むかし独り占めしていた日々を想い浮かべながら,腕を組んで足の向くまま数寄屋橋のほうへ歩いていく。
「あのさ,ことしの5月,おふくろが亡くなったんだ」
まだ彼女には何も言っていなかった。
「病気で?」
「そう,子宮がん。見つかったときには,末期だった」
「いくつ?」
「満で64歳」
「まだ若いのにね」
「転移していたから,仕方がなかったのさ」
「冷たいのね」
「そうかな」
「そうよ。あなたは冷たいわ」
三年弱は一つ屋根の下で暮らしていたから,真子の感性は正しく真実を捉えている。
「ちゃんとおふくろに謝ったよ,ごめんなって」
母の最期を思いおこす。
冷たくても自分の息子には文句は言えないことだろう。あのとき一目散に駈けつけたけれど,お袋はオレのことを許してくれたであろうか。
「それで,なにか大事なハナシがあるみたいだったけど・・・」
「7月に大学から転勤の相談があってさ,けっきょく来月からK病院に就職することになったんだ。K病院・・・知ってる?」
「名前は聞いたことありそうだけど,もう忘れちゃったわ」
「おふくろが死んでから,いろいろ先のことを考えるようになって・・・おれも41歳だろ,さすがに就職しないのはまずいとおもったから,研究室と掛け合って決めたんだよ」
「よかったわね」
「ところでさ,マコは結婚しないのか?」
「けっこん?・・・もしかしたら,するかもね」
聞いた瞬間,不覚にもズキッと胸が痛んだ。だが,すぐさま思い直した。そう,これでいいんだ。
「そうか,マコも,いよいよ結婚か・・・」
「ちがうわ! あなたが結婚のこと訊くからよ。さっきのは,わたしも30近くになって,真剣に考えるようになったってこと」
「マコなら,すぐに結婚できるさ。あっという間に決まっちゃうよ」
「そんなはずないでしょ,あなただって,わかってるくせに」
「あぁ・・・分かってるさ」
たがいに自分の道をあゆんでいかねばならないんだ。「分かっているから,おれもマコと逢うのは・・・これで最後にしようとおもってさ。それで東京にやって来たんだ」
「まさか,あなたが結婚するの?」
「んなわけないよ,おれは一生涯,独身さ」
「じゃ,どういう意味?」
「これまでの自分に,ケリをつけたくてさ」
「心機一転ということ?」
「まあ,そんなとこかな」
「あなたには,もう・・・わたしは必要ないものね」
『そうとも言えるけど,真子,ちょっとちがうな・・・オレは,お前だけを愛しているんだ! でもオレは独りで在らねばならない。どういう因果なのか,オレはそのように生まれた。そして,真に独りであるためには,命懸けの愛が必要だったんだ。そうなのだ・・・人間は,弱くて脆い! 真子を愛した自負と誇りがなければ,独りでは生きていけない。ようやくにしてそのことが分かったよ。だけど・・・いや,だから・・・』
ちらっと彼女を見て,内心つぶやく。
『きょうで・・・終わりにするよ』
「それに,あなたにはちゃんと・・・命をかけて愛してくれるヒトがいるんだもの」
『真子,ちがうんだ! オレは独りで生きていくつもりなんだ。おまえを命懸けで愛したからこそ思い残すことはナニもない。これからのオレにあるのは,愛なき愛のみ。それは・・・オレの求めた無限の愛なのさ。だから,どこまでも,オレは独りで在りつづけたい。最期まで・・・そう,死ぬときも』
その刹那,忽然と空から舞い降りてきて,オレのカラダに染みこんだ思念。
『死ぬときには,みずから命を絶とう』
そうでなければ独りを貫けない。
「どうしたの? きゅうに黙って・・・」
「ごめん,なんて答えたらいいのか,分からなくて・・・」
言葉にすることはできない。それは言葉にしてはならないのだ。独りで生きると決めたからには,真子にも知られるわけにはいかない。
数寄屋橋まで来ると,そのままマリオンを抜けていき,有楽町から地下鉄に乗って飯田橋へ向かった。
久方ぶりに神楽坂をぶらぶらし,雰囲気の良さそうな居酒屋を見つけて入ってみる。
店内の予期せぬ暗さにびっくりしたが,各テーブルの壁には本物のキャンドルが灯っていて,癒し効果はバツグン・・・難点といえば,二人用の席では注文した料理がテーブルに載りきらないこと。
それでも運ばれてきた品々はとても美味しくて,揺らめく陰影が彼女をよりいっそう妖しく引き立てて,なにひとつ不満はなかった。共に住んでいるときには言えなかった男女関係のこともフシギなくらい語り合うことができた。真子と私は,やはり別々の道を歩いているのだ。
かえり道,毘沙門天に寄ってみたが,扉が閉まっていて中へは入れなかった。
『いっしょにお参りなんて・・・いまさら,ないよなぁ』
と,自らを慰める。そのあと,べったりくっつき合い,手を繋いでゆっくりと引き返した。
・・・彼女の黒髪が,風になびいてオレの頬を幾度となく撫でている。
話せなくても一向にかまわない。じかに真子とふれあい,ありのまま親しく感じていられる時間を大切にしたい。できれば,もっと遅く・・・と願う一方で,どうしても立ち止まることは躊躇われた。
・・・わずかな一歩ずつといえども,着実に進んでいく。
いつの間にか,牛込橋のJR飯田橋駅西口に辿り着いて,ふたりの足取りが止まった。
「これで,逢うこともないのね・・・」って彼女がつぶやく。
「偶然,どこかで出逢うかも・・・」
「まさか,東京じゃムリよ」
「そうかな,奇跡はおこるもんだよ,念じれば・・・」
と,未練がましく応じる。心のなかで,ささやく声がした。『もはや,念じることなど要らない。幕を下ろすときがきたんだ』
「マコ,いままで・・・本当にありがとう」
彼女の柔らかい唇にそっとキスをする。
「わたしも・・・アリガト」
澄んだ瞳の深みに,うっかり吸い込まれそうになった。「ホテルへ,どうやって戻るの?」
「すこし,ぶらついてから帰るさ」
つい今しがたまで吹っ切れなかったのが嘘のように,切符を買う真子の後ろすがたを静かに見届ける自分がそこには在った。冷たい風がこころを吹き抜けていた。それから改札口まで彼女のあとについていく。
改札を通るなり,振り返った真子。
「元気でな」
・・・私の小さな声は,彼女に届いたかどうか。
「あなたも・・・」 かわいい唇がそのように動いたとおもったが,彼女が言ったかどうか。
私がうなずくと,彼女は右手を軽く振ってから,あのホームへとつづく独特の通路・・・長くてゆるやかなスロープを降りていった。しだいに人影に見え隠れして分かりにくくなっても,なおも見守りつづける・・・
・・・電車が着いたようだ。下車した人が上ってきて混じりあい,とうとう完全に判別できなくなってしまった。
『これでよかったんだ』
と独り笑いし,切符を買い求めて私は改札に入ったのだった。
9月の最終日曜日,7年間にわたって暮らした住居を引払い,築数年ほどの賃貸マンションに移った。嵩子がまたもや引越しの手伝いをしてくれた。いくら感謝してもしきれないくらいだ。
10月,K病院に就職し,わたしは新たな人生を歩みだした。