( 7 - 11 )

 

 3月,春うららの送別会シーズンとなり,密会の目撃・・・私はそのように感じているのだが,あれから一年がまたたく間に過ぎ去ってしまった。

 いまでは冷静に受けとめ,よもや限度を超えてあの男を憎むことはないと思うものの,自己とはどういうものかを知ってしまうと,正直なところ内に眠る本心に自信がもてない。

 この年度末の時期に,例年どおり幕張メッセで循環器の学会が行なわれた。そろそろ前を向いて話し合わねば・・・と考えていたので,参加にさいして真子を誘って東京へ出向くことにした。

 一日目,真子は実家に帰って一泊する予定を組んでいた。わたしは想い出の詰まったS病院の周辺へ行き,六本木交差点ちかくのホテルに飛び込みで宿泊した。以前から一度は泊まってみたいと思っていたが,料金が高いわりに部屋は狭苦しくて大いにがっかりする・・・ちなみに現在では東京ミッドタウンがあるので状況は変わっていることだろう。

 夜はアマンドの裏通りにある日本酒の店で食事を兼ねて一杯やった。年配のマスターと粋な女将さんとで繁盛していたその店も,残念ながら数年後には無くなってしまった。ネオン街の店の移り変わりはじつに激しいものがある。

 二日目は幕張メッセで学術集会に参加したあと,日が傾くまえに赤坂見附に向かった。真子と落ちあう約束をしていたのだ。

 たそがれどきに,ベルビー赤坂からホテルの並び立つ眺めを懐かしんでいると,彼女に声をかけられる。

「おまたせ。ずいぶん待った?」

「ん~,5分くらいかな」

 夕刻になって冷たい風が強く吹きこんでくる。「3月はまだ寒いな。早くどこかに入ろうか」

 どこでもいいから,すぐに入れてゆったりできるところがよかった。目の前のホテルへ移動し,3階ロビーにつづくレストランへ駈けこんだ。

 料理を注文してから問いかける。

「家のほうは,どうだった?」

 いかように答えたらいいものか,彼女は戸惑っているふうに見えた。

「変わりはなかったけど,結婚しないことと・・・」すこし間をおいて「9月一杯で仕事を辞めて,東京に帰ってくるって言ってきたわ」

「そうか・・・」 言葉に詰まる。

 ついに真子は決心したのか!

 かならずや私のもとを飛び立っていくものと覚悟を決めていた。そうであっても虚しく寂しい気持ちがこころのすき間をいつまでもぐるぐるとまわりつづける。ふと目をうつすと,彼女は窓のむこうの景色を・・・車の行き来する交差点を見ていた。真子の見つめる先に吸い寄せられる。

 次々に停まっては走り去っていくテールランプと向かってくるヘッドライトの波・・・音のない風変わりな海をながめるようであった。

 返えす赤と寄せる白のコントラストのある流れを見ていると,僅かずつでも心が洗われる。

 知らないうちに求めている自分・・・そう,求めないことだった。

「マコが決めたのなら,それでいいよ」

 

 懐かしのラブホテルに泊まろうか,と何げなく持ちかける。彼女は見透かしていたのだろう,わかったわと言って承諾してくれた。

 駅のコインロッカーから荷物を取りだして赤坂までぶらつく。途中から真子の手を握りしめた。寒さに耐えられなくて彼女は拒む気になれないだけであろうと私はうれしかった。

 背を向けあう二つのラブホテル。たぶん経営は同一会社・・・雰囲気の異なるホテルをわざと並べ,飽きさせない趣向なのだろう。ただメインに利用したのはオレの好みでケバケバしくないほうだった。今回も同様の選択をした。

 シャワーを浴びて,直前にコンビニで買った缶ビールで乾杯する。

「きょうはありがとう」って言うと,真子は「なにか,出逢ったころにもどった気分」と返してくれた。

 このような形で終わっていくなんて,あの頃には夢にも思わなかった。しかし自己を知るための道だったと諦めなければならない。でも・・・真子はどうなのだろう?

「マコは,おれと出逢ってよかったとおもうか?」

「わからないわ。あなたのことはイマでもキライではないけど,好きなのかどうか,わからなくなってしまったから・・・」

 なんと正直な答えだろう・・・いまでもオレは真子が大好きだというのに,やるせなくなってくる。

「あなたは,わたしと出逢ってよかったの?」

 見えをはるつもりはない。素直に返答すればいいのだ。

「あぁ,マコと出逢えて・・・おれは最高に幸せだよ」

 できることなら,おまえとずっと暮らしていたい・・・そう心の中でつぶやいた。

「どうして?」

「好きに,ナゼってぇのはナイのさ」

「いまのわたしでも?」

「あぁ,いつでもマコが好きだよ」

「わたしは・・・わたしだけを想ってくれる人がいい」

 そりゃそうだろ。当たり前のことだ。オレだっていっしょ・・・なのでオレには,真子を愛する資格はないと思っている。もう真子のこころのままに生きればいいさ。ところで,あいつとはどうなっているのだ?

「マコ,ちょっと訊いてもいいか?」

「ナニ?・・・あらためて訊かれると怖いわ」

「あのオトコのことさ。マコはあいつが好きなのか?」

「きらいじゃないわ・・・でも,愛しているわけじゃない」

「感謝している?」

「えぇ,救われた気がするわ。あのときはホントに苦しくて,わけもなく涙があふれてきて,どうしようもなかったから・・・だけど,とくべつな感情はないわ」

「マコはそうかもしれないけど,あいつはおまえのことが大好きだろ」

「そうみたいねぇ。だから悪い感じには思えないのかしら・・・」

「付きあっていくのか」

「それはないとおもうけど・・・」

 これ以上たずねても仕方がない。なにをしようと彼女の自由だ。

「わたしも,訊いていい?」

「いいよ」って返事してから胸は不安でいっぱいになる。

「わたしと一緒に住んでいても,その人と寝ていたの?」

 なんて質問だ。ここで嘘はつきたくないが・・・? まてよ,つく必要もないか,別れてしまうのだから。

「ときどき・・・」

「いまも?」

「・・・たまに」

 唖然とする真子・・・もう決定的に嫌われたことだろう。

「わたしね,あなたとセックスしていても,見知らぬ人と絡んでるあなたのスガタが浮かんできて,気持ちがどんどん引いていたわ」

「あぁ,分かってる」

 オレにしたって,真子や嵩子の幻影に邪魔されることが度々あった。ただ反対に刺激をうけるときもあったけれど。

「マコは,あいつと寝ているのか?」

 本音が顔を出す。酔ってきているのだろう。

「一回きりよ。ヘンなこと訊かないで!」

 そうか。問うたことを後悔するが,関わらないと言いながら気になっている自分がいるのも事実である。どうにも自己というものはやっかいだ。

「10月から,おれたちはどうなるんだろう」

「わからないわ」

 先のことは決めておいても分からない。だいたい,こんな状況をいままで予想はおろか想像すらできなかったではないか。自分自身さえも分かっているようで分かっていない。それでも人間は,予期せぬ現実をつねに肯定し,分からぬ自分をつねに信じて生きていくしかないのである。

 タオの思想を,わたしは漠然と思い浮かべていた。

 

 道が語りうるものであれば,それは不変の道ではない。(老子 小川環樹訳注)

 

 

 

 春は新年度に入り慌ただしく,夏も出版社のイベントがあって真子は忙しい日々を過ごした。9月は送別会と出立の準備に追われて・・・秋もこれから深まるという10月の第一日曜日,彼女は金沢を去っていった。

 私は37歳のなかば,真子は25歳もおわりに近い年齢でヒトツの節目をむかえた。さしずめ一旦の別れは不可避だったにしろ,本当の別離は今後に控えているような・・・きっと真子も同じ感覚だったのではないだろうか。