今回の一件は,真子にも私にも様々な変化をもたらした。
時間がたってツラツラおもんみるに,真子が浮気をした根源には私の裏切りがあるばかりで,彼女には根本の原因はなかった。自らの中に巻き起こった嵐のような妬みと怒りを検証すると,彼女のとった振舞いは正当なことにおもえる。私が真子だったら・・・即座に裏切りオトコとは別れることだろう。
好きであろうと,私は不義をはたらく女性と一緒にいるつもりはない。そうなのだ。これまでの私だったら,浮気をしたオンナと付きあうなんて絶対にありえないこと・・・たとえオノレが浮気をしたとしても。
しかるに,ありえないはずのことが今,ここに現実としてあった。
私は・・・だれも愛せない。そうした自己に納得もしていたし,だから誰も愛さないと思っていた。愛せないから嵩子のことも内心奥深くではそれでいいと思っていた。愛さないからジェラシーとは無縁だとも思っていた。
ところが,実際はまるで違ったのだ。怒濤のごとく,嫉妬と憤怒が凄まじい勢いでココロに逆巻いたのである。そのことに自身がいちばんオドロき,傷つき,どうしてなのか見極めないわけにはいかない。
源流に向かって遡っていくと,真子をだれにも渡したくない際限なき欲望に行き当たって,もういちどオドロいた。
真子を・・・これほどまでに愛しているとは,イマのイマまで私はついぞ思ったことがなかった。 そう・・・まさしく命を懸けて愛しているとは!
だのに,このまま裏切りをつづけていれば,当然ながら真子は私のもとを去るに決まっている。なによりも真子は嵩子と正反対であった。だれかひとすじに恋をするとは思えない。それは真子と付きあいはじめたときからの私の不安でもあった。
欲せずにはいられない女性が遠ざかっていく危惧と,これまで掌中にあった珠玉を失ってしまう口惜しさが入り交じって,真の原因はオノレにあるにもかかわらず,わたしは嫉妬をはらんだ猜疑心に支配されていく。
出版社の行事や時間外業務のため真子がマンションにいないと知るたびに,それを口実にあの男と逢っているのではないか,と疑いを抱いては神経を苛立たせた。また穏やかでない胸中はしばしば嫌味な言動や不愉快な態度となってあらわれた。
5月のある夜のこと。
帰宅したとき,ヘッドライトがマンション前の道路を照らしだした。ちょうど真子が,しゃれたコンパクトカーの横に立っていて,車のなかの見知らぬ人影と喋っているみたい。
だれ?・・・アタマに血がのぼる。そのとたん人目を避けるように不審車は前方へ走り去ってしまった。私であるとは気づかないのか,彼女は見向きもしないでマンションの入口へ向かっていった。
はらわたが煮えくりかえる。玄関ドアの前に立ったとき頭のなかは疑心暗鬼でいっぱい,リビングに入るやいなや見透かされないよう,つとめて平静をよそおい彼女に問いかけた。
「会社のヒトにでも送ってもらったのか?」 疑念はイマにもオモテに出てきそうだった。
「えっ・・・そうよ。遅くなったから」
事実に反しない返答であっても,無関係を強いるような素振りと平生の冷淡さが猜疑を後押しする。遠まわしに訊くつもりもなくなった。
「アイツにかっ」
真子の顔つきが変わった。
「ちがうわ! かってに決めつけないで」 さては虚偽なのか?
「いそいで車は去っていったんだから,ホントのところは分からないよな」
「なんで・・・なんでそんな言い方するのぉ! 残業で遅れたから,同僚の人に送ってもらっただけなのに・・・」
運転していたのは男だという確信,というか思い込みが私にはあった。問題は,あのオトコかどうか。考えてもわからないぶん疑惑は深まる。
「アイツと,わかれもしないでコソコソ逢っているのか?」
そのような私に愛想をつかしたのだろう。「もういいかげん,ヤメて!」って叫び,いつもの冷ややかな真子へもどっていった。
それからは互いに沈黙し,気まずい空気が立ちこめる。あとあとのことまでは考えていなかった。成り行きに逆らうこともできず,蔑ろにされる腹立たしさをどこにも持っていきようがなかった。
やがて私に言い聞かせるように彼女がささやいた。
「わたし,あなたと,もう一緒にやっていけないかもしれない」
この文句には否でも敏感にならざるをえない・・・真子を失いかねないリスクを十二分に意識させてくれた。なにしろ私は,いまだ嵩子と逢瀬を重ねていたのだから。
・・・そうだった。忘れてはならないのであった。あの男と真子が逢っていたとしても,彼女にウンヌン言えるような立場ではなかった。
ひるがえって考えてみると,真子がホンキで別れるって言い出さないのはとっても幸運なこと・・・赤い糸はどんなに擦りきれていようとも繋がっているのだ。ヘタに彼女を刺激して大事な糸を断ち切らせてはならない。バランスを保っている天秤を不用意に傾けてはならない。
『真子を信用しよう・・・ウソであろうといいじゃないか。オレは,もっと卑劣なことをしているんだ』
別れたくはなかった,どうあっても。そのためには疑うこころをコントロールしなければならぬ。
見つめ直してみる・・・事情があったにしても私のやっていることは容認されるものではない。ということは,多少の不貞には目をつぶり,真子にもそれを容認すればいいではないか。
そのように頭のなかで理性的に都合よく取引きすることで,いちおう嫉妬と疑念は抑えこめるとおもった。だが,納得できる取引きには限度があり,感情には限度というものがない・・・要するに,激情は容易に抑えこめる限度を超えうるのである。その限度を超えたとき,意に反して爆発してしまうことまでは考えが及ばなかった。
健康増進に関する地域イベントが,8月第二日曜日に出版社の共催で企画されていた。どのような名称であったか定かではないものの,その内容はいわゆる展示会といったものであった。
7月も後半になると,連日その手伝いに真子は追われ,私より遅く帰ってくる日もあった。イベントでは,どこかのブースで案内係・・・そう私には聞き取れたとおもったが,なにかサポート役をつとめるとのことだった。
はっきり言って興味などなかった。ただ気になることが一点,そのためだけに当日になって私は,彼女の働きぶりを眺めるとともにチェックしようと,昼食をとってからいくぶん気乗りしないまま産業展示館に出向いたのである。
展示館近くのパーキングには空いたスペースが見つからず,やむなく西部緑地公園内の相当遠いところに駐車した。そのうえ行けばわかるだろうとおもっていた産業展示館・・・1号館でも2号館でも3号館でも,らしきイベントが開催されていなくてビックリ!
どうなっているのかワケがわからず,狐につままれたような気分で各館の入口付近を行ったり来たり・・・しかたなく3号館の受付けの人にイベントに関して問い合わせてみたが,さあ,わかりませんとのこと。場所を確かめるべきだった,と引き上げようとしたところへ,新しくできた4号館ではないかと奥の方から答える声がした。
新築の展示館はそこからは見えなかった。かなり離れた場所に建てられていたので,知っていなければ気づくことも難しい状況であった。
4号館の会場はだだっ広く,入口あたりをウロウロしてみても,見通しがよくないこともあって真子らしい人影は見当たらない。案内図をたしかめると,ブースは周辺に横並び配置されているものと,内部に背中合わせで縦並び配置されているものが数列あって,かつ部門別に集められているようだった。
これじゃ,ふつうに順序よく回ったほうが無難か・・・彼女から詳しい情報など得ておらず,効率よく捜しだすのをあきらめた。
周辺ブースを一通り,縦ブースものぞきながら見てまわった。各担当者に声をかけられても目をそらせて無視,オレの目的は真子をそれとなく見届けることのみ。少なくとも周りのブースに彼女はいなかった・・・ってことは,中のブースにいるのか?
立ち止まって一息つく・・・しかし,こうまで努力する必要があるのだろうか? そうまでして確かめる価値なんかないのではないか? もう帰ってしまおうか・・・などと迷いながら,なんとなく遠くのほうに目をくばる。
と,ひとりの男が瞳にうつった。
見覚えがあるような,ないような・・・べつに気になったわけではない。けれども不意に,電撃に見舞われたときの感覚が呼び覚まされて身体中を駆け巡ったのだ。同時によみがえる,忘れ去ることを禁じられた,あのトラウマともいえるシーン。
オトコの視界から消えるべく速攻で移動し,忌まわしい記憶を手繰りよせ,容姿を微に入り細にわたって観察・・・やはりあの男に相違ない。
年齢は,真子より年上で30歳くらい・・・黒縁の眼鏡をかけた顔立ちはどちらかといえばイケメン風,若干のいかり肩に厚めの胸板,メタボ気味の腹にスラリとした脚が伸びている。
オトコを検分する機会に恵まれた私は,イベントにやって来た甲斐があったと独りホクソ笑んでいた・・・このときまでは。ところが悦びもつかの間,男の行動を注視していると,どうも嫌な予感がする・・・ナニかをじっと見つめているのだ。
・・・こわごわ目線をずらしていくと不安は的中した。目にとまったのは,だれあろう,真子! そして来場者に説明をしているらしい彼女が,軽く会釈をしてから笑顔を向けたその先は・・・むろん私ではない。
つぎの刹那,オトコと真子の視線が絡み合い,ふたりは人目も憚らず想いを交わし合ったのだ!
それを,ただただ茫然とながめているしかなかったとは!・・・なんという因果なことなのか。
もしかしたら,とは思っていた。そうではあるが,現実に出くわしてみると許容量をかるくオーバー・・・とてつもない重石となって私のココロを押し潰してしまった。かろうじて虚栄心とプライドで持ちこたえて,気がつくと彼女は持ち場に戻ろうとしている。
ひしゃげたココロに嫉妬と憤怒を満たして,私は脇目も振らず,逃げ出すように会場をあとにしたのだった。
その晩,ぐったりと疲れきって真子は帰ってくる。そんな状況を目にしても彼女を思いやる気持ちなど湧いてくるはずもない。
真子を見るなり,煮えたぎる怒りにまかせて出しぬけに毒づいた。
「おまえは,あの男と付きあっているのか!」
さほど彼女は驚いた様子でもない。いつか私が爆発することを見抜いていたかのようであった。
「いったい,なんのハナシ?」
「あの男と付きあっているのかって訊いてるんだ!」
「あのオトコって?」
かっとなって『おまえと寝たヤツだよ!』と叫びそうになったが,冷めたままの真子に見限られるような気がして踏みとどまった。
「ホテルへ行ったヤツだよ!」
「・・・付きあってなんかないわ」
認めるような言葉が返ってきたほうが気持ちは楽になれたかもしれない。潔くあきらめる道は有無をいわさずに閉ざされ,壁にぶち当たった憤懣はふたたび心の中に雪崩れ込んできた。
「おまえは以前,のがれるためにあいつに抱かれたと言っていたが・・・」
口にしようとしたら,日中の疎ましい光景がいやでも思い浮かんできて,憎しみすらも覚えつつ言い捨てる。
「きょうの,あいつを見る目は,そうじゃなかったぜっ!」
「あなたは会場に来ていたの?」 やっと彼女は真剣になった。
「行ったらダメなのか」
「そんなこと言ってないでしょ。あなたが来るとは思っていなかったから」
「行ったら都合の悪いことでもあるのか」
「なにもないわ。もうやめて!」
「おまえが,本当のことを言うまでは,やめるわけにはいかない」
「あなたはナニが言いたいの?」
「おまえはまた,あいつと寝たのか!」
と,間髪をいれず無意識のうちに叫んでいたのだ! 『なにっ?』・・・唐突に口をついて出てきた,自分でも信じがたい本音に唖然とする。
真子は・・・ウンザリした表情をして,小声でつぶやき返した。
「もう一緒にいたくない」
彼女の発した言の葉は,私の感情の分厚い層を穿って,閉じ込められた理性の芯にまで達した。
どうかしている。これじゃ真子に嫌われて当然・・・自分に嫌気がさして家を飛び出さずにはいられない。
『かくも卑怯な自分ではありたくない』
自らを律することもできず,相手を非難するばかりの己れが情けない。おまけに驚くほどの嫉妬深さが堪忍ならぬ。
『どうしてだ? どうしたら,こうなってしまうのだ?』
足にまかせて,ひたすら歩きつづけた,責めて責めて責めつけるために。
さりながら・・・歩いても歩いてもどこまで歩いても自分を責め足りない。一歩ごとに己れを愧じても,いつまでたっても愧じ足りないのだ。
真子を非難する資格は・・・オレにはない。
自分のことは棚にあげ,彼女を責めることこそ非難されるべきである。だいたい元はといえば,オレ自身がいけないのであるから。
『オレには・・・真子を愛する資格はない』
そうだ,愛を捨てよう。
愛してやまないけど愛を捨てる。愛しているからこそ愛を捨てる。いや,理屈なんぞどうだっていい。
愛なき愛・・・愛を捨てた愛・・・愛ではない愛。どう表現するかの問題でもない。見失っていた自分にようやくにして出会えたような気がした。
『オレは・・・自己以外のなにものも持たないはずであった』
なにも要らないし,なにも求めたくはない。なにもかも捨て去ってしまい,いかなるものも所有しない。それが・・・私であった。
愛も・・・例外ではない。
だれに対しても私は,ナニひとつ望まないで生きるつもりだった。真子に出逢ってからも自分は変わらないと思っていた。それが,しらずしらずのうちに恋の炎が燃え盛ってしまった。
真子を愛し・・・彼女の愛を欲したのだ。
しかしながら,なんにも持てない人間が一人前にだれかを愛するなんて,まちがっても許容されるものではない。
愛とは,所有の最たるもの・・・なにも持たずに生きようとする人間には,無用というよりも禁断の果実であった。
私は・・・嵩子と一緒にいるときには,生来のナニも持たない人間であろうとしていた。そのくせ真子と共にあるときには,愛する女性をなにがなんでも失いたくはなくて,真っ向から自己の本質に逆らって生きていたのだ。どこかに相いれないものを感じていたが,それがいったいナニであるのか・・・分かっているようで把握しきれないところがあった。
ここに至って,心底,オノレの道をおもいしる。
『これからは・・・愛なき愛に生きていこう』
これまで私は,なんという思い違いをしてきたのであろうか。そして,なんという過ちを!
これからは求めない。真子を愛しても,彼女に愛を求めたりしない。じっさい彼女を愛する資格もないが,もともと愛なき愛しかないのだ,オレには。
立ち止まり,天地と対峙する。
『もう金輪際! なにものも求めたりはしない』
まわりを見やるだけの平静さを取りもどし家路についた。いまなら真実を受けいれられそうな気がする。何はともあれ,真子に詫びを入れるだけでなく,己れの過ちをも正さねばならぬ。
家にもどって真子と言葉を交わそうとするが,彼女は距離をおいて私と向き合おうとはしなかった。それでも宣言しなければならない。
「マコ・・・おれは,おまえを裏切った。それなのに一緒にいたいなんて,あまりにも虫がよすぎた。もう,おまえを束縛しないから許してくれ」
ずっと彼女は部屋の壁を見ている。
「こんなことになって,おれを信用できなくなっただろうけど,また信用されるように頑張ってみるつもりだ」
相変わらず彼女は貝のように押し黙ったまま。
「それと,オレはいまも,おまえを心から愛しているとわかったよ。でもオレは,おまえに見捨てられてもおかしくない状況だ。だから・・・これから先のことはおまえが決めてほしい」
やっと真子が独り言のように返事をしてくれる。
「あなたを愛する,こころの土台が崩れてきてるけど,あなたをキライになったわけではないわ」
もはや私は,それ以上なにも望んではいなかった。