(7)
バラ色の人生なんぞ未だかつて望んだこともないが・・・とはいえ34歳でむかえた新しい年は,いかんともしがたい恋心に彩られてあやしく光り輝いていたのだ。たとえ齎される陰翳の深みはソコしれず,その深淵に生命をおびやかす得体のしれない魔物がひそんでいようとも。
元旦,初日の出をおがむ。 その年・・・嵩子は28歳,真子は23歳。
年末年始のあいだ,真子と私はふたりで生活するための準備にあれこれと追われていた。掃除をしながら部屋の模様替えをしたり,おそろいの食器や不足している日用雑貨を買いに出かけたり,クッションとか揃えたいグッズを見に販売店へ幾度も足を運んだり,等々。
ただ,そうした悦ばしい慌ただしさの只中にあっても,ちょっと息抜きをする合い間には必ずといっていいほど,告白した夜に起きてしまったあの悲劇が脳裏をよぎった。
・・・この日々を嵩子はどのようにやり過ごしているのだろうか?
真子はといえば,信じているといわんばかりに何ひとつオンナのことを訊ねようとはしなかった。いちおう訊かれたさいの心構えはしていたものの,到底みずから打ち明ける気持ちにはなれなかった。どだい関係をきっぱり清算するのが当然であったから事実をありのままに告げることもできない。必然的に,とっくに別れてしまったかのように振舞うしかなかった。
正月二日,午前9時半すぎ,病状のすぐれない入院患者を診察しに大学病院へおもむいた。ついでに,というよりそれも目的で・・・公衆電話から嵩子と挨拶を交わすつもりだったのに,かけてもかけても呼出音が鳴りつづけるばかりでつながらない。取るに足らないことにも心がざわめきはじめる。無理をおしてでも彼女のところに立ち寄らねばならなかった。
アパートが近づくにつれて胸の内は一層ざわついてくる・・・その一方で,不吉な事態を予想することは現実になってしまいそうで憚られた。
しかし午前11時ごろ,玄関からリビングへ侵入したとたん,うずまく不安が一気に凝固して青ざめてしまった。足しげく通ったころからは想像もつかないアリサマが眼前に広がったのだ。
・・・洗ってない皿と小鉢がローテーブルにいくつも重ねられ,真ん中には食べさしのカップラーメン。 なかの麺はふやけてしまい,割り箸がさも意味ありげに突き刺さっていて,見覚えのあるマグカップを上からのぞけば,飲みのこしの濃いコーヒー。 いつ淹れられたものなのか,液面のキワの跡が内側に数条こびりついている。
・・・テーブルから目をそらすと,かなり長いあいだ後片付けをしていないのだろう,フローリングがほとんど見えないくらいビールの空き缶がすきまなく転がっていた。
嵩子は・・・ソファで布団にくるまり横たわっていて,どうも寝込んでいるらしい。
ラック上の卓上カレンダーには,クセのある文字で勤務予定が書きこまれ,一部分に訂正が施されていた。
『そういうことか』
きょうは深夜勤務明けなのだ。つまり,なんらかの事情で勤務交代があったってことだ。ならば声をかけずにこのまま帰ってしまおうか。正直いって抜かりなく言葉を交わす自信はなかった。
踵をかえすとそのままシノビ足で玄関ドアへ向かったのだった。
嵩子と私は・・・たがいに過敏に反応しあい,些細なことにも思いが通じ合わなくなっていた。
たとえば正月が明けて,あらためて彼女のところへ出向いたとき。
「おめでとう!」
と,話しかけても嵩子は口をきいてくれない。
「どうしたんだよ・・・」って問いかけても,あっちを向いたまま。
いささかむっときて,すぐにも帰りたい気分になる。さすがにそこはグッとこらえたが,相手がダンマリのままでは一向にラチがあかない。時間も気になりだし,だんだん腹が立ってくる。
『なんでなんだよ!』
当てつけのようにイスをかるく蹴とばす・・・すると,ようやく彼女が口をひらいた。
「二日の日,あなたが来たこと,知ってるわ」
『ん?』
あのとき・・・起きてるふうには見えなかったが。
「わたし,目が覚めたけど,カラダが重くてボーとしていて,起きよう起きようとおもっているうちに・・・あなたは帰ってしまった」
「・・・ぐっすり,眠ってるみたいだったから」
「わたしは,おめでとうって言いたかったわ」
「すまなかった。カレンダーで深夜明けだとわかったから,起こさないほうがいいと思ったんだ・・・」
返答をまつが,ここで会話は途切れてしまう。終わったことと割りきる私には次のセリフが見つからない。あの告白したときのような無言の静寂がこころに重くのしかかった。イライラが募り,そのうちぶっきら棒に言い放たずにはいられない。
「こんやは,これで帰るから!」
キッと睨みかえす嵩子・・・山ほど言いたいことがあるのにうまく口に出せないばかりか,ひとつとして満足に話し合えない状況に憤怒と苛立ちの色があらわれていた。
近づいてやさしく抱きしめる。案じたとおり彼女は応じてくれない。わかってはいても淋しくなり,それでもキスをしようとした。ところが,唇はかたく閉ざされ断固として私を拒んでいる。ラストぐらいは笑顔で,とおもう気持ちはすっかり萎んでしまった。
でも気にかかり,ちらっと垣間みた嵩子の表情は・・・なんと,あのアシュラだった。
アパートを出てからも後味の悪さはずっと尾を引いた。思ったより長く,そして胸の奥ふかくに。
家では真子が食事を作って私の帰りを待っていた。しぜんと笑顔がもどり,嫌なことも忘れて楽しいひとときを過ごす。されど・・・今を満喫している自分にふと気づくとき,つい先ほどの後味の悪さがたちどころによみがえり,いつのまにか嵩子の苦悶の形相が思い起こされた。そうして身も心も一瞬のうちに凍てついてしまうのだった。
どうしたの?・・・真子の問いかけで現実に引き戻される。いや,なんでもないさ・・・って作り笑いをうかべ,意識的に嵩子の幻影を叩き壊さねばならなかった。
これといった打開策も見出だせないまま,やがて桜の季節をむかえる。
見頃のピークを避けておとずれた兼六園・・・舞い落ちる花びらを味わいながら真子と腕をくんで歩くことは,満開よりも散りぎわの風情に心惹かれる私にとって最高の誕生日プレゼントとなった。
・・・散りゆくからといって軽んじたくない。散りゆくからこそ,オノレも人をも欺きたくはない。
そんな思いで首尾よく立ちまわれないものか真剣に悩んでいたものの,あちらを立てればこちらが立たず,しょせん泥沼を受け容れたくないがゆえのキレイごとであった。
4月から真子はパートとして,当時地域の顔となりつつあったタウン情報誌の出版社に勤めだした。暇を持て余していたのでハローワークで仕事を探してきたのである。大学病院の勤務がほどほどに終わることは皆無といってよかったし,嵩子のことを考えると真子が働いていたほうが好都合かもしれない,と邪まな思惑が後押しした。私はあえて反対しなかった。
5月のゴールデンウィーク,たしか祝日ハザマの平日。
朝の出がけに真子から,イベントの手伝いのために帰りが遅くなると告げられた。これは,まさしく絶好のチャンス到来ではないか! 嵩子のところでゆっくりして目下の流れを変えなくては・・・出勤してただちに公衆電話から彼女に一報を入れておいた。
その日はさっさと病院の雑務を切りあげ,夕刻から開始されるカンファレンスにも口実を拵えて出席しなかったような? とにかく,なにかをサボって暗くなるころには嵩子のアパートへ向かったのだった。
彼女はキッチンで夕食の支度をしていた。
「ちゃんと寝たのか?」
「だいじょうぶ,じゅうぶん眠ったわ」
嵩子は,休みの日だった。前日は準夜勤務で,普段なら昼頃まで寝てしまいそうなものだが・・・彼女の顔色はあまりよくなかった。たぶん熟眠していないうえに掃除でもしていたのだろう。
かるくシャワーを浴びてビールを飲みはじめる。今夜こそ何らかの決着をつけなければならない。すっきりとは解決できないにしても,せめて納得のできる方向性だけは・・・彼女と共有できる限られた時間のなかで,私はなんとか活路を見出だそうとしていた。
さて,どう切り出したものか?
待つあいだツマミの惣菜を口にしながら思案をめぐらす。けれども考えるほどに明確になるのは,どのように言い繕ったところで中味は変えようがないということ・・・戦略なんか何の役にも立たないのではないか。
要するに,当たって砕けるしかないのだ。
支度を終えて嵩子がリビングに移ってくるころには,多少なりとも開き直った気分になっていた。彼女がすわるのを見計らって口をひらく。
「まえにも話したとおり,おれは結婚しようと思っている・・・」
なので別れてくれ・・・とまでは,やはり言えない。
「あなたは,だれも愛さないと言っていたけど・・・そのヒトを愛したの?」
声は小さくても,しっかりとした口調であった。
なるほど・・・真子への想い,それが愛でなくて何であろうか。でも,なぜか同時に,そうではないと感じるのだった。つねに心の奥底では愛と相違するものが流れていて単純に肯定することができなかった。
「おれは,だれも愛さない。けど,彼女と結婚したくなったんだ・・・彼女が好きだから」
「それは,愛してるってことではないの?」
「・・・」 じゃない!
「わたしには,あなたの言ってることがよくわからない。わたしはあなたを愛している・・・もうあなた以外,だれも愛することはできないし,愛するつもりもないわ」
「・・・」 それで?
「わたしはどうすればいいの?」
「おまえの,思うように生きればいいさ」
「わたしにはあなたしかいない。でも,あなたはちがう・・・あなたには,ほかに好きな女性がいて・・・ねぇ,どういうこと? そのヒトと結婚するって言ってるくせに,だれも愛さないって」
「そのままだよ・・・好きだけど,愛してはいない」
愛しているけど愛してはいないと言いたかったが,よけい分かってもらえそうにないと思った。
「わたしのことはどうなの?」
「同じさ」
「同じって?」
「愛してはいないってこと・・・」 もちろんキライじゃないけど。
「それなら,なぜ,わたしと別れないの?」
「・・・」 理由なんて,そんなもの・・・
「どうして?」
そんなもの・・・あってないようなもんだろ。
「おまえが,それでいいっていうのなら・・・別れるよ,すぐにでも」
抑えられない感情とともに言葉がほとばしる。「おれは・・・きょうで,最後にしたってかまやしないさ」
そう告げるや,いいしれぬ胸騒ぎがして彼女を見やり,愕然とする。すでに嵩子に異変が起きはじめていたのだ。
ダッチロールみたいにカラダをゆるやかに揺らしながら,最初のうちは両手を握りしめているだけだった。そのうち拳にありったけの力を入れて緩めようとしない,しかも不自然なアリサマは際限なくつづき,みるみる血行障害をきたして手指は白色と青紫色のまだら模様に変色・・・気がつけば,眼がすわり全身硬直状態に陥っているではないか!
あわてて彼女を抱きよせ,拳を開こうとするが締めつけが半端なく指はびくともしない・・・なんという力? そのうち前回のような震え,というより小刻みな痙攣がおきてノーマルな呼吸ではなくなった。
おもわず『死ぬなよ!』と念じ,まわりにあったクッションに頭をのせて彼女をそっと寝かせる。
まもなく硬直した身体は虚脱へと向かいはじめ,相前後して浅い呼吸から深い呼吸へ・・・さらに爆睡ともいえる昏睡状態へと変化していった。念のため四肢を確かめると弛緩性麻痺の所見を呈していた。
ホッとして溜め息をつく。
それにしても嵩子の心身に何が起きているのだろう? 私の医学知識にはこのような疾患は見当たらない。強いて当てはめるとすれば・・・てんかん発作だろうか。だとしても通常のそれではない。強い精神的ストレスを受けたさいにのみ起きる特殊なてんかん発作? 仮にそうであったなら,朦朧状態へ移行しないのはおかしくはないか? 事実,彼女はなかなか目覚めなかった。
時間があるので部屋の中をひとつひとつ丹念に調べていると,チェストの上に閉じられたレポート用紙を見つけた。
そいつを開いてみる。
カレンダー見たくない
部屋のは1月のまま
トイレのは3月のまま
新しくめくる気力はない
台所の食器よごれっ放し
あの時から汚れたまま
ごみも2月からそのまま
この部屋の空気は変わったきり戻らない・・・
二人でうつった写真ながめるのが恐ろしい
涙ながしたくない
今はただ悲しみと苦しみしかもたらさない
これ以上・・・これ以上は書けない
どんな言葉も・・・空しい
どんな思いも・・・届かない
ずいぶんビールのびんと缶がたまってしまった
どんどんたまっていく・・・
ほかに生きる道はまったくなし
絶望と・・・一生ふさがらぬこころの大きな穴
もうどうにもならない
どうすることもできない
あなたとその人はどんどん進んでいく
もはやどうすることも出来ぬ・・・何もできぬ
おのずと眠っている彼女の顔に視線が吸い寄せられる。
『絶望のどん底に突き落とされても,嵩子はオレを見ているのか・・・』
出逢ったころの快活で笑顔の似あう彼女を思いだした。
『おれは,期待を抱かせて,信じさせて・・・壊せなくなるまでに嵩子の想いを育ててしまった』
また,こうも思ったりした。
『心底だれも愛せないのなら,嵩子と一緒にいてもいいはずなのに・・・』
さりとて自己分析はまるで深まりをみせなかった。決心をひるがえす考えなど私には微塵もなかったのだ。これほどにすさんだ嵩子を見ても,婚姻は本人の意志で決まるものと頭から信じ込んでいた。
『だが,いったいどうすれば・・・?』
なにが起きているのか判然としない嵩子の異状で,たった一つだけ断言できることがあった。それは,別離の危機が直接の引き金になっていること。くわえて彼女の記した一文を読んで以前にも増して強固に確信したこと・・・否応なく別れようとすれば,嵩子はかならずや命を絶とうとするにちがいない。生きる意味をうしない,生のすべてを拒絶することだろう。
「ゥン~ン」
考えあぐねるうちに,横たわる嵩子がちいさく唸った。のぞきこむと瞼を開ける・・・いまだ虚ろなマナコ。すぐに瞼を閉じて彼女はふたたび眠ったようにみえたが,目尻から光るものがナガレ落ちてくる。
それが泪とわかったとき,ある思いが突如として心をかすめた。
『ナゼ・・・決めつける? イマのままでは嵩子に幸せはないと,どうして決めつける? それは・・・オレ次第ではないのか?』
伝い落ちるナミダの雫を見ていると,不正なことも許されるのではないかと思えてくる。その結果もたらされるであろう未来を推測する余裕はなかった。未来の苦渋の場面を一コマだって想像することができなかったのだ。分からないゆえに歩んでいけそうな気がしてくる。
『死なせてしまうくらいなら,お互いどんなに苦しくても,オレのそばで生きていたほうがいいのだ』
またたく間に私のこころは不純な魂胆に占拠されてしまう。
『そうだ・・・この道しかない』
嵩子が会話できるようになるまで1時間強,かろうじて歩けるようになるまで4時間弱を費やした。その日ばかりは腹をくくって彼女と共に夜を過ごさねばならなかった。
『おれは,おまえとも一緒に生きる。そして,おまえを幸せにしてみせる』
これが私の行きついた最終結論だった。そのかいあって帰るころには彼女の心身はどうにか落ち着きを取りもどした。
帰宅したのは,明け方になってから。
「患者が急変したんだ・・・」
と,ウソをつかざるをえなかった。真子はとくに怪しむ素振りをみせなかったので胸を撫でおろす。しかしながら,心には重石を引きずるような後ろめたさがあって気分が晴れることはなかった。