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 10月より北陸の空をあおぐ

 職場は三度目となる金沢大学付属病院。ここ大学病院での勤務は,医局の慣例にしたがえば在籍年数からみて,優秀な人材でないかぎり今回で終了となる見込みであった。

 金沢に戻ってみると,おそらく私が立ち寄りやすいように,嵩子は大学病院からそう遠くない新築アパートに転居していた。ちゃんと電話で話したはずなのに,って言われてバツのわるい思いをしたのだが,そのころの心境をありのままに物語っているのかもしれない。

 

 転入届を期限ギリギリで提出したのち,引越し後の片付けが遅々として捗らないにもかかわらず,東京で催された週末の研究会に出席した。真子と逢うために前々から予定を組んでおいたのは言うまでもない。

 かつてのように銀座で待ち合わせ,楽しく食事をして・・・寄り道しないで宿泊先に帰ってくる。あたりまえに真子はこっそりホテルに泊まった。

 二週間ぶりに真子と肌を合わせることは,いわば性欲の虜になるのも同然であった。一晩中しびれるような性交を繰りかえし,胸の奥ふかくで魂の叫びが飛びかうのを聞いた。あらためて真子への想いを確信したのだった。

 とはいっても嵩子のことがある。いずれ別れるとかたく誓っていても,けっして卑怯者に成り下がりたくはなかった。それに・・・真子の反応から先行きの感触とかを得ておいたほうが賢明というものであろう。

 オトコが心構えなしには語れない厄介な用件を切り出すのは,セックスのあと一服してからと,だいたい相場が決まっている。

 このときの私も例外ではなかった。ベッドで仰向けのまま天井を見つめながら,おもむろに身構えて「マコ・・・」と口をひらいた。

「おまえに,言っておかないといけないことがあるんだ」

「なぁに?」

 屈託のない声色に一瞬ひるんだが,ウヤムヤにしておくわけにはいかない。

「隠すつもりはなかったけど,じつはあっちの金沢に・・・」

 つぶらな瞳がじっと動かなくなり,固唾をのんで次のセリフを見守ろうとするオンナの気配がただよった。小さくヒト呼吸し,気後れしそうなオノレを勇気づける。

「以前から・・・おまえに出会う前から,ずっと付きあってきた女性がいるんだ。まだ,おれの気持ちは話してないけど・・・近いうちにきちんと伝えて,かならず決着をつけるから・・・」

 唖然とした表情の真子。口を真一文字に結んでいた。「だから,これからも,おれといっしょにいてくれないか」

 さしてオドロいてもいないのか,それとも突拍子もないことでオドロけないのか・・・ふだんの穏やかさは消えてしまい,なにか釈然としないものに戸惑っているふうだった。

「もう,イヤになった?」

「そんなことじゃないわ」

 頷きもせず真子の視線は虚空に投げられた。気まずい空気が垂れこめ,うまく切り抜けられるのか?と悔やみはじめてほどなく,絞りだすように彼女はつぶやいた。

「わざわざ言わなくても,別れてくれたら,それでいいのに・・・」

 ・・・なるほど,そのとおりだ。

 もっともらしい主張には本人も気づかないエゴが潜んでいたりする。あらかじめ告げておけば,万が一の事態に陥っても瀬戸際で真子のこころを繋ぎ止められるかも・・・と無意識のうちに推し量っていた?

 そうでないとしても,彼女の気持ちをすこしも慮っていなかったのはゴマかしようのない事実であった。

 この時点で聞き捨てならぬと思いなおし,親密な関係をご破算にしてしまうことだって,真子なら可能であったはず・・・オレにはとんでもないことだったが,ひょっとすると彼女しだいでは諦めることもできたのではないか?

 しかしながら,真子は引き返そうとはしなかった。そこが人生の分かれ道とは知るよしもなかったのである。

 

 

 

 日曜日の夕方,小松空港には嵩子が迎えにきていた。

「どうだった? 東京・・・なつかしかった?」

「あぁ,懐かしすぎるよ。もうしばらく住んでみようかな」

「それはダメよ。わたしが耐えられないわ」

 即答されたことで余計にインパクトがあった。『たえられないわ』のフレーズが頭のドーム内に反響して鳴りやまない。

 ・・・そうであっても,このままにはしておけぬ。

 

 意を決しながらも実行を先延ばしにしている状態は,かえって苦痛を増大させてしまうことだろう。私のほうが辛抱しづらくなってもフシギではない。

 その夜,ついに告白するタイミングを強引にとらえる。

 夕食の後片づけをしてから,嵩子がリビングに戻ってきてテーブルの前に座ろうとしたとき・・・ここぞとばかりに私は,ぷっつりテレビを消してしまったのだ。

「どうしたの?」って嵩子。

「いまから話すことを・・・冷静に聞いてほしいんだ」

 問われるまでは告げまいと考えていたことがどこかへ吹っ飛んでしまい,微妙に声が上ずった。

「東京で・・・好きな人ができたんだ。きょうも向こうで逢ってきた。いずれ結婚しようとおもっている」

「・・・? も,もういっかい・・・いって」

「好きな人ができたんだ・・・東京で」

 なにごとか嵩子はささやき,みるまに顔つきを変えていった。予想外などと寝ぼけたことを言うつもりはないが,わが身に降りかかってくるものを軽んじていたことは否めない。

 

 なんという悲愴!

 オレが戻ってきて,きっと・・・これからの生活にあらたな期待を寄せていたというのに。

 十分すぎる一撃。

 あとは一言も発することができなかったし,生気と身動きをともに失くしていく彼女をまともに見てはいられなかった。

 襲いかかる・・・灰色の静寂。

 そのなかを,さっき夕方の『たえられないわ』の谺がうねりとなって打ちよせ,阿修羅の形相をした嵩子の幻影が瞼のうらに波のごとく去来した。

 どうすればよかったというのだ! 自らの愚かさと性急さをふかく反省したものの,これだけは仕方がないことだと独りで納得していた。

 しかし彼女は違った! 生きる意味をいきなり奪われ,同時に,生きる意志をも失いかけようとしていた。

 なのに・・・私は,そのことに気づこうとはしなかった。つまりは気づかないフリをすることに決めたのだった。時間さえ経てば,と高を括っていた。どれくらいの期間を要するのか分からないが,トキが解決してくれるはずだと信じて疑わなかった。

 

 背を向けたまま,深くうなだれて嵩子は動かなかった。どうしようもない沈鬱はいつまでつづくのか?

 重苦しさがいつのまにか苦痛そのものへと様変わりし,いいかげん我慢ならなくなる・・・すっくと立ち上がり,彼女のほうを見向きもしないで吐き捨てるように言い放った。

「ちょっと出かけてくる」

 その場をいったん離れることしか思いつかなかった。

 薄らさむい夜道をあてもなく足早に歩いた。どんな場合でも何かしら考えごとをするのが常であったが,このときばかりはいいしれぬ感情が逆巻いて理性の歯車がスムーズに回っていかなかった。

 先のほうに片町が見えてくる。憂さ晴らしに例のごとく,朝ちゃんのいるスナックへ顔を出してみた。

 だけど,だれとも喋りたくない。嵩子を傷つけることで負ってしまった神聖な苦痛が汚れてしまいそうで・・・女の子に話しかけられても返事すらしたくない。おのずと私のみが店のなかで浮いていた。

 かといって,すぐさま帰る気にもなれなかった。しかめっ面でグラスを睨んでいると,テーブル席から朝ちゃんが,待たせてゴメンとでもいいたげな表情をこしらえて抜け出してくる。

「ひさしぶり,アオちゃん!」

「おぅ」

「あら,こわそ・・・あいかわらず渋い顔ね,とくに今夜は!」

「・・・」

「なにかあったの?」

「ナニも・・・」

「ウソばっかし! おそろしく胸クソがわるいって,だれが見たってわかるくらい,しっかり顔にかいてあるわ」

「くだらんこというな」

「まあいいけど・・・わたしには関係ないことだから。青ちゃん,水割り一杯いただきま~す」

 ・・・朝ちゃんは後年に自分の店をもってから,カラダに合わないとかでビール以外飲まなくなった。雇われの身として売り上げに貢献するのは当然だとしても,さすがに新米のころは客の心理を無視してビールを注文できなかったってことらしい。

 注がれるブランデーが氷のスキマを満たしていく・・・いったいオレはなにをしているんだろう?

 飲んでいても簡単には酔えそうになかったし,朝ちゃんと向き合っていても鬱々として気分は晴れそうになかった。

『あがいてどうする・・・きょうは,だまって耐えるしかないんだ』

 そんな心境に至ってやっと吹っ切れそうになったのもつかの間,不意に変な胸騒ぎにおそわれる。

「おつかれさま!」と,朝ちゃんの掛け声。

 グラスを合わせるのと前後して,うなだれたままの嵩子の後ろスガタが頭をよぎった。

『まさか・・・』

 にわかに置き去りにしてきた彼女のことが心配になりだした。一気に濃いめの水割りをノドの奥に流しこむ。

「これで帰るから,チェックしてくれ・・・」

「なによ,これからでしょ」

「だいじな用事を思いだしたんだ」

「わたし,まだ飲み終わってないわよ」

「また今度くるから!」

「イーヤ」

「そう言わずに・・・たのむよ」

 めずらしく私は折れなかった。勘定をすませ,店を出るなりタクシーを呼び止めた。

 

 着くまでは,さほどでもなかったのだ。ところが,マンション前に降り立つや,まるで心臓が別の生き物のように勝手に鼓動を刻みだした。

 いいようのない不安が全身を駆けめぐる。エレベーターに乗ってじっとしてなんかいられようものか・・・うろたえるんじゃない! と言いきかせて階段を登っていった。

 どれだけ落ち着こうとしても,6階の自宅が近づくにつれて動悸は激しくなるばかり。くそっ,まるっきり昔と変わらないじゃないか・・・鍛えたつもりの精神が殊のほか脆弱であることにも動揺していた。どうか無事であってくれと祈るよりほかなかった。

 やがて玄関ドアのまえに立った。

 深呼吸したのち,慎重にトビラを開けて物音をたてずに入り込む・・・そして,リビングに向かいダイニングをこわごわ抜けようとした瞬間,信じられない光景を目の当たりにして息をのんだ。

 ・・・危惧したことが,まさに現実のものとなってあらわれようとは。

 

   みなれぬ洋酒のビンに

   ヨコ倒しになったグラス

   こぼれひろがる琥珀色の液体に

   溶けつつある氷のかけら

   ガラスのテーブル越しに

   うつ伏せに横たわっているおまえ

   もしや眠っているのか?

   なにがなんでもそうあってほしいと

   ねがう気持ちでいっぱい

   されど,ピクリとも動かない

   みだれ髪のうえ

   まっすぐ伸びているやわらかな左腕

   手首のまわりには黒ずんだ・・・

   ひょっとして血のかたまり?

   天地がゆらぐどころかひっくりかえる

   無我夢中で抱きかかえ

   ピシャピシャ青白い頬をハタきつける

   タカコ! タカコ! タカコ!

   と,わずかに眉をひそめておまえは

   大息をついたのだ

 

 ようやく私は正気を取りもどし,あたふたと彼女の衣服をたくしあげて心窩部を視診する・・・浅いながらも呼吸はみとめられた。『嵩子は生きている,まちがいない』

 だんだんに鼓動はしずまり,それなりに周囲を観察する余裕も出てきた。

 

 左手首にはリストカットの生傷が3条。

 傷口には血液が凝固して線となっている・・・これなら皮下組織までの損傷だろうから,致命的にはならない。

 クロスの貼られた壁面。

 ・・・なかったはずの赤褐色の斑点と鋭いキズを伴った小さな凹みをみつけた。くわえて手前のカーペット上には,血糊の付いたカッターが・・・おそらく壁に向かって投げつけられた結果としてそこにあるのだろう。

 もらい物のウィスキー・・・むかし御中元あるいは御歳暮として届けられた品だとおもわれる。

 残っていたのはボトル半分くらい。苦しまぎれに彼女はわざとロックで飲んだのではないか。強いほうではないのに・・・のたうちまわる半狂乱のすがたが思い浮かんで胸がつぶれそうになった。もっと命を大切にしろよ,って呟きかけて,そんなことを言えた義理ではないとおもいながら,テーブルの下に注意を引きつけられる。

 明るい青緑色の小冊子?

 嵩子をそっと仰向けに寝かせてから手に取ってみる。

 

 ・・・A5サイズ,20枚ほどの薄手のノートだった。

 のっけから私の名前が書きなぐられ,ページをめくると,次のような一文が目に飛びこんだ。

『あなたに嫌われる以外なにも怖いものなんかない』

 ほかには文章らしきものは見当たらない・・・『帰ってきて』『ごめん許して』『もう生きられない』などの重たい語句が散らばっていた。

 さらに捲っていく・・・どうやら同じ文句が繰りかえしブツけられているようで,かろうじて読めるのは三ページ目まで。

 四ページ目以降は,とてもじゃないが尋常といえるものではなかった。まず紙面のあちこちに垂れたごとく,もしくは擦れたごとく,生血がコビリ付いていて・・・傷を負った利き手は自在を奪われたのか,上下左右のスパイク波形しか描かれていない・・・それらは,もはや字の範疇に属さないシロモノの連続,なおかつ乱雑に重なり合っていて・・・もちろん判読は,まったくもって不可能というもの。

 書きなぐられた最後のページに至っては,押し潰された三角や四角みたいな線の模様があるばかりで,なおいっそう哀しくなった。

 もともと,そのような文字たちを綴るためのノートではなかったろうに。ページの空白からは声にならない彼女の叫びが聞こえてくるよう・・・魂を揺すぶられ,しばし茫然としていた。

 

 ・・・なにゆえ,彼女を傷つけねばならないのか?

 

 つくづく己れという人間に嫌気がさしてくる。さりとて行く末を絶対あきらめたくはなかった。しぜんと防御の心構えをとっていた。

『なんとかしようなんて考えまい・・・流れにまかせていれば,そのうち向こう岸が見えてくるだろう』

 自らに言いきかせながらノートを元の位置に戻しておく。そうしなくてもよいのかもしれないが,清らかな心の印を移してはならないと思った。

 

 ひたすら嵩子が目覚めるのを待つこと5時間あまり,ウトウトしかけた私を揺り動かしたのは,うなり声に交じった譫言だった。

「行かないで・・・」

 覆いかぶさるように顔を近づけ,耳もとで「タ・カ・コ」と呼びかける。重たげに彼女は瞼をあけた。

「あなた・・・」と,かぼそい声。

 こっくりと私はうなずいた。が,嵩子は目を合わせたかとおもうと,舞いもどった恋人の魂胆をはかりかねていたのだろう,はるか遠くのほう・・・天をあおぐような眼差しでささやいた。

「ごめんなさい・・・」

 光るものが目尻から一筋こぼれ,透きとおった雫となって滴り落ちる。「わたし,死のうとおもったけど・・・やっぱり死ねなかった。あなたの顔が浮かんできて・・・どうしても死ねなかった」

 なにかしら声をかけてやりたくても文句が出てこない。とにかく喋ってくれたことがうれしくてうれしくて・・・ところが,彼女が私のほうを向こうとしたとたん,悪夢の発端を思いだしたのか,顔つきがたちどころに曇っていくのを為す術もなく眺めていなければならなかった。

 憂いのこもった涙が,どっと幾筋かスベリ落ちて枕に円形の染みを作り上げる。随意運動をわすれた腕では拭うこともできないのか? いや,それ以前に拭おうという意思を失くしているのは,うつろな眼を見れば明らかなこと。こんなとき言葉なんかナンの役に立つのか・・・おもわず,ぎゅっと力をこめて嵩子を抱きしめる。

 

 人には,というより私には,すべきではないと理屈では分かっていても,やらずにはいられないときがある・・・あの折りもそうだった。

 

 医学部の皮膚科卒業試験。

 開始直前,なんと教授がわざわざ講義室にやって来て,おもむろに教壇にのぼって語りだした。

「これまでの試験で・・・どういう了見なのか知らないが,なにひとつ解答を書かなかった,不埒な学生がこの中にいる。よもやそんなことはしないとおもうが,念のために言っておく」

 左から右へ教授は睨みをきかせたのち,声を荒らげて「きょうの卒試を,白紙のまま提出した者には,単位を与えないから」ちょっと間をおき,語気をいちだんと強めて・・・「そのつもりで!」

 直後に,同期生全員の視線が,一斉にそそがれるのを感じた。事前の警告は紛れもなく私に向かって発せられていたのである。

 それまで2回あった期末テスト・・・なにをかくそう私は,心証がよくないだろうと思いつつも,始まって早々に答案用紙をウラがえして教室から立ち去っていたのだ。なかば破れかぶれ,なかば適当に誤ったことを書くよりも正直にいさぎよく不勉強を認めようという気持ちからであった。

 単位がもらえない?・・・忠告が脳髄に染みわたった刹那,妙な考えが湧きあがる。

『ならば,のるかそるか,白紙にオレの未来すべてを賭けてみよう!』

 切羽つまっていて私のアタマは試験どころではなかった。まさしく自身にとって死活にかかわる問題と取り組んでいたのだ。どうあっても学生のうちにケリをつけておかねばならぬ!・・・人生を賭して挑んでいたけれど,いつ終わるともしれない愚行であった。

 精神的疲労が相当に蓄積するなか,今すこし期間があればとおもう反面,はたしてやり遂げられるかどうか?

 いつしか意志と自負のみでは何ともしがたい現実が見えていた。にもかかわらず,オレの魂とでもいうべきスピリチュアルな領域が退くことを断固拒否,にっちもさっちもいかない状況だった。

 おふくろの顔が浮かんだ。母が懸命に働いてくれるから学校に行ける。是が非でも卒業しなければ・・・おふくろの恩に報いるためにも。

 ・・・であっても,白紙で出したい,出さなければならない。その所以をハッキリとは示せないが,けっして反抗などではない。初志を貫徹しなければ,自分が自分でなくなってしまう感覚。それを貫いてこそホンモノになれるのだという囁き。

 相反する情動が渦を巻いていても,流れつく先はそれらが生じる前から決まっているようなものであった。教授のスガタが確認できなくなるのを待ち,私は白紙答案を提出して講義室から出ていった。

 で,どのような幕切れを迎えることになったのか?・・・追試を受けて試験に合格したところで覆水盆に返らず,同期生の数人が悪しき前例を作ってはならぬと医学部長に掛けあったものの単位はもらえるはずがなかった。

 私は留年し,母は絶句した。

「どうして?・・・どうしてなの?」

 かえす言葉もなかった。

 

 ・・・ほろ苦い過去に,つい眉をひそめる。

 かりに白紙で出さなかったとしたら,いまの私はありえないことだろう。あの決行こそが自己を形づくった重要な要素であり,留年した一年ほど貴重な無駄はなかったのだから。

 

 じわりじわり現実が重くのしかかる。

『いかなる結果になろうとも嵩子に応えなければいけない。これほどまでに愛してくれる嵩子を断じて見捨ててはならぬ。ここで見放すようなら,おれはもうオレではない』

 まこと愛しているのなら,たとえ嵩子が死んでしまおうとも,真子を裏切ってはならなかった。

 しかるに私は・・・しんそこ真子を愛していると確信していたくせに,どうにも嵩子をそのまま放っておくことができない。

「タカコ,おれはおまえと一緒にいるよ」

「・・・」

「おれの言うことにウソはない」

「ホント?」

「本当だよ」

 機をのがさず頬を愛撫すると,疑うことをあきらめたのか彼女はゆっくり両腕を私の肩にまわした。

 

 まったく経験がなかったわけではない。冷静になってみれば,別離は円満にいかないほうが・・・むしろ喧嘩して終わったほうが,たがいに未練が残りにくくなって好ましいとさえいえる。

 だが,ナマの嵩子の反応は妥当といえる予想とか判断を打ちくだき,かわりに最悪のシナリオを予感させうるに足るものだった。想定外のエリアに足を踏み入れて見えてきたこと。

 ・・・このまま離れようとすれば,いずれ嵩子は死を選択するのではないだろうか。

『だれも愛せないし,だれも愛さない』

 それでもいいのなら,オレの傍にいればいい・・・本気で私が嵩子に語っていたことだ。彼女もその言葉を信じていたはずである。だからこそ私との生活にも持ちこたえることができた。

 当然,言い切った本人には責任というものがある。かりそめにも発した言の葉を反古にしてはならない。ましてや命懸けの嵩子を目の前にして心変わりしようなんぞ言語道断。

 それに・・・もう一つ,不可抗力的な事情が私の内部に隠されていた。

 想いを遂げようとする行為が人道に背くことを自覚していたのみならず,心の奥底では常日頃から深く覚悟していることがあった。

 ・・・身に降りかかる苦難という苦難は,その内容や程度のイカンにかかわらず,ぜったいに斥けたりなんかしない!・・・かならずや,いっさいを受け止めるということ。 よしんば生涯をかけた恋が破局に追い込まれようとも,それは変わらないし変えるわけにはいかない・・・それが求めないことの意味であり,究極においては愛せない信念と同根なのであった。

 たしかに私は真子を愛していたが,同時に愛せない心も持ち合わせていた。愛せないということは,突き詰めていくと・・・愛されなくてもかまわないという思惑を内包していると結論せざるをえない。

 

『しかたない』・・・真子に拒まれたとしても。

 そう思いつつも,到底あきらめきれるものではなかった。どろどろとした,すっきりしない気分に沈んでいた。

 これまでオノレ自身に従うことを一番に心掛けてきたが,自らの言動の矛盾にどう対処すればいいのか? 正直いうと自分でも分からなくなっていた。

 行く手には打開しようにも突破困難な事態が待ち受けていることだけは容易に予期できたが,どんな難局になっていくのか,いくら想像しようとしても無理があった。

 考えてみると,白紙答案の一件は母に多少の被害をあたえたにせよ,他人に影響を及ぼすことはなかった。ところが,これから先の私の言動は,嵩子と真子の人生に悲惨な現実をもたらしてしまうのではないか,とどのつまりは悲劇的な結末を招いてしまうのみではあるまいか・・・そのような心の片隅にあった不安を拭い去ることはできなかった。

 矛盾と困難と不安という苦境のなかに私は追い込まれていたが,真子への愛は信じることができる唯一の救いだった。であるからこそ,前に向かって歩もうとしていたし,また歩んでいかねばならなかった。

 

 

 

 嵩子はその日・・・真子の存在を告白した日を境にして変わっていった。私が遠ざかっていく可能性が,とりもなおさず彼女の生きる根本を揺るがしたのだった。

 秋も深まった,ある真夜中。 電話の呼出音で目がさめた。

「来て・・・たすけて,おねがい・・・」

 いままで聞いたこともない嵩子のおどおどした声に驚愕し,ただちに彼女のアパートへ駈けつけた。

 合鍵をつかって部屋に入っていくと,布団の上に背中をみせて嵩子が座っていた。首を垂らし,うしろ姿はどことなく異様な感じ・・・でも,よくは分からなかった。

「どうしたんだ?」

 問いかけに対して返事はなかった。背後から近づき,彼女の右肩をつかもうとしてビックリ,かすかに触れただけで嵩子は向こう側へ横倒しになってしまったのだ。あわてて回りこみ,身体を抱きかかえる・・・彼女は小刻みに震えながらダルマのごとく硬直していた。

「タカコ!」

 やはり返答がない・・・が,彼女の身体が代弁した。硬直が徐々に弛緩へと変化していった。なによりも嵩子の目は焦点が合っていない。とりあえず呼びかける。

「タカコ,来たよ・・・おれは,ここにいるよ」

 いったい何が起こっているのか,医師である私にも見当がつかない。

「タス・ケテ・・・」

 やっとのことで嵩子は振り絞るようにかすれた声を発した。

 このような状況にも,はじめて目にしたときにはそれほど強い危機感はなかった。時間が経てばきっと治るだろう・・・なぜだかわからないが,原因は私にあるように思われ,傍らについていれば回復するような気がしたのである。

 30分が過ぎてどうにか指が動くようになり,目の焦点も定まって彼女は普通に話せるようになった。ただし四肢はまだ脱力状態から抜けだせない。

「ごめんなさい。もう,だいじょうぶだから帰って!」

「どこが大丈夫なんだよ,起きあがれないし,歩けもしないのに・・・」

 1時間後,いくらか力がはいるようになり,肩を貸してトイレへ。けっきょく彼女がなんとか歩けるようになるにはさらに30分を要した。

 似たような出来事が,一週間と経たないうちにもう一度起こった。そのときにも手助けが必要であったが,どれほど時間がかかっても元に戻ったので私は気にも留めていなかった。真子のことで頭がいっぱいだったのだ。

 これらの異状がいわゆる発作のはじまりであった。

 

 11月,真子が金沢をおとずれて一泊した。

 あとになって振り返ってみると・・・嵩子の発作は,真子がくる前後に起きていた。そんなこととは露しらず,私は真子と充実した時間を過ごし,将来の生活についても相談したりしていた。

 たぶん嵩子は私の気持ちの昂ぶりを敏感に感じ取っていたのだろう。もしかしたら,真子が宿泊した日にも発作が起きていて,さすがにその晩は必死に耐えていたのかもしれない。

 

 

 

 その年の師走。

 ただでさえ気ぜわしい時期なのに,なにかと嬉しいことも嬉しくないことも重なり,ろくに案ずる暇もないまま日々が過ぎていった。

 真子はというと,両親の反対をも押し切り,申し出が許可されてS病院を依願退職した。そして・・・年の瀬も押し迫った12月29日,実家を飛び出して金沢の私のマンションへ移り住むことになったのである。