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 真子と逢瀬を重ねるうちにまたたく間に月日は過ぎ去っていく。そんな中,真夏のたいへん暑い日に嵩子が久しぶりに上京した。

 電話で喋るとき以外,私は嵩子のことをきれいさっぱりと忘れて暮らしていたが,彼女はそうではなかっただろう。脳梗塞の後遺症をかかえた祖母の世話や仕事のあれやこれやで自分の思うように動けない・・・ゴメンね,と受話器越しに彼女がこぼすこともあった。

 何か月も会っていない嵩子はすこし痩せていたけれど,あなたはちょっぴり太ったみたいね・・・って皮肉りながらも顔を合わせる悦びを隠そうとはしなかった。9月いっぱいで東京生活は終わりを告げる予定であったから,嵩子は戻ってくる日を心待ちにし,なんら格別な配慮をしなくても私に疑惑の目を向けることはなかった。

 

 それを貫くためなら,流れのなかで相手を傷つけることになろうとも意に介しない・・・だれをも愛さずに生きていくつもりだった。

 ところが,東京を去らねばならぬ日が迫りくるにつれて,じつは自身でも信じられない変化が内部に生じつつあった。

 

『真子を・・・できることなら我がものにしたい!』

 あの夜,はじめて真子と肉体関係をもった刹那に生まれ落ちたササヤカな願望は,日毎に大きくなるばかりか制御できない欲望と一体となり,気づかぬうちに生来のこころの鎧を蝕んでいた。

『おれは・・・真子を愛しているのではないか?』

 最初,それはありえないことだと思い込もうとしていた。しかしながら,真子と肌を合わせるたびに沸きおこる欲求は膨れあがる一方で・・・突き詰めて考えていくうちに,かつて燃えさかったそれとは様相を異にするものの,勝るとも劣らない恋心であると断定せざるをえない。

 だが,そうはいっても,愛せないという信念が変わることはなかった。鎧は蝕まれてもタマシイは決して腐蝕されぬことを確信していたのである。

 愛しているけど愛していない・・・胸の内は,矛盾していようとも,そのように表現するのがピッタリであった。あるいは真子を愛してやまないくせに,どうあっても彼女でないといけないわけではなかった・・・と言ったほうが分かりやすいかもしれない。

 こうした恋愛感情はノーマルでないと思われがちであるが,ふかく愛を分析してみると珍しいことではない。初恋を経験したのちの精神状態の一つといえるだろう。

 問題は・・・単純に愛しているとおもえない私のこころの奥にあった。なおも愛していないと意識する自己自身にあった。

 さらにはバランスを欠いた自我は,きまって自らに懸念をもたらして逡巡から抜け出せなくなってしまう。

 ・・・真子の私に対する気持ちも似たようなもの。どれほど彼女が愛してくれたとしても,所詮,私でないといけない謂われは無きに等しかった。それはひょっとすると・・・愛の本質から遠く離れていることを物語っているのではないか?

 

 なるべく正確に顧みることは重要である。なぜなら真実を見極めることはかならず己れに還ってくるから。

 あのころ,嵩子のひたむきな愛に慣れすぎていた私は,真子の愛情が一般的でないように感じられてしかたがなかった。が,真子はきわめて普通の女性であった。

 では,嵩子のほうが特殊だったのか?

 あながち間違いでもないが,さにあらず・・・ふたりは好対照で,通常という範疇の両極端というべき存在であった。

 そして,尋常ならざるところへ至らしめていた張本人は・・・つまりは,私なのだ。覗かなくていい領域を凝視しつづけ,はからずも引きずり込んでしまったのは・・・私以外のだれでもない。

 その性癖は年老いても衰えないのか,いくつになっても余分なことを突き止めようとしている。

 私は・・・真子の資質にどことなく不安を抱いていた。たえず彼女には不慥かな影がつきまとい,どこまでも裏がえる危険性を秘めていて・・・それは持って生まれた才能のようであった。

 嵩子とは対極にある,永久に染まらない部分をもつオンナ。麗しさとは別次元のあやうき香りを漂わせていた。けだし,それゆえに真子を愛することができたのではないか。

 嵩子の愛は当初から獲得されていて,私にとっては求めなくてもつねに手の内にあった。

 青春とは与えられたものに満足できない側面がある。もとよりそれは愛に関しても言えることだ。嵩子は・・・わが掌中にあったからこそ,愛の対象には向いていなかった。

 

 

 

 9月初めの日曜日,金沢に出向いて住居さがしに奔走する。もちろん嵩子の惜しみない協力があったのは言うまでもない。

 およそ一年ぶりにコロナクーペのハンドルを握りしめたけれど,気分は鬱々として晴れない・・・助手席の嵩子は恋人を不愉快にさせぬよう余計な詮索を控えていた。日が暮れるまでに一応のメドをつけなければ月末の引越しは困難になることを理解し,それがための気難しさと受けとったらしい。

 不動産屋を三つ回っても妥協できる物件は見当たらなかった。「もう一軒あたってみようよ」って嵩子に促されなかったら,いやでも折り合いをつけるしかなかったであろう。さいわい四つ目の業者がまあまあの2LDK・・・玄関と間取りが気に入らないにしろ,築年数のわりにキレイな賃貸マンションを紹介してくれた。ただちに仮契約をむすび,本契約の段取りは嵩子にまかせて私は東京へと帰っていった。

 連絡を入れておいたので,真子が羽田空港で出迎えてくれる・・・なにはともあれ「引越し先が決まって良かったね」と素直に悦ばれて少々複雑な心境になりかけたが,銀座に立ち寄って・・・嵩子と探したというのに,真子と祝杯をあげるという始末。まさしく私のこころは甲乙つけがたい女のハザマで揺れ動いていた。

 

 東京での最終土曜日。

 一週間かかった荷造りは思ったほど大変でもなかった。金沢へもどる日を念頭において暮らし,極力荷物を開けなかったのが功を奏したのである。

 午前中は病院でかるく仕事・・・受け持ち患者は一人のみだった。なるだけ退院してもらい,新たな入院は取らなくてよかったから。研究室の片付けは前日までにやっておいたので挨拶まわりをして早々に帰宅する。

 午後になると上京したときの赤帽が金沢から到着,黄昏どきまでにどうにか引越しを済ませ,そのあと残された時間を真子とともに過ごすために銀座へと向かった。

 みちみち苛立ちの混ざった焦燥感にかられてばかり。おかげで行き当たりばったりの行動しかとれそうになかった。

 地下鉄の階段を駈け上がると真子の笑顔に迎えられる。

「引っ越し,おわった?」

「なんとか」

「よかったわ。ところで今夜の予定は?」

「・・・そうだな」 月並みな思いつきで,彼女の誕生日を祝福した築地の寿司屋へ行くことに。

 店内は混みあっていたが,待たずにカウンターに座ることができた。

「これで三度目か,意外と来なかったなぁ」

「ホントね,なんでかしら?」

 ナンデ?・・・ほかにも行ってみたい店があったからだろ,って言おうとしたら,彼女は向きなおり・・・「特別な日のためだったりして」

「どういう意味?」

「まあ,いいじゃない」

 口を濁した真子・・・別離を見越してのことなのか? それとも付きあいを願ってのことなのか? 読み取れないにしても,彼女の言動には私に対する何らかの心情が燻っている。

 造りでビールをたしなんでいたが,会話は途切れがちで,ふだんよりも早くニギリを注文しだした真子。なんでもいいから話しかけなくては・・・。

「はじめてこの店に来たときは,ここまでの仲になるなんて思ってもみなかったな。マコはどう?」

「どうって,今でも信じられないわ」

 ん?・・・アイロニーか,はたまたユーモアなのか。

 彼女の心中を推しはかろうとする自分が・・・歩んでいく道を定めかねている己れ自身が情けない。重々しい空気を吹き払ってしまいたいのに,いかんせん不甲斐ない現状に甘んじるしかなかった。

 そうこうするうちに真子がハンドバッグから封筒を取り出して「忘れないでほしいから・・・これ」

 差し出されたのは,一葉の写真。

「受け取ってくれる?」

 いささか抵抗をおぼえつつも,さりげなく凝縮された真子のエッセンスに引き込まれる。

 埠頭なのだろう・・・うしろに船体がいくつか並んでいる。低い石の土堤にちょっぴり尻をのせ,左手で支えながらちょこなんとしたポーズ・・・ミニスカートからは露わな両脚が伸びていて,なんともキケンな色っぽさ。ことに膝関節のところで微妙に軸がずれ,男の欲情を掻きたてずにはおかない脚線美がすばらしい。

「これはどこ?」

「ハワイ・・・きょねんの秋,友だちと行ってきたの」

「カンジンの顔がよく見えないなぁ」

「いいのよ,そのくらいで」

「おれは不服だけど・・・でも,もらっとくよ」

 ほとばしった我が言葉に引っかかる。受け取ったりしないで付きあってほしいと持ちかければいいだろうに・・・過ぎし日の想い出になってしまっても悔やまないってことなのか。ならば持たないほうが賢明というもの。

 いったいオレの流儀はいずこへ行ってしまったのだろう・・・心の内にさえ輝きが残っていれば,わすれ形見なんぞ無用のはずではなかったのか?

 フゥー。

 疲れること限りなし。たかが写真ぐらいのことで,真っ当な言いわけを見出だそうとしていること自体ナンセンス。欲しいものは欲しい・・・ひとえにそれだけのことではないか。

 にしても・・・『付きあっていいものだろうか?』

 いつまでたっても堂々めぐりで思い定めることができなかった。もの足りないような顔をしてニギリを頬張る真子・・・まさか誤解されちまったか?

「大トロたのむ?」

「ううん,やめておくわ」

 あらかじめ心づもりをしていたように,顔色も変えずに彼女はあっさりと答えた。

 ・・・こりゃあ100パーセント脈ナシかも。

 そう,しょげるな・・・いいじゃないか。ここで振られるほうが,むしろ後腐れもなくて万事塞翁が馬。真子に拒まれるようなら,男らしくあきらめるまでのこと。

 要は・・・行く手を阻んでいるナヤミの大本を辿っていくならば,その根っ子は目下の日々をともに過ごしている真子との地盤にはなかった。そのタネは嵩子との土壌に蒔かれて根を張っており,漠とした危惧の念を抱きつつ育んできたのであった。

 真子と共に生きる道をこいねがう気持ちは日増しに高まっていて,それに背を向けて歩んでいくことなど到底できそうにない。しかし,そう実感すればするほど気がかりになることがあった。

 ・・・私の比ではないに違いないのだ。

 

   嵩子のオレを恋慕う気持ちは,

   比較しようもないほどに強固で,

   底の見えないくらいに深いことだろう

   ・・・それを承知のうえで

   摘み取ろうなんて,

   このオレにできうることなんだろうか?

 

 嵩子を切り捨てるということは,道義に反するとか信義に悖るどころの話じゃない,オノレの行なってきたすべてを・・・いや,私そのものを否定することにほかならぬ!

 ・・・やみくもに幾度となく晴れやかな未来の色で上塗りをこころみる。なれど,黒一色の如何ともしがたい過去の色彩が浮かび上がってきて塗り込めることなど不可能。おまけに『愛せない』という呪縛から逃れることもできず,わが心はあたかも言霊でコーティングされているかのようであった。

 

 結局のところ,明日からのことについては一言もふれないまま店を出ることになった。

 地下鉄ではドアのすぐ前に立ち,車内の虚ろな雰囲気に呑みこまれ,やるせない想いをいだいて時間は過ぎていった。

 あてもなく六本木の街をぶらぶらしてまわった。行く先が見えなくては語り合うこともできない。いつのまにか手をつないでいた・・・が,ふつうなら温もりとともに伝わってくるものが,その日に限っては結んだところから抜けていくように感じてしまう。

 やがては防衛庁の壁に突きあたり,なだらかな坂をいつものように下っていった。檜町公園で一服したかどうかは曖昧でわからない。

 小路を抜けるとネオンが見えて,真子が小さな声でささやく。「こんやはホテルに泊まるから・・・」

「・・・アリガト」

 思惑どおりだった。なにせ宿舎はすでに空っぽ・・・東京最後の一晩を,朝までいっしょに過ごすことしか頭になかった。

 その夜は最上階,浅いけどもちょっとは泳げるくらいのバカでかい湯船のそなわった最高料金の部屋に宿泊した。

 

 決断というものは,熟考を重ねたうえであっても,そのカナメのところは体験したことなのだろう。さもありなん・・・肉体あるいは行為とは,自己そのものから出でて精神よりもはるかにズバリと内奥を掴んでいる。

 狂おしいセックスの真っ只中,わたしは真子とこの先もずっと交際することを決心した。

 なにゆえに?・・・惑いのなかで右往左往していたにもかかわらず,斯くもたやすく下せてしまえたのか。

 それまでは思案することの不毛がじつに嘆かわしいかぎりだった。しかるに性交のあと,たとえヘンテコといわれようが,もはや突き進んでみせるという覚悟に迷いは無くなっていた。

 それがこんにち,あれこそが呪縛の意味したパラドックス・・・すなわち因果な宿命であったことにただただオドロキ,得心はしていても天にむかって叫ばずにはいられない。

 なにゆえに? ・・・でなければならなかったのか!

 

 今もって喜ばしくも胸苦しさを引きずってよみがえるヒトこま。

「マコ,これからも,おれと付きあってくれないか・・・」

 待っていたのだろうか,彼女は頷いてにっこり微笑んだ。よどんでいた空気が一気に流れだしてホッとしたのも束の間,阿修羅の顔が広々とした部屋のあちらこちらに像をむすんだ。そいつを掻き消してしまいたくて・・・「そうだった,中里さんのところへ挨拶にいったら,散々に言われたよ」

「なんて?」

「幻滅したから,早いとこ金沢に帰ってくれない・・・って」

 ときたま秘書室で中里さんと取り留めのない話をすることがあった。きのうは暇乞いするつもりで行ったのに,暗に真子のことを臭わせてオレを非難しているようだった。

「おれは,中里さんの期待を裏切ったんだろうな」

「そんなことはないとおもうけど・・・」

 真子には分かりようがないのが救いにおもえた。彼女がどのように説明しているのか知らなかったが,中里さんは部下のことを可愛がり,そのぶん心配もしていた。

「中里さんに伝えてくれないか,おれがよろしく言ってたって」

「わかったわ」

 

 日曜日午前9時半ごろ,鍵を管理人のおばさんに返し,一年間におよぶ東京生活の幕が下りようとしていた。

 稲荷坂の急勾配をカカトで確かめるように踏みしめる。

 登るのも下るのもなにかと難儀だった通いなれた路・・・親しみの感情さえ湧いてきて,見下ろす気分も案外スッキリとしていた。おそらく土壇場になってそれなりに決着したことが幸いしているのだろう。

 どんよりとした空にもいくらか癒やされる。

 真子のいない世の中は,砂を噛むように味気なくてつまらない。さりとて独りへのこだわりを捨てられるわけでもない。その濁りきった現状を慰めてくれるような・・・雲・くも・クモ。

 邪悪やら無明やら理不尽やら地上のありとあらゆることを見守りつつ,あざ笑うでもなく言い聞かせるでもなく,まこと悠然と素知らぬふりをして行き過ぎる・・・形ありて形なしとも見受けられるもの。いわば変幻自在の・・・使いのモノ?みたいなヤツ。

 坂の終わるところで振りかえり,その眺めを記憶にとどめようとするや,切なる思いが込み上げてくる。

 ・・・今後の人生も,この坂のように,登ってみなければ行きつく先は見えてこない。こののち如何なる道が待ち受けていようとも,オレは後悔したりしないぜ・・・真子との坂を一歩ずつ登っていくのみ。

 決意をあらたにして乃木坂に向かった。

 これっきりという段になって,それまで頑なに無視してきた乃木神社の鳥居をくぐってみたのは,嵩子のことが引っかかっていたから?・・・そうやもしれぬ。詫びるともなしに祈った気がするのだ。

 参拝したあと,旧乃木邸の敷地内をのぞいてみる。S病院は案の定,乃木坂周辺のビルに遮られて見えなかった。

 その方角に『あばよ』と告げて踵をかえす。

 千代田線のホームへ降りていくと,寮生活をする病棟勤務の新人ナースとばったり顔を合わせた。

「きょうは一段とすてきだね,デートかな?」

 話しかけると,はにかみながら女の子はつぶやく。「えぇ,まあ,そんなかんじです」

「おれは,金沢にかえるとこさ。でも,ここできみに出会うなんて,まったくの奇遇だなぁ」

 その子と一度だけ飲みに出かけたことがあった。どういう成り行きでそうなったのか思い出せない・・・どこかで約束でもしたのかもしれない。そのときのハナシでは,東京に住んでみたくて上京したってことだった。

「ホントですね,すごくラッキーです」

 隣り合わせに坐って,ナースのふるさと鹿児島の観光名所を聞いているうちに国会議事堂前に着いた。

「それじゃあ・・・あすから10月だな,また頑張れよ。元気でな」

「先生も,お元気で。また遊びに来てください」

 席を立つさい,いまだ純粋で清らかな乙女と交わした挨拶が,妙なことに終わった日の情景として脳裏に焼き付いている。

 

 上野駅では今朝わかれた真子がわざわざ見送りに来てくれた。ホームで彼女と軽いキスを交わし,私は東京をあとにしたのだった。