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 ドライブ旅行は日程がきつくてずいぶん骨身にこたえはしたが,これほど楽しいと感じたことは今までになかったと言ってもいい・・・違反切符さえ切られなければ,このうえない最上の心持ちに浸れたはず。

 そんないい気持ちも長続きしないことは重々承知している。けれど,まさか次の日に,奈落の底へ突き落とされたような気分に陥ろうとは・・・思いもよらないことだった。

 

 旅行の興奮さめやらぬ月曜日,予定表では嵩子は準夜勤務だった。彼女の具合をさぐろうと,まだメイク前であろう15時ごろ,仕事の合い間をぬって公衆電話からやさしく呼びかけてみたのだ。

「タカコ・・・だいじょうぶか?」

 この発言は,たしかに問題だったかもしれない。ややあって,耳をつんざくような声。

「バカやろう! 別れたいなら,ソク別れてやる!」

『???』 とても彼女とは思えない。

「ナニサマのつもりだ! 幸せにしてやるなんて,よく言えたもんだ! わたしの前からトットと消えうせろ!」

『・・・』

「早く,そうしてしまえ!」

 おそろしい剣幕でまくしたてられ,そのあげくにガチャっと通話は切られてしまった。

 これが,ホントに嵩子なんだろうか?・・・まるで別人のような口調に耳を疑うばかりであったが,声の主が怒鳴りちらしたその内容に関しては,現在の状況に整合していると認めないわけにはいかなかった。

 病棟に戻っても,さっきの声音と言葉が脳髄に絡みついて離れない。ふと手がとまり,カルテの記述が遅々として捗らなかった。

『なんとか時間を割いて嵩子と会わなくては・・・』

 

 翌日の火曜日。集中はおろか根気もつづかず,診療に区切りがついたのは22時ごろ。気になって仕方がないので嵩子のアパートへ立ち寄った。

 あのころ嵩子が塞ぎこんでいない日はめったになく,その夜も彼女はリビングでうつむきかげんに座っていて,いちだんと鬱的だった。

「タカコ・・・」

 呼びかけても無視する感じで返答がない。一種ただならぬ空気にこれまでの異状を思いだし,なおのこと慎重にならざるをえなかった。

 ほどなく彼女は顔をあげる。

「タカコ?」

 ずっと前方を一点凝視している。

 どうしたものかとモタモタするうちに,不意に彼女は立ち上がった。そしてフラフラとした足取りで歩きはじめ,右往左往しつつキッチンで立ち止まり,台の開き扉からギクシャクと取り出したものは・・・

 なんと包丁!

 面くらって気が動転しながらも,刃物を取りあげようと嵩子に近寄ったその刹那だった。

 いきなり彼女は私のほうへ向きなおり,驚くなかれ包丁を両手で突き出したうえに振り回したのだ。あやうく腕を切られそうになって,すぐさま嵩子の手のとどく範囲から一歩しりぞいた。

 思いのほか,嵩子の動きはトロかった。とっさにグルリと回りこみ,右側面から近づいて彼女の両手を自らの両手ですばやく掴み,その勢いのまま右手で包丁を奪い取った。抵抗するチカラも弱々しい。

 すかさず跳びのくと,刃物を取り戻そうと彼女はあわてふためいた。私を追いまわす所作は,やけに遅くて鈍くてふらついている。よく見ると・・・いくらか眼はトロンとして意識はクリアではないのか?

 ともかく尋常とは思えない。のろまな彼女の隙をみて包丁をキッチンの冷蔵庫の上に置いた。感づかれた気配はない・・・生命の危険と自責のストレスにさらされて鎮まらなかった心の戦きがホンのすこしだけ和らいだ。

 包丁を求めて嵩子は部屋中をうろうろと探しまわった。そのくせ足もとが定まらず,イマにも躓きそうで放っておけやしない。彼女の前を後ずさりして,ぶつかりそうなものをことごとく端に除けておかねばならなかった。

 そうこうするうちに疲れてきたのだろう,嵩子はソファに倒れこむように横になるやいなや,荒々しい呼吸をしだしてあまりにも深い,5月と似かよった深すぎる眠りに陥っていった。

 へなへなと彼女のもとに座りこむ・・・『よかった!』 何事も起こらずに済んだのだ!

 とはいうものの・・・嵩子はマトモではなかった。おそらく意識障害をきたしている。緩慢すぎる動作も変だった。

 例によってアノ疑問が湧きあがる・・・嵩子の中でいったい何が起こっているのだろう?

 ますます分からなくなった。くわえて心に染みるように,穢れなき彼女の寝顔が訴えてやまないもの・・・天の啓示? 常軌を逸した嵩子の振舞いは,オレの言動が万死に値するってことを知らしめているのかも?

 イマはしかし,そのようなことを云々している場合ではない。

 どうするべきか?

 ・・・いつもオレが誘因なのだ,なにかキッカケを作っているのだ。

 今回,ナニも告げずに旅行に出かけ,一度も嵩子に連絡を入れなかった。きっとそのことが関係しているのでは・・・ないか?

 できることなら目覚めるのを見届けてから帰りたい。そうしたいのはヤマヤマであるが,一方でココにとどまる気持ちにはどうしてもなれない。よりいっそう良くないことが起こりそうな気がするのだ。

『かえろう!』

 オレがいれば,かえって嵩子はおかしくなる。ひとまず今夜は帰ったほうがいい・・・もっと時間を作ってから出直してくるのだ。

 うしろ髪を引かれる思いで私はその場を立ち去ったのだった。