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 12月の上旬,この時節としては暖かくて過ごしやすい日が多かった。近いうちに寒波が襲ってくるだろうが,いくらかでも穏やかな日が続いてくれたほうがありがたい。さながら浅谷さんの今の病状のようである。

 

「きょう,頚髄損傷のカレが,がんばって退院しましたよ」

 なるべく感情をオモテに出さないようにしていたものの,内心では・・・手のかかる患者から解放されて若干ホッとしていたのは否めない。

「いつ聞いても,退院はおめでたいことですね・・・」

 タイインという言葉に浅谷さんは敏感だった。イントネーションに羨ましさを滲ませている。近ごろ浅谷さんは自分を隠そうとはしない。

「ホントにおめでたいかどうかは,別問題ですけどね」

 私も,つい本音を言ってしまった。性格的にちがうと分かっているくせに,それも・・・相手は不治の病を患っているというのに。

「退院できるのは,いいことに決まっています」

 いささか浅谷さんも向きになって言いかえす・・・素直でない私に抗議しているかのようだ。

 

 頚髄損傷の患者の行く末はどう考えても悦ばしいものではない。

 誤嚥性肺炎をくりかえし,いずれは経管栄養も中止せざるをえなくなるだろう。身の回りの世話をしてくれる姉だって病気モチのようである。経済面での不安も少なくない。事態は深刻になる一方なのだ。それでも,お迎えがくるその日まで生きていなければならない。

 退院が決まったとき,単刀直入に訊いてみた。

「いま,楽しいとおもえることはあるかね?」

「・・・あるわけないよ」と,彼はそっけなく返答する。

「死にたいとおもうときは?」

「それはない。まだ,死にたくない」

 きっぱりと言い切られたのが予想外であった。多少は,死をねがう気持ちがあるものと考えていたから。

 煎じ詰めれば,人間というものは如何なる境遇であっても慣れていける,ということか。慣れないオノレが愚かなのかもしれない。 まあ今の時点では,慣れないはずだと想像しているに過ぎないのであるが。

 

「浅谷さんに訊いてみたいのですが,万一寝たきりになったとしても,生きていたいですか?」

「生きたいです」

「だれかの世話にならないと,生きていけなくても?」

「助け合って,人は生きているのです。わたしが寝たきりになっても,だれかが世話をしてくれる世の中を望みたいと思います」

「わかりました」

「それと,頚髄損傷のかたのオハナシを聞いていて,最近,思い出したことがあるのですが・・・」

「病気に関わることですか?」

「はい。たぶん今年の3月だったとおもいます。NHKスペシャルで,閉じ込め症候群について放送していました。先生は見られましたか?」

「すみません,テレビは,ほとんど見てないので・・・」

「たしか,エー・・・」

「エーエルエス

「そう,その病気です」

 ALS,筋委縮性側索硬化症のことだ。進行すれば,四肢麻痺の状態から呼吸筋麻痺を合併し,人工呼吸器管理が必要となる疾病である。

 四肢麻痺という点では頚髄損傷と似ているが,ALSは進行性であり,末期には閉じ込め症候群という病態におちいる。すなわち,眼球運動と瞬き以外にコミュニケーションの方法が断たれ,まるで意識が閉じ込められたような状況になってしまう。

 人工呼吸器を装着してからも病状がすすみ,さらに眼球運動も麻痺してしまえば,意思表示はまったく不可能となり,完全に閉じ込められた状態に至るといわれている。

「どういう内容だったんですか?」

「人工呼吸器を使用している患者さんが出ていて,完全な閉じ込め症候群になってしまったら,呼吸器をはずして死なせてほしい・・・そういう要望にかんすることがテーマだったとおもいます」

「それは当然の権利でしょう。その人も家族も希望すれば,病院も合意するはずです」

「けれどテレビでは,閉じ込められたとしても,生きて存在していることに意味がある,という意見がありました」

「そうかもしれませんが,当の本人が感じないことには,それこそ意味がないでしょう。ただただ,苦痛なだけだとおもいます」

「わたしなら,生きていて欲しいですけど・・・先生のお考えは,かなり違いそうですね」

「そうみたいですね。でも,いいんですよ,浅谷さんは浅谷さんで」

 

 閉じ込め症候群の患者を・・・神経難病ではないにしても,私はこれまでに一人,主治医として診療したことがある。

 ある日の夜,脳外科と神経内科の混合病棟で働いていた裕子が,めずらしく入院患者のことを語りだした。

「いま病棟に,52歳の女の人が,脳幹出血で入院しているんだけどさあ,手足が動かなくて・・・めちゃくちゃ可哀そうなのよ」

「ふうん,そうなんだ・・・」

 べつに珍しいことではないだろう・・・って感じで,私は答えた。

「閉じ込め症候群,って知ってる?」

「あぁ,診たことはないけど,知ってるよ。学生のとき習ったから」

 その女性は意識が回復してほぼ清明であるらしいのに,四肢麻痺および球麻痺があって,開閉眼と眼球運動のほかには何もできない状態とのこと。

「その人のケアをしていると,痛ましくて見ていられないわ。自分の意思を伝えられないなんて,どんなにつらいことかしら?」

「助からないほうが,良かったかもな・・・」

 最終的に神経学的所見の改善はみとめられず,気管切開および胃瘻造設をおこない,患者は寝たきりのまま転院になったと裕子から聞いた。

 

 それから半年後のこと。

 喘息状態の急患が救急センターに搬送され,担当医が心不全と診断,その日の循環器オンコールが呼び出されることになって・・・私はすぐに駈けつけたのだった。

 着いてナースから,閉じ込め症候群の患者であると告げられた。病歴を聞くなり,ハッと思い当たる・・・あわててカルテを確認すると,いつか裕子が語っていた脳幹出血の女性に違いなかった。

 おもうに高齢の患者であれば,そのまま療養型病院で治療を受け,救急センターに運ばれることはなかったのではあるまいか。52歳という若さが母親と娘をして救急指定病院での加療を決断せしめたのだろう。

 そこが,まさに生死の分かれ道となった。運命のイタズラとは,ときに過酷なものだ・・・いい加減にしてくれ,って叫びたくなる。

 

 精査をすすめていくと,不整脈がらみの心不全は鉄欠乏性貧血が大きな要因と考えられ,上部消化管内視鏡検査を施行して出血性胃潰瘍と診断された。

 経管栄養の中止,点滴と輸血,薬物治療などにより呼吸困難はすみやかに改善され,また誘因となった胃瘻カテーテルの交換も行なった。

 これで治療は終了したようなもの。で,はたと思った・・・生きているのも辛いだろうに,女性は本当に助かりたかったのであろうか?

 転院していなければ,容易そうな治療であっても順調には進んでいかなかったことだろう・・・有効な治療がなされなかった場合,ひょっとすると絶望の日々から解き放たれ,あの世へ旅立っていたかもしれないのである。

 患者と会話はできないものの,意思の疎通はわずかに可能であった。回診のさいには,こんにちは・・・と挨拶をすると,女性は瞬きをなんども繰りかえす。それを見て,やはり分かるんだと認識を新たにし,いくらか対話を試みようという気にもなった。

 しかし,思いのやりとりは想定をはるかに超えてむずかしく,時間的な余裕があったとしても文字盤でも用いないかぎり不可能にちかいことだった。

 症状がよくなってから・・・女性は瞬いたあと,眼球を必死に動かすことがあった。読み取ろうとおもっても,眼の動きだけでは皆目見当がつかない。当てずっぽうで問いかけても,違うのか違わないのか,それすら分からないといった始末。

 コミュニケーションの手段,たとえばホーキング博士の使用しているような意思伝達装置を提供することができれば,伝達の見込める世界がある程度広がるであろうが,それには周りの人々の協力と多大なる出費が必要である。とても実現できるようなことではない。私にしたってボランティアの精神を持ち合わせていないから,文字盤相当のものを準備することさえ躊躇われた。

 仮に・・・意思疎通がはかれるようになったとしたら,いったい患者はどのようなことを告げたいであろうか? 考えれば考えるほど,生き長らえるのは地獄であって,死なせてほしいと懇願するとしか私には思えなかった。

 

 ところが,ある出来事が入院中におこった。

 退院予定の前日は,女性の53歳の誕生日であった。もちろん私は気づかなかった。ふつう患者の年齢を記憶しても生年月日までは覚えていないものだ。

 午後になって病棟へ行くと,いきなりナースに白衣を強引に引っ張られてしまう。

「なっ,なんだよ!」

「先生もこっちへ来て! はやく早く!」

「待てよ,やることがあるんだ・・・?」

 むりやり連れてこられたのは女性の病室・・・この日勤務しているナース全員が集まって,患者のベッドを中心に輪になっている。その輪に投げ込まれると,だれかが合図の声を発した。

 みんなが一斉に歌いだす。

「ハッピィー・バースディ・トゥー・ユー・・・」

 しかたない・・・まわりに合わせ,小さな声で気分を乗せてみる。わるくない心持ちになって,いい調子になりかけたときコーラスが終わった。

「53さい,おめでとう!」

 祝福の言葉と拍手に包まれた,ピクリとも動かない寝たきり患者。ナースたちの気持ちは果たして伝わったのかどうか?

 そのときだった・・・やや左を向いている,喜怒哀楽のマスクをことごとく剥ぎ取られた,のっぺらぼうな顔に異変が起きたのだ。

 左の目尻から筋をえがいてナミダがながれ,頬のところで粒となって枕に落ちていく・・・ダイヤモンドの雫のように。

 女性は顔の向きも変えられない。反対側の目頭には湖ができあがり,鼻のほうへ溢れだした。むろんのこと自分では拭うこともできない。

 ひとりのナースが近寄って,こぼれる泉を拭きつつ耳元でささやいた。「お誕生日,おめでとう! わたしたち,みんな,仲間だからね」

 患者の涙腺はいつまでたっても締まりそうにはなかった。

 

 その人の顔には一切の表情がない。いや表情を作れない。そのため,よりいっそう衝撃的だった。

 無表情の仮面から溢れ出てきたナミダは,砂漠で見つけたオアシスのごとき希望と感動を与えてくれたのだ。

 ・・・あれほど純真なものはない。その源には感謝のこころ以外に何があるというのだろうか。

 

 次の日の午前中,病棟から呼び出しがあった。搬送に民間救急を利用していたので時間的余裕がない・・・検査を中断して階段を駈け上がった。

 元の病院へもどるため,患者はストレッチャーのうえで,相も変わらず能面のような顔をして待っていた。

「さようなら・・・元気で!」

 別れを告げると,女性は瞬きをして眼球を幾度となく上下させた。

 いつもは見えてこない心の内が,そのときは見える気がした。きっと『ありがとう』って声を振り絞っているんだ!

 ストレッチャーが動きはじめると,疲れ切ったように患者は眼を閉じたのだった。

 

 特集番組のことを聞いて,永遠に自己という檻に閉じ込められた女性の涙を思い浮かべた。閉じ込められても,なお流せる感謝の雫があるのだ。そして,先日と同じところに帰着するよりほかにないのである。

 人間は・・・かならずや,環境に慣れていけるということ。

 慣れることに限界はないのだろう。たとえ地獄にあっても可能なのだ。あの潤んだ目がそう教えてくれた。

 だからといって見誤ってはならない。現実を直視してみるがいい。当人が受け容れない,あるいは受け容れられない場合だってあるのだ。

 慣れられるかどうか・・・それは結局,本人が受容できるか否かにかかっている。しかしながら,自己と環境の問題は単純ではない。時間とともに双方とも変化しながら互いに影響しあうからである。

 畢竟,これは当事者だけが,生きている境遇の中でのみ答えを出せること,議論すべき事柄ではない。ただし,孤独に押し潰されないためには,共に生きているという実感が不可欠であることは疑いようもない。要するに・・・外の世界と,どのようであれ何らかの形で,コミュニケーションがとれていなければならないのである。

 くわえて切なくてやりきれないこと。受け容れようが受け容れまいが,人間にかぎらず・・・ありとあらゆる生命体は,臨終のそのときまで生きていなければならない。

 

 いまの,わが心境を明かしておこう。

 私が自死を選択する所以は,そう遠くない将来において,現在のバランスが崩壊してしまうことに耐えられないからでもある。

 環境には何も望みたくない。必然的に,私が自己に求めるものは一般的ではない。そうした中で特異な均衡を保っている。

 今後,このバランスを保てなくなるとき,私は生きるために異なる均衡を求めるだろうことは明白だ。

 様々なことを犠牲にして今のバランスがある。この均衡にあることが,私のすべてと言っても過言ではないだろう。それは取りもなおさず次のことを意味する。

 バランスを失ってしまったら・・・そのときは,もはや私とはいえない!

 それにしても・・・この資質ばかりはどうにも説明しがたいものだ。

 

 私といえる自己と環境のバランスが保たれているあいだに,私でなくなる可能性の芽を・・・じつはそれは己れ自身なのだが,どうあっても摘んでおかねばならない。