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 12月も中旬になると,浅谷さんの背部痛のぐあいは悪化し,しばしば前胸部の痛みも加わった。しだいにレスキューの使用頻度も多くなってきたので,貼付剤オピオイドの増量をすすめたが,最初は断られてしまった。どうも眠気が強くなって会話ができなくなるのを恐れているらしい。

 私は毎日,二回以上の回診をするように心掛けた。日中はなるだけ診療と関係のないことは話さない。逆に夕方以降に病室を訪れたさいには,原則として診療のことは口にしないようにしていた。

オピオイドを強くしても,心配いらないですよ,眠いときにはあらためて来ますから・・・」

 だれしも疼痛には耐えられない。断られた翌日,浅谷さんはオピオイドの増量を了解してくれた。

 12月下旬,年の瀬も押し迫ったころより,ガン終末期ではたびたび認められる排尿障害があらわれた。泌尿器科を受診して投薬を受けたものの,効果が不十分で残尿も多く導尿の処置をやめられなかった。病室に出向いても眠っていることのほうが多くなってきた。ときどき辻褄の合わないことを喋っている,とスタッフから報告を受けるようにもなった。案の定,食事量が落ちてきたのは言うまでもない。

 尿道カテーテルを留置し,連日点滴をおこない,なんとしても年末年始を乗り切ろう・・・私はそのように方針を定めたのだった。

 つまり容態が著しく悪化し,もう医療カンファレンスを行なえる状況ではなくなったのである。

 

 2010年の締めくくりの週は,雪のふる寒い日がつづいた。

 浅谷さんにとっても,私にとっても,人生最後の師走は寒波とともに終わりつつあった。