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 別の日の夕方,病室に顔を出すと,子供を連れて娘さんが来ていた。浅谷さんは以前と変わらず,孫娘が愛おしくてしかたがない様子であった。

「孫はかわいいですよ。先生は,まだですか?」

 言ってなかったかな? それとも覚えていないのか・・・。

「浅谷さん,ぼくは結婚もしていないし,子供もいませんよ。孫は,ありえないハナシです」

 すると,娘さんが驚いたふうに口を挟んだ。

「オウミ先生は,結婚されてないんですか?」

「そうです」

「失礼ですけど,バツイチだったりして・・・」

「残念ながら,離婚もしていません」

「とてもチョンガーには見えないですね」

「・・・」

「もしかして,女ぎらいだとか?」

 娘さんも不躾なことをよく平気で言うもんだ。

「ふつうに女性が好きですよ。でも,結婚はしないとおもいます」

 意見するような口調で浅谷さんが引き継ぐ。

「相手の人のことも考えないと・・・ちゃんとゴールインしてくださいね」

 まるで裕子のことを見透かされているかのようである。

「ぼくみたいな人間は,結婚生活には向いていないので・・・」

「それは先生の思いこみ。だれが聞いても信じませんよ」

 愛なき愛を明かすつもりなんてさらさらない。どう浅谷さんに説明したものか? なにか自分のことを語る気持ちにはなれないし,また分かってもらえるとも思えない。なによりも男女の話題を早々に切り上げることだ。それには反発しないにかぎる。

「期待にそえるよう頑張ってみます」

「先生もお若くはないでしょうし,なるだけ早く結婚されたほうがいいとおもいますよ。病気になられでもしたら,ひとりでは大変なことですから。それでは,わたしはこれで失礼しますので・・・母をよろしくお願いします」

 と,娘さんは帰り支度を終えて挨拶した。

「どうも・・・」と答える。いいタイミングではないか・・・「浅谷さん,用事を思い出したので,ナースセンターに行ってきます」

 しばらく私も席を外すことにした。これならうまくかわせるだろう。

 

 だが・・・甘かった。5分くらいして病室に戻ったとたん,浅谷さんが唐突に話しだす。

「先生,お願いがあります・・・わたしが生きているうちに,結婚を決めて式を挙げてもらえませんか」

「それは,どだい頼まれてもムリですよ」

 いくらなんでも強引すぎる・・・恋のキュービッド役でも演じようというのか?

「でしたら,付きあっている人を,この部屋に呼んで紹介してください。ぜひ会ってみたいのです」

 参ったな・・・まさか,裕子のことを知っている? いや,それはありえない。じゃあ,たんに恋人と顔を合わせたいだけなのか? どちらにしても応じなければならぬ謂れはない。心ならずも説いてみる。

「ぼくは・・・他人に合わせてやっていくのが,ものすごく苦手なんです。どう頑張っても自分には不向きだと思い知ってから,一生涯,独身をつらぬくことに決めました」

「どうしてでしょ。先生なら,だれとでも上手にやっていけそうですわ。だいいち人間はひとりでは生きられないもの・・・そうでしょ」

「まちがいなく,ひとりでは生きられません。だから,みんなと共に生きていくために,ぼくは独りでないとダメなんです」

「へんな理屈ですこと。よくわかりませんけど,そのようなことって,ホントにあるのでしょうか?」

「なんて説明すればいいのか,精神的にひとりで存在していないと,周りとバランスがとれないっていうか・・・」

「そう仰っても,意中の女性は,いらっしゃるのでしょ!」

 まずいな,ハナシが戻ってしまった。

「一応,いないわけではありませんが・・・」

「わたしは,その人に会って,おはなしがしたいのです」

 最悪の展開になりそうだ。あきらめて然るべきなのに,この執念のような勢いは何処から出てくるものなのか?

「浅谷さんも,結構わがままですね」

「覚悟ができてから変わってきました」

 死にゆく浅谷さんに,なにか心に伝わることをしたいと思っていた。私にできることは限られている・・・これでいいのかもしれない。

「だれにも言わないでください,秘密ですよ」

「・・・はい」

 病室からケイタイで裕子に連絡をとった。忙しくて家には帰っていないような気がするが,どうだろ?・・・呼び出し音が10回くらい鳴って繋がった。

「もしもし・・・」

「はぁ~い」

「まだ病院にいる?」

「いま,着替えてるところ・・・あなたは?」

「病棟にいるんだけど,ちょっと頼みたいことがあって・・・」

「なに?」

「すぐに1病棟7階の,浅谷さんの病室まで来てくれないか。718号の個室にいるから・・・」

「なんで?」

「ヒロコに会いたいそうだ」

「どういうこと?」

「とにかく来てくれ。来れば分かるから・・・」

「・・・わかったわ,718号室ね」

「うん」

 もう一度,浅谷さんに念を押す。「付きあっているのは,内緒ですからね」

 

 数分してから裕子が病室に入ってきた。

「こちらが,浅谷さん・・・」

 笑みをうかべて裕子は挨拶する・・・「はじめまして」

「こんばんは・・・」と,浅谷さんの面持ちは,希望が叶ったわりには嬉しそうではなかった。すぐさま私に告げる。「できれば・・・ふたりで,お話ししたいのですが・・・」

「それじゃ,ぼくは仕事が残っているので,このまま失礼しますから・・・おやすみなさい」

 裕子と視線が合った。浅谷さんのことは時折しゃべっていたので,思ったほど違和感はないようにもみえる。あとは任せたぜ,と目配せしたものの,合点のいかない表情が返ってくる・・・『いったい何なのよ!』

 こりゃ,マズったかな? まあ,いいさ・・・なるようになるさ。

 病室を出ると,準夜勤務のナースが個室を回っていた。

「あら先生,どうしたんですか?」

「どうもしないよ,シ・ゴ・ト」と答えながら,中で出くわさなくてよかったとホッとする。

 

 一時間以上は経ったであろうか,我が家に帰るやいなや,裕子に謝った。

「ゴメンな・・・浅谷さんが,おまえにどうしても会いたいと言い出して,あとへ引きそうにはなかったんだ」

「いきさつは聞いたわ。べつに大丈夫よ。それより,あなたが帰ってすぐに,準夜さんが入ってきてビックリ・・・そしたら,外来のときからの知り合いと言ってくれて,それに合わせてなんとか切り抜けたわ」

「そうか・・・ところで,なにを話していたんだ?」

「特別なことって,なにもないわよ。わたしは質問に答えていただけ・・・でもね,あなたは相変わらず,女性にやさしいのね」

「浅谷さんは患者だろ」

「そうだけど,あんまり真剣になり過ぎじゃなぁい?・・・彼女は,あなたのことが好きみたいよ」

 本筋から外れていきそうなので,それ以上は訊かないことにした。

 

 翌日の夜。

「先生,きのうはありがとうございました」

 裕子の件だ。 「きのうは特別・・・もう,ないですから」

「わかっています」 言われなくても・・・というような声色を聞いて,返答をいささか悔いていると,「わたしも喋っていいでしょうか」・・・そりゃ,かまわないさ。

「約束してください,結婚するって」

「・・・」

「そうでないと,ヒロコさんが可哀そうすぎます」

 私は肯かなかった。是認するわけにはいかないのである。

「先生は,ひとりでないとバランスがとれないと仰っていましたが,卑怯ではないでしょうか?」

「・・・そうかもしれません」

「なんだか,先生らしくない気がします」

 らしくない,か・・・うれしいような,うれしくないような,重たいコメントだ。

「はっきり言えるのは,これまで随分と悩んできた結果,現在の状況があるということです。今さら自己は変えられるものではないし・・・変えるつもりもありません」

「・・・そんなふうに生きるのは,淋しくありません?」

 孤独や生き方のことで議論はしたくない・・・さりとて,適当にお茶を濁したくはなかった。

「ぼくは,いつだって独りですが・・・同時に,いつだって一人じゃありません。なぜなら,この世のあらゆるものを自分の友だとおもっています。虫であろうが,木であろうが,雲であろうが,ここに存在するもの,すべてを友にしています」

 ポケットから小さなメモ用紙を取り出し,ボールペンで三つの漢字を書いて浅谷さんに手渡した。

 

   -天地己-

 

「なんと読めばいいのでしょう?」

「ぼくの造語で,てんち・と・おの・・・って,勝手に読んでいます」

「意味は・・・」

「読んで字のごとく,天地と己れ・・・天地と対峙し,天地を友とし,天地と合する・・・そういう意味合いを込めて,てんちとおの,と言っています」

「テンチとオノ・・・」

「浅谷さんにも役立つときがあるかもしれません。元来,人間というものは孤独な存在ですから」

「なんとなくわかりますが・・・息が詰まってしまいそうですわ」

 異質なものに接して戸惑っている様子だった。「せんせいも息抜きをなさったり,気晴らしをされたりすることはあるのでしょう?」

「それはありますよ」

「趣味は,お持ちになりませんの?」

「ないですね・・・趣味を持つのが,キライなんです」

「余暇を楽しむということは?」

「あんまり,ありませんね・・・」

「わたしには想像できない世界ですわ・・・それに,せんせいが潤いのある生活をしていらっしゃるとは,とても思えなくなりました」

 そういえば昔,真子と言い争ったさい,たしなめるように指摘されたことがあった。分かってはいたが,胸にこたえる一言だった・・・『あなたはナニカをして,こころの底から楽しいって感じたことはあるの? ないでしょ』

「ぼくは・・・いつでも精一杯生きていたいだけです。言われてみれば,楽しみというものは何ひとつありませんが,現実のありようをできるかぎり知りたいとおもっています。考えようによっては,真実を知ること・・・それが唯一の悦びといえるのかもしれません」