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 浅谷さんの症状は,入院して少量の酸素を吸入することで軽減した。追加の検査所見を確認しても前月と著変はなく,心エコーでも心嚢液の増加はみられない。したがって酸素吸入は,ほどなくして止めることも可能であったが,しっかり落ち着くまで継続することにした。

 今回あらたに認められたのは背部痛で,手持ちの消炎鎮痛薬を服用してもほとんど効果はなく,その痛みと募る不安が呼吸困難の誘因のようであった。

 背部痛は骨転移によるものと考えられ,下田先生と相談した結果,今後は疼痛コントロールオピオイドを導入することになった。

「背中が痛むということは,どうも骨に転移しているようです。きょうからオピオイドという痛み止めを使いますよ」

 浅谷さんも自分なりに調べて予想していたらしい。

「やっぱり転移ですか。とうとう麻薬を飲まないといけないのですね・・・」

 

 入院して三日目の午後,浅谷さんの夫にムンテラした。骨転移の疑いとオピオイドの開始について説明を終えると,ご主人から問いかけられた。

「ミズは・・・心臓のまわりに溜まっている水は,どうなったんでしょう?」

「心嚢液の量は,先月の退院時とそれほど変わりはありません。それに一度ドレナージを行なうと,溜まりにくくなる場合もありますから・・・とにかく今は,痛みのコントロールのほうが大事です」

「正直なところ,家内はあと,どれくらい生きられるんでしょうか?」

 よく家族から訊かれる質問である。

「人の命のことは,医学的な病態のみで予測できるものではありませんが,強いて言うなら経験的には,あと三か月から数か月というところでしょうか」

「こんなに医学が発達しているのに,どうにかならんのですか?」

「浸潤や転移があって,手術のできない進行がんの治療に関しては,いまだに限界があるんです。治すための有効な手段がなくなった場合,あとは症状をいくらかでも和らげる治療しかありません。いわゆる対症療法で,最近では緩和医療と呼ばれています」

 旦那さんは観念したようにデスクに目を落とした。

「家内には,余命のハナシはしないでください。あいつは神経質でいろんなことを気にするタチだから,数か月と聞いたら立ち直れないかもしれない」

 返事をしないで,かまわず次の話題にうつる。

「浅谷さん,このような時に聞きたくないとはおもいますが,どうしても話し合っておかないといけないことがあるんです」

「どんなことでしょう?」

「奥さんにも,いずれかならず,最期のときがおとずれます。もしかしたら急変といって,とつぜん命が危なくなることもあります。それでこの先,生命の危機的状況に陥られたときの対応を,前もって考えておきたいのです」

「はあ・・・」

「現在の病状では,入院中であっても最悪の場合,あっというまに心肺停止の状態に陥ってしまうことがあります。そのような場合,本質的に治すことのできない状況なので,心マッサージや人工呼吸などの蘇生の処置は行なわないつもりです。ガン終末期の患者さんには,本人を苦しめるだけの延命処置はしないのが原則です。それで浅谷さん,確認なんですが・・・心肺停止のときもふくめ,奥さんの命が危険になられた場合でも,蘇生の処置は試みないということでよろしいでしょうか?」

「ええ,やらないでください。延命はしないでほしいと,家内も言っていますから・・・」

「では,これから先,危篤状態になられても特別な処置はしないで,静かに見守っていく方針でやっていきます」

 準備してあった同意書を提示する。「これに,いま話したことがだいたい書いてありますので,サインをお願いします」

「ぼくの名前を書けばいいんですか?」

 ハイと答えると,書面内容を確かめることもなく旦那さんはサインした。

「それと今後のことですが,痛みがコントロールできるようであれば,なるべく退院してご自宅で療養されたほうがいいかとおもいます。この分でいくと,おそらく家で過ごせる最後の機会となりそうなので,退院できるよう頑張ってみます」

「ありがとうございます」

「ほかに訊きたいことはありませんか?」

「・・・とくにありません。ぜひとも,よろしくお願いします」

 終末期をむかえた患者では,急変のリスクが大きくなった時点で,心肺蘇生の処置を行なわない旨の同意を得ておくことが通例となっていたのである。

 

 夕方,浅谷さんの個室をおとずれた。

「さきほど主人が帰りました。病状について説明してもらった,そう言っていましたけど・・・わたしにも教えてください」

「なにをでしょう?」

「主人は,わたしの余命について訊いたはずです。そんなハナシはしていないって言い張ってましたが,ぜったいに隠しています・・・あの人は,いつだって顔に出るんですから! 先生,ホントのことを仰ってください。わたしはあと,何か月くらい,生きられるのでしょうか?」

「それは分かりません。神のみぞ知るところです」

「ちがうんです! そういうことではなくて,大体のところを・・・先生の見立てをお訊きしたいのです。のこりの命は,どれくらいなのでしょう?」

 ・・・夫との会話が脳裏をよぎる。家内には告げないで欲しいと,はっきりと頼まれた。私は返答しなかった・・・心のどこかに引っかかるものがあったからだ。かといって,事実をありのままに告知していいものかどうか? 決めかねるも深く考える余裕はなかった。

「せんせい,わたしは知りたいのです,真実を!」

 シンジツという言の葉がオレの胸の中で弾けて広がる・・・ここで適当なことを告げて,いったい何になるというのか。

「三か月くらいかな・・・」

「さん・かげつ・・・」

「保証できるのは,三か月くらいで,そのあとは合併症のためにだんだん苦しいことも多くなるとおもいます」

「わかりました・・・」

 声が弱々しく萎んだ。目には大粒の涙が浮かんでいる。部屋のなかには重苦しい空気が立ちこめ,もはやどうにも言葉をかけることができない。マナコから零れおちた雫があつまって酸素の経鼻用カヌラを伝っていた。

 

 その日以来,浅谷さんは元気がなくなった。それほど,のこり少ない命ということが,患者のこころに重くのしかかっていた。

 どうして率直に,宣告してしまったのだろうか・・・正しくは,分からないということではなかったのか! 数字は単なる経験上の推測に過ぎないではないか。

 でも,あのときは,推定余命について言及していた。三か月が誤っているわけではない・・・そうなのであるが,浅谷さんを見ていると,自分の判断が正しかったとは思えない。

 人と場合によっては,知らないほうがいいこともある。分からないで押し通すべきだったか・・・。

 

 タウ・タオ・タイ

 

 悩んでも仕方がないではないか!

 行きつく果ては,人智の及ぶところではない。だからこそ,大いなる道に従うのだ。わたしは私で,己れの分別によって生きるまで・・・たとえ過ちを犯したとしても,それが大いなる流れなのである。

 

 私はいつも真実に飢えている。もう嘘はたくさんだ。

 世の中は,虚言と偽物だらけ・・・バーチャルなものが蔓延している。ゲームもそれらと同等・・・ゲームの中で生きられても,世の中では生きられぬ。しごく当然のこと。

 それなのに本人も気づかないまま,バーチャルな世界を信じこんでいる。いや正確には,現実とバーチャルなものが複雑に絡み合って混在し,そのために精神的錯誤が生じているのだ。

 同じように,昨今のめざましい進歩から誤った認識が生まれる。社会は進歩を取り込み,進歩は社会を変えていく。しかしながら,人間はいつの世も変わらない。

 医療の分野もまたしかり。先進医学が人の世を変える。これまで不可能であった領域にまで治療の光が差しこむ。いかなる疾病であってもそれなりに加療できるかのような錯覚!

 じつはそこに,もう一つ裏返しの厄介な問題が隠されている。というより,表裏一体の内作用のおよぼす影響が付いてまわる。

 みえない内部で,当人が錯覚だと自覚しているほどには,真には自覚されていないという誤謬がはびこっているのだ。すなわち・・・自分では分かっているつもりでも,分かっていないということ。

 この二重の精神的錯誤は,さらに現代の心の脆弱性を引き起こしている。まこと錯覚だと分かったときには,ココロは立ちあがる力を有していない。

 何故なのか?・・・精神の見えざる急所を鍛えること,それを怠ってきたからにほかならない。

 

 人間は,いつの世も変わらない。

 ・・・命にはつねに限りがあり,病気はかならず治るとは限らない。どれだけ先進医療が発達しても,その道理は変わろうはずがない。その限りある命を生き抜くのが人間の定めである。

 ガンに立ち向かう人々は,みな,限りあることを知って闘いの一歩を踏みだす・・・それでもいい! 命のあるかぎり生きようと。

 言いかえれば・・・悔いの残らぬよう生き抜くには,隠れた真実を見抜く眼と,それ相応の精神力が必要なのだ。

 限りあるものを見ることのできない,自由に溺れて不自由を見失った現代人は,精神の欠陥を是正する術を忘れてしまった。けれども已むをえないのかもしれない・・・不便な世界へ後戻りはできないのである。

 進歩や利便にかぎらず,あらゆる先進的で有意義なことには,その代償を払わなければならない。

 相対というものは,現実における陰陽のバランスを例外なく保っている。

 

 死を間近にひかえた浅谷さんに,本当のことを語りたかった。死を意識している私は,嘘がなんとしてもイヤだった。そんな如何ともしがたい心情が『三か月』の背景にはあった。いまは・・・患者の事情を優先しなかったことを反省している。人それぞれであるとあらためて教えられた。だが,重大な局面では自己を偽ることはできないだろう。大いなる道を信じるばかりである。

 勤務の終わりに浅谷さんの病室をたずねる。一週間が過ぎても,肝心要のヒトは塞ぎ込んでいた。

『このまま,死んでしまいたい・・・』

 ・・・沈んだヒトは私のこころに訴える。絶望と苦しみしか残されていないのなら,いっそ早く死にたいと。

 許さない! 断じて許すわけにはいかない。死を受け入れて,マツゴの瞬間まで生きること・・・それが,私を指名したあなたの試練だ。それこそがあなたに残された使命であり,あなたの望みなのだ。

 タマシイの叫びをしずかに押し殺し,患者に呼びかける。

「ちょっと話してもいいですか」

「どうぞ・・・」

 か細い声であっても,まともに返事をしてくれた。訊ねたからといって,これ以上事態が悪くなることはあるまい。

「外来で・・・命よりもっと欲しいものがある,って語っていましたよね。それは,どうなったのですか?」

「・・・」

「命と引き換えにしてまでも,大切にしたいものではなかったのですか?」

 浅谷さんは無言だった。

「余計なことを言ってしまったかな・・・また,あした来ます」

 沈黙の人に対応しようとしても一筋縄ではいかない。中途でも,引き揚げるのが賢明だ。

 

 あくる日。

「せんせい,人間って弱いものですね」

 ・・・浅谷さんの表情には生気が戻っている。「わたしなりに覚悟していたつもりですが,あと三か月と聞いて,こころが萎えてしまいました」

「だれだって同じですよ」

「未来に希望がもてないのに・・・どうやって過ごせばいいのか,わかりませんでした」

「いまからですね・・・」

「でも,自信はありません」

「自信のある人なんて,いませんよ」