オピオイドを少しずつ増量し,背部痛は徐々に抑えられつつあった。多少の眠気はあるようだが,制吐薬が効いているせいか吐き気の副作用はほとんどなかったし,便秘の副作用も緩下薬でコントロール可能であった。
日中の診察のほかに,不都合が生じないかぎり,帰宅前か消灯前にも個室に出向いて浅谷さんと対話をかわすのはマンザラでもない。
「先生,このごろ,あまり眠くならないようになりました。くすりに慣れてきたのでしょうか?」
「そうだとおもいます」
「おかげで,すこしは本も読めるようになりました」
ベッドテーブルにはカバーのかかった文庫本が一冊置いてあった。
「それは良かった」
「でも,先生とこうやってお話できるのが,一番うれしいこと・・・」
「・・・」
「ご面倒ばかり,おかけしていますけど・・・」
そうかも・・・って,おもわず答えそうになった。「ぼくも,けっこう雑談を楽しんでいますよ」
「お訊きしてもよろしいでしょうか・・・」
「ええ,いいですよ」
「わたし・・・これまで生きてきて,とくに悔いの残っていることもありませんし,じゅうぶん苦労も喜びも重ねてきたって自惚れているんです。そして先生の言われるように,これからは巡り合わせに逆らわないで,生きられる分を頑張ろうとおもっています。ですが,自分でも痛いほどわかっているのに,どうしてこんなにも,割り切れない感情が湧き上がってくるのでしょうか?」
「死にたい人なんていませんから,それが当たり前じゃないですか。どんな人も,葛藤をいだいて悩みながら生きているんですよ」
第三者の目がはたらいて心情を慮ることはあっても,正直いえば私には,相手と気持ちを共有する優しさのようなものは露ほどもなかった。
「そうですよね・・・」
『いずれにしても,これからが本番・・・』と内心つぶやく。べつに個人的な意見をさし挟むつもりはない。
「なるべく余計なことは考えないで,すこしでも納得できることをやってみたいとおもいます。それから,ちゃんとお話ししておきたいのですが・・・」
ひと呼吸おいて,窓から空のほうを見上げながら「さいごを,先生に看取ってもらえるなら,わたしは安心して,しぜんに命をあきらめられるものと思っていました。でも・・・今度のことでつくづく,あきらめの悪い女だってわかりました」
『そんなに自分を責めなくても・・・誤らないと分からないし,繰り返さないと身につかない』
「それに・・・」
掛けぶとんに目を落とし,声のトーンが変わった。「すごく怖いのです。いろんな人とお別れしなければならない,そう考えるだけでとても恐ろしくて恐ろしくて・・・こんなことで,ホントにあきらめがつくのでしょうか?」
『そうじゃないんだ』
意見を述べずにはいられなかった。
「ムリに,つけなくても良いんですよ」
迷いつつも注釈をくわえる。「というか・・・つけてはダメなんです。いのちは諦めたらいいと言いましたが,生きることを諦めてはいけない・・・」
ナニ言ってるの? といった面持ちを見せる浅谷さん。
考えるままに言葉を紡いでいくと,どうしたって矛盾が生じる。うまく言い表せるかどうか。
「その時がおとずれるまで,怖くても自分をごまかさないで,一日一日みんなと一緒に日常を生きていくことですね」
これじゃ参考にもならない。もっと具体的なことを示すことができればと思うものの,どだい浅谷さんと私とでは人間が違いすぎる・・・どのようにアドバイスしたらいいものか?
「わたしに・・・できるでしょうか?」
「・・・」 返答に窮してしまった。
「すみません,変なことばかり訊いて・・・」
浅谷さんは笑顔をこしらえて「ふしぎなんですよね・・・先生が主治医でなければ,このような形で終わりを迎えることはなかったとおもいます」
「どうですかね・・・それは,分からないでしょう」
「いいえ,わかります。そうでなければ,看取ってほしいとは思いません」
なるほど・・・だとして,相手にどのような事情があったにせよ,私には関係のないこと。それゆえ違和感と戸惑いを禁じえないのだ。
「先生は,どこか摑みどころがなくて・・・医者らしいけど,医者らしくないような・・・優しくて優しくないような,そんな感じがするのです」
「なかなかイイ線いってますね。たまに優しいって言われることがあるんですが,中味はまるっきり優しくない・・・これは本人が明かしていることですから間違いようがありません」
「わたしにも,人を見る目はあります。せんせいは優しい・・・ですけど,なにかフツウとはちがうのです」
オレは・・・求めることを捨てた人間。 ただ,どういうわけなのか,自らの命を犠牲にする人を放っておくってことができないだけ。
「もう遅くなりました。こんやはこれで・・・おやすみなさい」
「・・・ありがとうございました。おやすみなさい」