夜が明ける前に目が覚めてしまった。真横で裕子は未だ眠っているようであったが,股間に溜まった力を逃がそうと彼女を抱き寄せる。耳元で息をふるわせ,右手で臀部をそっと舐めるように撫でまわす・・・彼女が反応し,しだいに縺れあい,ベッドがミシッミシッと軋みはじめた。
絡み合いが終わったとき,朝を迎えていた。
窓越しに,まばゆい光の筋がホテルに向かっている。日の出のつよい陽光が対岸のビルに当たって反射しているらしい。起きあがり,バルコニーに通じるテラス窓を開けた。
・・・東京湾に照りかえる朝の日差しが二条,まぶしく波間に揺れてよりいっそう煌めいている。
あの黄金の道・・・宮島の夕陽とそっくりではないか。とはいっても,これから輝きを増してくる朝陽は,なんとなく好きにはなれないけれど。
裕子も起きてきて「なんてまぁ・・・すがすがしくて,いいわね」
あかるい空にそびえる東京タワーは,夜ほどには強調されない。静かに納まっていて小ぢんまりとしている。
「アサの空気はおいしそう・・・」と呟いて,彼女はバルコニーへ出ていく。
眠りから目覚めようとする大都会。
・・・その光景は,夜でもない昼でもない束の間の安息を得たかのような静まりがあって,なんとはなしに安らぎのようなものさえ感じる。
「ねぇ,あそこに見えるのは,スカイツリーじゃない?」
こちらを振りかえり,彼女は小声で叫んだ。まさか?・・・と答え,外へ出て彼女の視線の先を見やった。
となりのバルコニーが視界に入るくらい右側,お台場海浜公園のはるか向こうに,小さいものの細長い円柱状のものが見えていた。
「そうかも・・・」
「絶対そうよ。ねぇ,スカイツリー,見に行こう」
このところなにかと話題にのぼるスカイツリー。未完成の時期だからこそ見モノかもしれない。たしか浅草からそんなに遠くないはず。
「よぉうし,きょうは浅草とスカイツリーだ」
チェックアウトのさい,フロントで東京スカイツリーの場所を確かめる。前日に考えていた,水上バスで浅草まで行ってスカイツリーを見にいくルートもあったが,往きは電車に乗って帰りは水上バスを利用することにした。
正直に白状しよう,甘美な想い出が寄り道したい気持ちを抑えられなくしてしまったのだ。
錦糸町・・・真子と結ばれた街。その名の響きは夜の繁華街にただよう妖しさを連想させる。かつて訪れたのも夜だった。
しかるに私が降り立ったところは,まるで見たこともない街であった。
夜になれば雰囲気が変わるのだろうか? ・・・それとも20年という歳月のあいだに変わったのであろうか? おぼろげに瞼に浮かぶのは,ラブホテルのネオンがきらめく情景だけ・・・思い起こそうとして,錦糸町を詳しく覚えていないだけでなく,ほとんど知らないことに気づいたのである。
駅の周りを多少ぶらついて,地下鉄のりばに向かった。こころの中でオノレ自身に言い聞かせる・・・『錦糸町は,もういいんだ』
ひと駅で押上に着いた。総武線からもときおり雄姿がのぞまれたが,いよいよスカイツリーとじかに対面だ。
こころがちょっと躍る。どこから出たって関係なく見えるだろうと適当に出入り口を登った。
待っていたのは駅周辺の工事現場を囲むフェンスばかり。標識と誘導員にしたがい回りこんで一般道路へとすすむ。ところが,一向にスカイツリーらしきものが見えない。
道路を数十メートルほど移動しても依然として見えてこない。
「どうしてだろう」なにがなんだか,さっぱり分からない。
「ほんと,おかしいわね」
裕子も狐につままれたような顔をしている。出口がいけなくて反対方向へ来たのか? ・・・人の流れもまばらで判然としない。
元の地点へもどり,あちらこちら動いてみた。ぐるぐる見回すうち,突如として低めのビルの上方に先端のクレーン部分があらわれる。
「あそこよ!」と,彼女が無邪気に叫んだ。
「あぁ,おれも見つけたよ」
ナンのことはない。道路わきの建物で隠されていたのだ。「ふつうのビルでも・・・隠してしまうんだな」
駅前交番を過ぎて見えてきたのは,京成橋。
そこに立ってスカイツリーをながめる。展望台らしき構造物のうえにタワークレーンが設置され,いかにもぎこちなく・・・モサモサと空中ショーを繰り広げている。
ときどき立ち止まって仰ぎみる。真上にツリーを見上げるのは,相当にしんどい。まして強い日差しを浴びるから尚のことずっとは見つめていられない。
最上部のクレーンに至っては,アームの一部分が見えるだけで,作業のこまかい様子が分かりづらい。今更ではあるが,それなりに離れた場所からスカイツリーは観賞すべきであろう。
正面の基部のところに『現在のタワーの高さ428m』の表示があった。
「なぁ,完成すると何メートルになるんだっけ?」
「む・さ・し・・・だって」と,裕子がいとも簡単に答える。
「むさし?」
「六・三・四・・・634メートルよ。このあたりは,むかし武蔵って呼ばれていたんでしょ」
「なるほど・・・でも,それホントか?」
「さあ,そう言われると,わからないわ。病棟の患者さんが教えてくれたんだけど・・・」
あとで調べてみると,むさしの件は事実であった。正式にそのように発表されていた。
東武橋からも見渡した。
地上の建設現場にもタワークレーンが幾つも立っていて,近い将来ツリーのまわりは目覚ましい大変貌を遂げるにちがいない。東京は絶えず再生を繰り返し,常に当代随一であり続けなければならぬ運命を背負っている。終わりのない人類の宿命みたいなものを感じた。されど私は,個人にしか興味がない。
『せいいっぱい,がんばれよ』
一声かけてから,早々に帰ろうと真っすぐ高架橋に向かって急いだ。なにせ暑かった。さいわい業平橋駅という表示が見えてくる。こんなところに駅があるとは思わなかった。
さらに高架ホームに上ってびっくり・・・そこからは建設現場の内部が丸見えなのだ。しかもスカイツリーの真下に位置しており,見上げればくらくらと眩暈がするほど。 それにしても道を逆に戻らなくてよかった。ここに立たなければ見にきた甲斐がない,そう思えるくらい,このアングルからの眺めは刺激的であった。
「ねえ,できあがったら,どんなふうに見えるのかしら?」
同じことを考えていた。
「すごいだろうな」
「完成したら,もう一回来ようね」
参ったな・・・とっさに嘘がつけなくて的外れな返答をする。「いつ頃,完成するんだろう」
「再来年?」
「そうか・・・」
「まあ,いいわ。わたし一人で見に来るから!」
過敏に彼女は反応する・・・いかん,なんとかしなくては。
「ごめん,めちゃくちゃ混んでるだろうなとおもって・・・すこし経ってから見に来ようぜ」
「ぜったいよ!」
ちょうどいい具合に電車がホームに入ってきた。
浅草は次の駅。 最後尾の車両に乗っていたら,前の方の車両に移動しなければ降りられないとのこと。これは東京で電車に乗っていてはじめての経験であった。
いまだ古さの残る東武浅草駅・・・そう遠くない将来,全面的に改築されることになるのだろう。
浅草といえば,浅草寺。
仲見世通りは相も変わらず人で溢れていたが,せっかく来たのであるからタマには人込みもいいか,と思い直して参拝することにした。
帰りがけに,仲見世で裕子がおみやげを買い求める。そのあと伝法院通りと交わるところで行列のできたメンチの店を見つけて・・・「あれ食べようよ」と例の調子で彼女にせがまれてしまう。
お腹も空いていたのでメンチを1個ずつ買うことにした。手にすると,めちゃくちゃウマそうなのだ。裕子の食べ物にかんする嗅覚はするどい。もしかしたら食べ歩く人をよく観察しているのかもしれない。
「肉汁で火傷しないように気をつけてください」
メンチを手渡すとき,店の人がお客さんひとりひとりに注意をうながす。そんな大袈裟な・・・と,少々軽んじていた。だが,裕子の食べるようすを見ていてすんなりと納得できた。
彼女は口の中をわずかに熱傷し,肉汁がこぼれおちて服をちょこっと汚す羽目に・・・むろん私は無傷,犠牲になった裕子のおかげである。そんなわけで肉汁たっぷりのメンチは大変おいしかった。
雷門通りに出て,お昼をどこで食べようか,いろいろ迷った末にファミレスに入った。ゆっくり休むことできたので賢明な選択だったとおもう。
食事をする最中にも錦糸町のことを考えた。あの街並みを見たら,どういうわけか真子に逢いたい気持ちが萎んでしまったのだ。理由を探ろうとしたが,疲れているせいで頭がうまく回らない。
帰りは予定どおり,浅草から水上バスに乗船し,北陸では味わえない乗り心地に大満足する。いい気分になって日の出桟橋で降り,電車を乗り継いで羽田空港から帰途に就いた。
飛行機の中でも錦糸町のことが気になった。
当時をしっかり把握していない,覚えていないのがポイントなのではない。変わったと感じてしまう現代の街には出会いたくなかったということ・・・要するに,過ぎし日のおぼろな錦糸町でよかったのだ。
真子にも変わってほしくない。かつてのままの彼女を見ていたい。もはや逢いたくはなかった。胸の中に生きている彼女こそ,私の真子なのだ。
過去をめぐる旅をして,ひとつの結論に達した・・・真子とは逢わないほうがいいのである。
9月7日の朝,病院に着くなり救急治療室へ呼ばれた。浅谷さんが来院したのだ。6日の夜遅くから息苦しくなり,我慢できなくなって通常の診療が始まるまえに救急センターを受診したらしい。
検査所見は先月退院時と著変なくバイタルも安定していたが,新たに背部痛が加わって,浅谷さんは思いのほか動揺していた。入院してから再評価するのがベストの方法と思われた。
「入院になりますよ」
「先生,よろしくお願いします」
浅谷さんの苦悶の表情がいくぶんなりとも和らいだ気がした。