7月,浅谷さんはもう一度外来を受診した。とくに変わりはなく,むしろ表情は明るくて,とても癌に侵されているふうには見えなかった。
ところが8月3日の火曜日,労作時の呼吸困難を訴えて,浅谷さんは午後外来を再診した。胸部X線ではあきらかに心嚢液の増加が疑われる。先月から心嚢液貯留は分かっていたものの,量が少ないうちは安全に穿刺ができない事情があった。
ただちに心エコーを施行する。穿刺できない量ではない。もっと大量に貯留すれば穿刺は楽であろうが,心タンポナーデによる急変だけは何としても避けたい・・・であれば,早めに対処するに越したことはない。
「浅谷さん,心臓のまわりに水が溜まっているから,きょう,このまま入院したほうがいいでしょう」
わたしは心膜穿刺およびドレナージの実施を決めた。「病棟で,管を使って水を抜く治療をしますよ」
「はい,先生にお任せします」
循環器病棟は5階にあった。
浅谷さんが個室に入室してまもなく夫と娘さんが到着する。目下の病状と心膜ドレナージについて説明,ふたりに異存はなかった。心エコーで再確認し,穿刺とドレナージの処置をとくにトラブルもなく終了した。
シリンジで吸引した心嚢液は170mlで,黄褐色,混濁なし。その一部を検体として各種検査にまわす。あとはドレーンからの自然排液にまかせた。ドレナージによって本人の呼吸はずいぶんと楽そうになった。
後日,心嚢液から腺がん細胞が検出されたと病理診断科より報告をうける。
10日にドレーンを抜去し,14日のお盆直前の土曜日,浅谷さんは元気に退院した。そのとき渡された封筒には小さな便箋が入っていた。
先生,このたびも助けていただき,
ありがとうございます。
これから先,入退院を繰り返しながら
でも,命がほしいです。
また我がままを申しますが,わたしの
最期を看取って下さい。
どうぞよろしくお願いいたします。
浅谷富子
青海先生へ