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 付きあって一年以上のあいだ,嵩子はT病院で仕事するかたわら,自宅と大学病院近辺にある私のアパートを行き来して生活していた。

 私はアパートをずっと借りたままにしていた。関連病院へ派遣されても大学病院には定期的に出向かねばならず,いずれ金沢市内の病院へ再異動になることを考えると借りっぱなしが最も効率的であった。

 どこの病院に勤務していようと,彼女はなるだけ私の予定に合わせてアパートにやって来て,掃除洗濯に買い物など・・・一切の家事をしてくれた。

 交際二年目で嵩子は,家を出てひとりで暮らしはじめる。

 彼女は両親に私のことを隠していなかったが,そのぶん制約を受けていたのだろう。もっと思いどおり自由に逢いたいと望んでいたし,適齢期になって結婚が身近な問題となってきたため,どうしても実家から離れて過ごしたかったのではないかとおもう。

 

 嵩子が気ままに暮らすようになってから,事情のゆるすかぎり週末や連休にはいろんな処へドライブに出かけた。それが彼女との一番の想い出だ。

 出かけるといっても,北陸・中部から関東・関西くらいまでが大部分で,ほかに東北へ1回,中国へ1回,それと九州へ1回遠出した。

 車はコロナクーペの新車に乗り換えた。マニュアル車で,2000ccツインカム16バルブエンジン。できればソアラを買いたいとおもったけど,価格を知ってあきらめた。

 セリカとコロナクーペは悩み抜いた末に,ボディスタイルの好みからクーペを選択した。だが,購入して数か月間はリフトバックのセリカを買えばよかったと後悔を拭いきれない。

 救いといえば嵩子がコロナを気に入ってくれたこと。未練をにじませて路上のセリカを羨望の眼差しで見ていると,彼女はいつだってこっちのほうがカッコいいと肩を持ってくれた。でも考えてみると,嵩子は私の選んだほうをいいと言うに決まっている。だから彼女はどちらでもよかったのだ。

 ひどくコロナクーペを酷使したので,2年も経たないうちにマフラーを交換しなければならなかった。走行距離は概ね1年半で6万7千キロメートルにも及んだ。同時にタイミングベルトとタイヤも交換しなければ事故は避けられないと断言され,車検を待たずに多額の出費を余儀なくされた。

 

 車の運転ではかなりの無茶をやった。理由はともあれ,ちょうど何かに当たらなければ腹の虫がおさまらないときのあの気分に似ていた。

 

 箱根から三島へ下ったとき,どのあたりか定かではないが,国道1号で一台のヤンキーまがいの車にちょっと対抗する。

 道路の彎曲する手前の直線部分で,趣味のわるい改造車に危険きわまりない追い越しを仕掛けられた。ゆずらなければどうなっていたことか。

 ふかす音は一人前でもエンジンのチューニングがイマイチ,速度はおもったほどでもない。対向車が見えているのに,その程度のマシンで他人に危害を及ぼすような運転など以てのほか・・・カーブつづきの下り坂じゃ,でかいツラしてワガモノ顔に乗りまわすんじゃないぜ! とばかりにピッタリ後ろにつき煽ってやった。平地に辿りつくまでスッポンのように・・・ブレーキをかけてきたって,おとなしくぶつけさせられたりするもんか! そのうち,逃げるように曲がり去っていったっけ。

 とにかく一般人をバカにするんじゃない,って心境だった。けれども言いわけに過ぎぬ・・・正当ではなかった,適切なんかではもっとなかった。本物のチンピラなら,こんな半端な形では終わらなかったことだろう。せめて二人のときはツッパリ運転をやめなければ・・・あとになって反省はしたのだ。

 嵩子はというと,私の不埒な振舞いを目撃して複雑な表情を浮かべていた。承服しかねるけど,ついていってみせるわ・・・一蓮托生,なんだってつきあうってことのようだった。

 

 舞鶴へいく途中,敦賀の郊外で大型トラックと意地の張り合いになる。

 交差点の手前,約50メートルのところで信号が黄に変わった。あたりまえに停車すると,後続の大型ダンプカーが赤信号を無視して私の車の右側をすり抜けていったのだ。

 俄然,頭に血がのぼる・・・なんて運転をするんだ! 断じて許すわけにはいかない! テキトーに左右前後を確認,自らもシグナルをネグレクト,あっという間にそいつを追い越してやった。

 ところがヨロコビも束の間,せっかく抜き返したというのに,すぐ先には別の赤いシグナルが見えるではないか! どうしよう?・・・しばし躊躇するも敵対心をコントロールできない。

 えぇーい!・・・祈るような気持ちで十字路を突っ切った。

 ・・・なんにも起こらない。

 よぉし,まことにラッキー! 真横から車は突進してこなかった。 で,あのダンプ野郎は?・・・オレが怯んでいるあいだに車間をやや詰めていた。この勝負,先頭を走るほうが圧倒的に不利なのだ,心理的に。

 かまわず次の赤信号も黙殺したが,しつこく追ってくる怪物もどき・・・今さら後には引けない。さらに先の信号は?

 目に飛びこんできたのはシグナルが青に移行する瞬間と,前方をさえぎるナダラカな山にトンネルの作業現場? 目を凝らせば・・・道路工事の看板らしきものとT字路の標識が立っている。

『しめた!』

 交差点に入る寸前までガマン,急ブレーキとギアチェンジを駆使して左折,アクセルを全開にすると・・・そこは,うまいぐあいに上り坂だった。ここで一挙に差をつけ,あとはどこでもいいから横に曲がるとかして逃げてしまうにかぎる。

『どうだ!』

 力んでバックミラーをのぞくと・・・? おもわず振りかえる。まさか消え失せた? 見つけたのは,サイドミラーの中だった。

 ・・・うしろ向きに走りさる大型ダンプ。

 T字路を右折していたのである。ホッとして全身の力が抜けていく・・・己れを取りもどした刹那,あわてて隣の嵩子を見やった。

 血の気が失せて・・・なにかいけないものでも見てしまったような顔つき。

「ゴメン」と,一言あやまる。

 またしても前方には十字路・・・もう渡りたくない。ぐずぐずしているうちに青から黄に変わった。やさしく車を停止させると,嵩子がつぶやいた。

「ホントに,死ぬかとおもったわ」

「ごめん・・・つい真剣になってしまった」

「でも,一人っきりのときは止めて!・・・あなたひとりで死ぬなんて,絶対にダメだからね!」

 そう言われても,性格は簡単には変えられぬ。だいいち世の中には『目には目を歯には歯を』の精神が必要なことだってあるさ・・・内心,ピントはずれの反駁を試みつつも「わかった・・・頑張ってみる」と返事した。

 直後に,ぽつりと嵩子は洩らした。

「どんなことがあっても,あなたってヒトは,納得のできないことを聞き入れようとはしないから,ときどき淋しくなる」

 はっとして彼女に目を向ける・・・深い悲しみの色を滲ませて放心したようにフロントガラスの向こうを見つめる嵩子。

「青になったわ」 注意されて車を走らせる・・・しかし,今しがたの発言がどうにも引っかかる。

「そんなとこも好きだから,しょうがないね」

 独り言のようにささやいて嵩子はようやく笑ったが,オレの胸中には例によって,ある疑念が頭をもたげていた。

『嵩子とともに過ごすことは,とどのつまりが・・・彼女を嘆き悲しませるだけなのではないか?』

 

 その3か月後,合意したことを反古にするような出来事が起きてしまう。

 名古屋で循環器学会の東海・北陸合同地方会が開かれたさい,日曜日午前の部で発表することになっていた。スライド作りで疲れが溜まっていたけれど,前日は質問に備えて珍しく夜遅くまで基礎事項を復習したのであった。

 当日,目が覚めて蒼ざめる!・・・寝坊してしまったのだ。予定の時刻まで2時間少々しかない。電車の場合,新幹線を利用しても名古屋まで実質2時間半はかかる。調べるまでもなかったが時刻表を確認・・・論外だった。あとは車以外になかった。進行が遅れることも多いから,今からでも急ごう! 即刻準備して出発したのだった。

 高速道路ではヘッドライトを常時点灯させ,あらんかぎりのスピードを出して,走行車線の車をことごとく追い抜かねばならなかった。

 速度超過のアラームは鳴りっぱなし,直線コースでは表示の最高時速180キロをかるく振りきった。

 心臓は小刻みに拍動し,頭の中で血流がドクドクと脈打ち,腰にはおそろしい圧力と鈍い痛みさえも感じる・・・そのうえ,手足は汗ばんでジンジンしびれた。

 追越し車線には絶えず邪魔するヤツが走っていたから,その都度スピードを緩めざるをえない。であるからこそ身体は持ちこたえることができた。

 このとき・・・北陸自動車道の金沢西-米原間を,じつに1時間で走破したのである!

 当時でも信じられない記録だった。運と無謀と昔の好条件が重なって生まれたものであり,車過剰の当世においてはまず不可能なことだろう。

 米原から名神自動車道に入ると,走行する車の数が多すぎて凡タイムしか出せなかった。であっても,名古屋の会場には口述予定の5分前に到着,進行は10分間遅れていたので合計15分の余裕があった。

 受付を無事に済ませ,発表はさしたる質疑もなく終了した。

 さて・・・務めを果たすと,やってのけた快走に酔いしれる。いつまでたっても興奮さめやらず,帰りの高速でもつい飛ばしてしまった。

 金沢にもどると,ますます誇りたい気持ちを抑えられない・・・さっそく嵩子に一部始終をあつく語ってやった。しかるに,浮かぬ顔で彼女は言葉をかえすのだ・・・「あのとき,無闇なことはしないって約束したのに」

 ダンプ野郎と張り合ったときのことだ・・・たしかに頑張ってみるとは答えたが,やらないとまでは言わなかった。時と場合によっては守れなくって当然じゃないか。

 憮然として私は言い返した。

「きょうは,学会があったんだ・・・仕方ないだろ。それに,おれの生き方はオレが決める。だれの指図も受けやしない」

 

 嵩子とオレ・・・ふたりの歯車が,微妙にかみ合わなくなる原因はどこにあったのだろうか。

 いろんな地域をたずね回り,楽しい時間を過ごしたドライブ旅行・・・そのような最中にも私は,必ずといっていいほど一度は機嫌を損ねたのだった。

 他人に対して私は寛大であったが,嵩子に対しては年数を重ねるごとに尊大になっていった。心のどこかに嵩子との関係は壊れてもかまわない,むしろ彼女のためにも壊れたほうがいいのだ,という思いがあった。だから気に食わないことがあると,エゴの殻に閉じこもって嵩子をあからさまに無視した。それでも嵩子は決してヤケなど起こさず,自身の至らなさを詫びつづけて恋人が心を開くのを辛抱づよく待っていた。

 そんな嵩子を見ていると,己れがそうさせてしまったくせに,だんだん不憫に思えてくる。そして,生活していればソリが合わないことも出てくるさ,と自分の都合のいいように解釈した。嵩子が好きであったし,何にもまして居心地のいい暮らしを手ばなす気にはなれなかったのだ。

 嵩子が離れていってもかまわないと本気でおもう一方で,そのじつ彼女との生活から離れられないでいる矛盾に,しだいに私は嫌気がさしてくる。

 自家撞着に悩まされることは正しく真実を掴めていない証拠であったが,自己も現実も分かっていると私は思い込んでいたから,内部では矛盾のもたらす歪みが一段と増幅し,その歪みは嵩子への攻撃となってあらわれた。

 反対に嵩子はいかなる仕打ちを受けようとも,自らに試練を課すようにひたすら耐えて困難を受けいれようとした・・・ただただ私を信じて。

 

 嵩子がひとり暮らしをはじめて半年が経ったころ,忘れ去ることのできない一件が起きてしまったが,やはり根底には矛盾から生じる歪みがあった。

 あの夜,大学病院の仕事が終わって嵩子のアパートに来ていた。食後に,いつものチラ読みをしようとして・・・ふと気づく。

「先週のフォーカスがないようだけど,どうなってる?」

 フォーカスとは,復刊のめどが立っていない休刊中の写真週刊誌のこと。大学生のとき本屋でたまたま創刊号を見つけ,その進取的なところが気に入って以来,欠かさず購入してきた。言うまでもなく,実際に雑誌を買ってくるのはいつしか彼女の役目になっていた。

「あっ,うっかりしてた・・・ごめんなさい!」と答えた嵩子を,オレはどれほど険のある目で睨みつけたことか!

 これまで欠落しないよう留意して続けてきたことが,ついに途切れてしまう無念さ! ゆるせない・・・相手が嵩子であろうとおかまいなし,ミスしたヤツを頭ごなしに怒鳴りつけた。

「創刊号からずっと買ってきたのに,いったいどうするんだ!」

「本屋に行ってくる! まだ,やってるとおもうから・・・」

 言い終わらないうちに罵声を浴びせかける。

「もう遅いよ! あした,新しいのが発売されるんだ。残ってるなんてこと,あるわけないじゃないか!」

「でも見てくる・・・」

 すぐさま彼女は出ていった。

 

 2週間前より嵩子はT病院の看護研究に打ち込んでいた。京都で発表しなくちゃいけないの,分からないとこ教えてくれる?・・・と言って,統計学的処理について助言を求められたりしたので,私は彼女が忙しいことを十二分に承知していた。

 週刊誌にしたって,前々からどこかおかしいと違和感を覚えていたのだ。なにも持たないと定めた人間が,収集するように買ったりして・・・どういう了見なんだ?

 だいたい人まかせにしておいて,文句なんぞ言えた義理ではない。近ごろの私だったら・・・転ずるチャンスだと受けとめて迷うことなく自分を捨てさり諦めたであろうに。

 

 遠くの本屋まで足をのばしているのか,嵩子は1時間をすぎても帰ってこなかった。ふつう時間がたてばいくらか冷静になれるものであろうが,とてもそのような紳士的態度ではいられない・・・あまりにも口惜しくて腹立たしくて感情を押し殺せずにいたうえ,彼女がなかなか戻らないせいでイライラが募っていく。

 疲れ果てた様子で嵩子が部屋にあらわれたとき,苛立たしさは頂点に達しようとしていた。

「ごめんなさい・・・なかったわ」 彼女は深くうなだれる。

「もういいよ」

 吐き捨てるように私はつぶやいた。首を垂れたまま黙っている嵩子。わずかの間をおいて,のっぴきならない衝動におそわれる。

「別れよう!」

 口をついて出たセリフは,いかように生まれてきたものなのか?・・・苛立ちが咄嗟に意識の中に飛び込んできて,元からある内なる歪みと合体したかのようであった。

 嵩子の躯体がびくっとした。

 一瞬のあと「ごめんなさい!」と声を震わせ,目の色をかえて私に近づき,跪いて祈るように懇願する。

「そんなこと言わないで! わたしはイヤ・・・別れたくない」

 熟慮して決めたことではないが,考えなおす気などサラサラなかった。ほかに最善の策はないのだと思えてくる。

「別れるのが,一番いいのさ」

 次善の策にしたってないことだろう・・・「それしか,ないんだよ」

「ごめんなさい! これからは,二度と忘れたりしないから・・・」涙を拭こうともせず,嵩子は必死にしがみついてくる。

「ゆるして! おねがい・・・」

 とつぜん巻き起こった嵐のような事態に,嵩子が動揺して懸命に許しを乞えば乞うほど,なおさら別離に固執してしまう己れがいた・・・私は断固,彼女を拒否せねばならない。

「どう頼まれようが,ダメなものはダメなんだ!」

「おねがいだから・・・ゆるして」

「おれは,決めたんだよ,はっきりと・・・」

 埒が明かないので,手を振りほどき,横なぐりに嵩子を突き放した。「これで終わりにしよう!」

 急いで立ち去ろうとしたが,なおも彼女はしつこく縋りついてくる。往生際のわるいヤツだ,こうなりゃ・・・腕ずくで嵩子を出入り口のところまで引き摺りまわす。

「あばよ,元気でな!」

 そう叫びながら,かよわい左腕の付け根あたりを力まかせに蹴とばした。彼女はウシロ向きに吹っとび,背中を腰板に激しく打ちつけ,その反動でうつ伏せにバッタリ倒れこんだ。やり過ぎたか?・・・即座には動けそうにない。

 イマだ! なにも考えるな。

 すばやく玄関ドアを開け,共用廊下に飛び出した。足ばやに隣の駐車場に直行,車に乗り込んでエンジンをかける。良心の呵責なんて,心残りもろとも潰しちまえばいいんだ!・・・アクセルを踏み込んで,ヘッドライトをつけた刹那だった。

 フロントガラスの向こう側に,立ちはだかるように浮かび上がった人影。

 泡を喰ってペダルを踏みかえる・・・そして,眼前の思いもよらない光景に茫然としてしまう。

 ながい黒髪を振り乱し,通センボのつもりなんだろう,両手を左右に広げてヨロヨロと歩いてくる嵩子・・・マボロシかと目を疑ったくらい。よく見てみると,裸足のまんま小刻みに全身を震わせている。しかもクルマの前で仁王立ちにならんとして身体を支えるのが精一杯,大きく揺れうごき,波打っているではないか・・・。

『よくぞ,ここまで歩いてきたものだ』

 おどろいている間にも,行かせまいと五体をうねらせる・・・やっとのことで彼女が正面を見据えたとたん,金縛りにあったみたいに私は身が竦んで動けなくなってしまった。

 なんと,嵩子の表情はまさしく阿修羅像のそれなのだ!

 ヘッドライトに照らし出された空間は,あたかも異次元の世界があらわれたごとくに暗闇から乖離し,その真ん中でワンピースの天衣をまとった嵩子が今まさに悶え苦しんでいる・・・そもそも彼女をそこまで追い込んだのは私なのであって,つい先ほどまで逃れようとしていたにもかかわらず,只今はそのことすら忘れて阿修羅そっくりの嵩子に全魂を奪われている・・・なんといっても死に物狂いの極致ともいうべき,言葉では到底表現することのできないその顔貌にすっかり魅せられてしまった。苦しんでいても,いや苦しんでいるからこそ,よりいっそう神々しい。極限に至った形相のまえでは,ちっぽけな分別なんか粉々に飛び散るよりほかない・・・自我なんぞ遠く及ばない崇高な無分別のオーラが放たれているように思われた。その大いなる力によって私ごときは,みごと木っ端微塵に粉砕されてしまったのだ。

 心の牙城が跡形もなく無くなったとき,風が吹きぬけて我れにかえった。もはや別離へのこだわりはなかった。

 やおら車から降りて,阿修羅の人面とじかに向きあう・・・絶望の淵に追いやられても,なおも一途なオモイを捧げてやまない懊悩が色濃く滲んでいた。そんな彼女の瞳の奥には,どのように私が映っているのであろう?

 恋人が目の前にあらわれて,そこに普段どおりの姿カタチを見いだしても,嵩子は容易に信じようとはしない・・・計りしれないショックを与えてしまったに違いなかった。

『どこにも行きはしないよ』

 祈るように笑いかけると,ほどなく精根尽き果てたように嵩子は,差し出した手のなかに崩れおちて泣きじゃくった。

 宿っていたアシュラは消えた。彼女の顔には安堵の色とともに涙がとめどなく流れていた。

 

 

 

 歪みの力を適当に外部に逃がしつつ,しばしば私は,心ならずも一気に噴出させて嵩子と過ごした。一緒に暮らしていても,夫婦関係になろうなどと考えたことは全くといえるほど私にはなかったが・・・しかし,彼女はどうであったのだろうか?

 すくなくとも婚姻について,たがいの気持ちをぶつけあったことは皆無であるといいきれる。

 初デートのことを・・・わけても,交わしあった大切な言の葉たちを,一度たりとも私は忘却のかなたに置き去りにしたことがない。おそらく嵩子も同じであるはず。

 そうであるなら,あのときの会話はまるで取り決めでもしたかのように,彼女を縛ってしまうのではないか・・・私がそんなふうに考えるのもあながち誤りではあるまい。

 結婚できなくてもいいと自ら了承した事実を,嵩子は日々の暮らしのなかでも忠実に受けとめようとしていた。それは一途に待ち続けていることを意味したが,こと嵩子に関しては,ほとんど例外なく私は意識的に無頓着であり続けたのだった。