4月から国立金沢病院の内科に2年目研修医として派遣された。期間はT病院と同様,六か月の予定であった。
異動となった週の土曜日・・・その日は,私の29歳の誕生日。
金曜日の準夜勤務がひけてから,嵩子は夜中に車を飛ばして駈けつけてくれた。私が帰ったのは0時すぎ,彼女が着いたのは午前2時ちょっと前。風呂から上がってさほど待たないうちにチャイムが鳴った。
ドアを開けたとたん,嵩子が勢いよく抱きついてくる。
「せんせい,29さい,おめでとう!」
寝静まった深夜,小さくても張りのある声がよく響いた。1DKの安アパートでは,きっと上の階にまで美声が届いていることだろう。
「ありがとう。でも,夜更けも過ぎたみたい・・・しっ!」と人差し指を唇にあてた。
「あっ,ごめんなさい」
首をすくめ,彼女も人差し指を唇にあてて声をひそめる。「プレゼント持ってきたの・・・なにか,わかる?」
ひらめき絡みのことはからっきしダメ・・・ヒントなしでは難しすぎるが,分からないとは言いたくない。いったい何だろう?
と,脳裏をよぎる・・・この世で,唯一無二のもの? そうだ,彼女にはそういったものを好みそうな雰囲気がある。
「タカコの愛かな?」
「ちかいけど・・・正解じゃないわ。わたし全部,ココロもカラダも,なにもかも先生にプレゼントしたいの」
想像されるエロスが変に男心を刺激する。ホントにもらってしまうぜ,といった気持ちになってくる。
「わかった」と答えて,部屋に連れていこうと嵩子の手を引いた。そこには布団が前もって敷いてあった。
「待って,シャワーさせて」
寝床のなかで15分ほど待つと,バスタオル一枚をボディに巻きつけて彼女は部屋に入ってくる・・・「おまたせ」と言って,脚の奥のほうまで見えそうな格好で天井の灯りを消してから布団の中にもぐりこんできた。
彼女は気がつく。
「パジャマは着ないの?」
「大学生になってから着なくなった」
じきに勘違いと気づいたとみえる。
「いつも,はだかで寝るの?」
「そうじゃない。下着を着ているか,裸のままか,どちらかだけど,今夜はたまたま支度しておいたのさ」
「へ~,なんの支度?」 わざとらしく嵩子が訊いた。
「これさ」
もう言葉は要らない。激しく抱き合って,交わって,1時間後には眠りに落ちていった。
まだ週休二日制ではなかった。土曜日も半日の勤務があり,仕事が終わったのは午後4時を過ぎていた。それでも平日に比べれば,食事に出かけるには十分だった。
私のいない日中,キッチンといいトイレといい,嵩子は隅々まで掃除をしてくれた。洗濯物も干してあった。買い物にも行ったみたいで,ティッシュやトイレットペーパー,冷蔵庫にはビールも買い足してあった。
午後6時,いっしょにアパートを出て片町へ向かう。
その日の食材をじかに見て注文,カウンターのコンロで客自らが焼き上げるという,最近ではめったに見かけなくなった?スタイルの居酒屋に入り,夕食と酒を存分に楽しんだ。週末のため少なからず待たされたが,彼女がいたので無聊にもなんなく耐えることができた。
午後9時ごろ,若者がつどう人気のショットバーへ。
カウンターであらためて乾杯したけれど,まわりの団体客がうるさいこともあって30分足らずで会計を済ませた。
そのあと,大学を卒業して金沢に越してきてから時おり顔を出すようになった店・・・行こうか行くまいか迷っていたスナックバーへ。
「どうしたの? アオちゃん」
さっそくママに冷やかされる。独りではなかったうえ,同伴者が女性であったから。
「どうもしないさ」
まんざらイヤな心持ちでもない。要するに,行きつけの酒場へ嵩子と連れだって来たかったということか・・・偏屈者のイメージに対してそうではない見栄を張りたかったということなのか。
「青ちゃん,おはよう」と,朝ちゃんがおしぼりを持ってくる。
朝ちゃんは7年半後に自身でバーを経営することになるが,このときは未だ十代,雇われ女の子の一人だった。
前年の冬・・・さかのぼること1年3か月前,朝ちゃんはこのバーで働きだした。京都市内の出身で,仔細があって金沢に来たとのこと。かなりあとになって知ったのであるが・・・16歳のときに子供を産んで結婚,その後は相手の男とうまくいかず,別れてから親戚を頼ってこちらへ来たそうだ。
「彼女は,なに飲む?」 朝ちゃんが嵩子に訊いた。
「先生と同じでいいです」
「せんせい? 青ちゃん,先生なの? なんの先生?」
さすがの朝ちゃんもびっくりしていた。私は自分のことを語ったことがなかったから。
「こう見えても医者ですよ」
嵩子がピッタリの紹介をしてくれる。
「ホントに?・・・ホントに青ちゃんは医者なんだ?」
「あぁ,そうさ」
このさい得意げに言ってやる。さらに,何科?と訊ねられて・・・内科。
「ひどいよね・・・今までさんざん訊いても教えてくれなかったんだから」
朝ちゃんは少々むくれている。
「答える必要は,なかっただろ」
この言いぐさが,また朝ちゃんの気にさわる。
「そんな問題やないやろ。だいたい青ちゃんはね,ここでは,ダンマリの変人で有名なんよ!」と,朝ちゃんは関西弁になって興奮気味に言い捨てた。「ところで,彼女・・・名前は?」
「タカコです」
「じゃ,タカちゃんやな。タカちゃんはいくつ?」
「22歳」
「わたしは18。ねえ,聞いて。はじめて青ちゃんに付こうとしたとき,なんてママに教えられたとおもう?・・・あのお客さんは,喋りたくない人だから気をつけて,そう言われたんよ! でもね,よけいに燃えたわ。ゼッタイ,こいつを喋らしてやるって」
そのようなやりとりがあったとは・・・初耳だった。なるほど,オレはこの店で・・・社会の群れつどう連中がむやみに腹立たしくて,やたらと独りになりたくなって,むりにも己れを見せつけるように飲んでいた気がする。当然,だれとも会話したくなかった。
「おれは,ふつうに喋っただろ,アサちゃんと」
正直で物怖じせず,何者にも媚びない朝ちゃんの性格は天性のものだろう。地位や年齢なんか関係ないって言わんばかり・・・そうした稀にみる気性の持ち主から話しかけられて,放っておくことなどできやしない。
「そりゃそうや,青ちゃんはわたしのこと,気に入ってるはずやから・・・もち,タカちゃんの次にね!」
嵩子の目を見つめ,黙って頷いたオレだった。
楽しい時間はみるみるうちに過ぎていく。嵩子は朝,通常どおりに出勤しなければならない。日付けを跨いだあたりから気になりだした。
午前1時をまわったころ,引き止められるのを振り切ってグッドバイする。 帰ってくるなり,昼間のために眠ろうと布団を敷いて横になった。
左腕で彼女を抱きかかえたまま,心地よく天井を眺めていると,耳もとで優しくささやく声。
「残念だけど・・・誕生日,もう終わったね」
久しぶりに心底,終わるのが惜しいと感じる夜であった。
「終わってしまったな」
「すっごく楽しかったわ! せんせい,ありがとう」
「逆だろ・・・おれのほうこそ,祝ってくれてありがとう」
それにしても嵩子は,マジでオレを慕っているらしいと分かったが,なにゆえオレなんだろう? ここまでの関係になりながらも,ふと思った。
「おれみたいな,アホな人間を見ていたいなんて,おまえも変わってるな」
「アホな男に見ほれてしまうわたしも,たぶんアホなんだとおもう」
「そのとおりかも」
相槌をうったら,嵩子はアタマをもたげて,やけにまじめな顔。
「アホ女が付き纏っていたら,先生は,ものすごいアホにならないかな?」
ヘンテコな質問だ・・・そんなことあるわけがない。
「おれはドアホだから,これ以上,アホになることはないよ」
「なら,安心」
声がはじけて腕枕に重みがもどった。「わたしね,こうやって先生といると,本当の自分になれる気がするの・・・あるがままのワタシ自身にね。ここへ来たときに言ったこと,覚えてる?」
「誕生日のプレゼント?」
「そう・・・わたし,先生に出逢って,はじめて自分のことがわかった気がするんだ。これまでだって,好きになった人はいるよ・・・でもね,わたしのすべてを捧げたい,って気持ちになったことは一度もなかった。いったいぜんたい自分がどういう人間で,どう生きたいのか,そういうことも全然わからなかった。なのに,先生とこうしていると,なんの抵抗もなく一生をささげて好きになりたいって思えてしまう。そしてね・・・これが,自然なワタシなんだって,ようやく気づいたの」
・・・嵩子の言っていることは理解できるけど,どうしてオレなんだろう? 恋慕うことにナゼはないと心得ているけど・・・それでもなぜ,愛のカケラもないオレなんだろう?
胸の内を打ち明けてくれたとき,ついさっきも何となくおぼえた些細な疑問が蟠りとなって心にのこった。しかし嵩子のことが嫌いではなかったから,ふかく突き詰めて考えることはなかった。
近ごろ,あのときの疑念が思い出されて仕方がない。
わたしは嵩子が好きではあったが,心から・・・本心から愛しているわけではなかった。にもかかわらず,そうであるかのように,彼女をありのままに受けいれることができた。静かなれども強烈なる個性を,重荷に感じることなく,まともに受けとめることができた。
まさに,それこそが所以ではなかったか?
・・・すなわち嵩子は,そういう私の本質を愛して已まなかったのではないかと思うのだ。
意識されることのない,理性とはまったく無縁の,単なる感性ともいいがたい,愛の源とでもいうべきスピリチュアルな領域で・・・当の本人でさえ把握しかねていた私そのものを,嵩子はものの見事に捉えきっていた。
のみならず・・・幸か不幸かめぐり逢った運命を信じ,いかに報われぬ境涯と背中合わせであろうとも,愛に命をささげるという永遠の誓いを立ててしまったのだ。
だれも愛せないし愛さないだけでなく,わたしはナニも持てないし持たないで生きようとしていた。もし・・・わたしが自らなにかを抱いて生きるような人間であれば,彼女はおよそ違った人生を歩んでいたのではないか,今の私にはそう思われてならない。
その夜も欲情にかられて交わるうちに蟠りはいつの間にか消え去っていく。
休み前や深夜勤務明けの日に,泊りがけで嵩子は来るようになった。
4月の下旬のこと。
夜おそく嵩子と夕食を食べようとした矢先に,それまで時々会っていた例のママから電話があった。もっと早い時期にこちらから連絡して片をつけるつもりだったのに,忙しさにかまけてのびのびになっていたのだった。
「わるいけど・・・人に会ってくる」 彼女にそう伝えた。
「女の人?」
「うん・・・タカコと出逢うまえ,たまに会っていた」
善し悪しの判断からではなかった。思いやりにも程遠いことだった。
「ゴメンな」
謝ってはいても,つまるところが己がためと言わざるをえない・・・ウソをつくことで自己を否定したくなかった。そんな私に対する彼女の反応は意外なものであった。
「わかったわ・・・」
と,澄んだ眼差しを向ける。「その人も先生のことが好きなんだろうし,わたしが先生といるときは,その人が我慢しているんだから・・・わたしも我慢しなきゃね。ちゃんと待ってるから,会ってきて」
そうではないんだ,嵩子が思っているような状況じゃないんだ・・・と告げて,なるべくなら誤解を招かない範囲で釈明したかったが,どうしても触れることができなかった。
弁解したくない?・・・いや,傷つきたくなかったのだ。
「これからは会わないつもりだ・・・」
かろうじて出てきた言いぶんに彼女はうなずく。 二時間前後で帰るから,と言い残して私は出かけた。
ママは・・・私の存在が明らかになっては困る立場にあった。短大生と高校生の姉妹の母親であり,夫とともに家族4人で暮らしていた。
飲み屋の裏手には見すぼらしいボロ小屋のような空き家があって,その前あたりの暗がりに車を停めると,ママはかつてのようにサッサとドアを開けて助手席に跳び乗った。
「どう,元気だった?」
「まあまあだよ」と答えてアクセルを踏む。
「いい医者してる?」
「さあ・・・どうかな」
「わたしは,このごろ調子わるくって・・・ときどきメマイとかあったりするの。更年期にしては早すぎない?」
「ありえるだろ。ストレスが多そうだし・・・」
「でも,アレは順調にきてるわよ」
「そんな場合もあるのさ」
タイミングを見計らってなんかいられない,単刀直入に切り出した。
「じつは・・・いま,親しく付きあってるヒトがいるから・・・ママと会うのは,きょうで最後にしたい」
それなりに機先を制したものの,予想にたがわず重苦しい沈鬱な空気が立ちこめる。文句の一つでも返ってきたほうがましであったろう・・・まるで応答がなくて別れの口上どころではなくなった。
ずいぶんと長く感じられた無言の静けさは,私に対する抗議と非難以外の何ものでもない。どれほど責められていたのか? せいぜい5分くらい? 10分くらい? それとも15分か20分くらい? ・・・どうにも判然としない。思い出せるのは,不意にママが運転中の私に向かって,すさまじい勢いで叩きつけてきたことだ。
両方の拳で左肩めがけて力いっぱい交互になんどもなんども・・・休みなく叩かれたせいでハンドルが右方向に切れてしまい,あやうく対向車線へはみ出しそうになった。咄嗟にブレーキを踏んで急停止!
前のめりになった私はハンドルに,シートベルトをしていなかったママは半身の恰好でフロントガラスに半端なくぶつかった。
肝を冷やしたというのに,ママは何くわぬ顔で座席に坐りなおし,キッと前を見据える・・・が,しばらくして気が緩んだようにつぶやいた。
「いつかこうなるとはわかっていたけど・・・現実になってみると,嫉妬してどうしようもないものね」
「・・・」
言葉が見つからなかった。溜め息を吐いたのち,ママはつづける。
「わたしがごねたって,あなたが変わるわけでもないし,どうしたって好きにするんだから・・・」
「ママもそのほうがいいはずだ」
「わかってる」
分別のある返答を耳にして私は胸を撫でおろし,仕切りなおそうとアクセルを踏みこんだ。
大学病院で研修に励んでいた夏の日曜日,職務から解放されて昼頃まで寝過ごしたカッタルイ午後,ママが息を切らしてアパートに駈け込んできたことがあった。
「静かにして! 主人がそこまで来てるから」
・・・叫んだ本人は,抑えようとしながらも興奮してよく通る声を出していたのだが。
玄関ドアにチェーンロックをかけ,顔を見合わせたままキッチンの戸口付近で縮こまって息を殺した。語らず動かず,屋外の気配に全神経を集中させて我が家に潜むこと10分そこら・・・しびれを切らしたママが聞き取りにくいほどの小声で漏らした。
「もう大丈夫かしら?」
「どういうこと?」
さっぱり状況が見えず,とても安全だとは思えない・・・声をひそめて訊きかえした。即座にママは潜伏していることなど忘れたように喋りだす。
「きのうの夜,主人に・・・店の客と付きあっているだろ,どんなヤツか素直に白状してみろ,って問い詰められたわ。もちろん・・・お客さんと付きあうなんて考えたこともないわ,いい加減なこと言わないでよって,あくまで白を切ったけどね」
「ちょい待った!・・・ここじゃ,マズイよ」
六畳間に移動,ウーロン茶を一杯ずつ飲んで多少は落ち着いた。エアコンをつけ,隣家の庭に接する窓をそっと閉め終えると,もはやママは黙ってはいられない。
「さっき,主人が車でどこかへ行っちゃったみたいで・・・早くあなたに知らせておこうとおもってバイクで出てきたの。大通りを曲がったところでなんとなく振り向いたら,主人の車が後ろのほうに見えてビックリよ。バレたら張り倒されて一巻の終わりでしょ・・・追いかけてこれないように小路をあちこち走り回ってきたってわけ」
「原付きは?」
小路に面した駐輪場に停めていたなら・・・私はぞっとして身震いした。
「きっと待ち伏せされたんだわ・・・なに?」
「バイクはどこ?」
「心配しないで,ドアの前まで持ってきたわよ」
アパートは道路に対して縦型に配置されており,私の借りていた部屋は一番奥まったところ,そのうえ入り口は内側に引っ込んでいて表からは見えにくい構造になっていた。
「なら,嗅ぎつけるのは至難の業かな・・・」
どのくらいママは隠れていたのだろう? さいわい,その場は大事に至らずに済んだけれど,家にかえると大変な痴話げんかに発展したようだ。
以後,一か月のあいだ,わざとママはこの周辺には近寄らなかった。お互いこんな尻切れとんぼで関係を終わらせたくはない・・・思惑どおりホトボリが冷めてくると,夫の隙をみてママは慎重に顔を見せるようになった。
もっともママの与り知らないところで流れがガラリと変わってしまう。
秋の気配が感じられるころ,私がT病院に出張することになったのだ。その結果,会う回数はめっきりと減り,危機を孕んだ夫婦仲も一応は平穏に向かったはずである。
そのような事情があって,双方とも,そろそろ付きあいをやめる潮時を探り合っていたと言ってもいいだろう。
「なにしてるヒト?」
「ナース・・・」
「年は?」
「22歳・・・」
答えた次の瞬間,左胸を思いっきり叩きつけられる,ただ一発だけ・・・そのあと力なく肩を落としてママはつぶやいた。
「かなわないわね・・・」
なにひとつ言えなかった。ママにしたって,あとは無言だった。
長々しい沈黙はシンケイを研ぎ澄ませる・・・相当にスピードを出して走らせても気持ちを散らすことができない。うっかり卯辰山の道に入ってしまい,カーブを切るたびにカラダが大きく揺れうごく。それでもママは,かたくなに目線を前方に向けたきり,私のほうを見ようともしなかった。
ママが重い口をひらいたのは,待ち合わせの場所に舞いもどったとき。
「あなたとの想い出は,わたしの一生の宝物・・・元気でいてよね」
宝物云々のハナシは以前から聞かされていた。私が本気ではないことをママはとっくに見定めていたから,いつかは来るであろう別れの日をつねづね意識していたに違いない。それが出し抜けにおとずれたのだ。にわかに戸惑いを隠せないのは無理もないこと。
しかし,ついにママは覚悟を決めたようだ。
「ありがとう・・・ママも頑張れよ」
そう伝えるやいなや,ママはいきなり私の胸に抱きついて・・・顔を埋め,じっとしている。
・・・あのミジメな浪人時代,無職男を陰で支えてくれたのは誰あろう,ママだった。手作り弁当に,ストレス抑制に,男のガス抜きに・・・瞼を閉じると,時が立ち止まる。
ママの店へ通った日のことが思い浮かんだ。
とある夜・・・気まぐれに,街はずれの赤提灯兼メシ屋といった雰囲気の飲み屋に入った。
L型のカウンターに,右手には長めの食卓テーブルが二組。
しずかにカウンターの端っこで酒を嗜んでいると,常連客と騒いでいたママが思いがけず私の前にやってきて,なにか歌って・・・と言う。私は,ママが歌ったら・・・そう答えた。客とのやりとりが嫌でも耳に入っていたから,おそらくカラオケが苦手なんだろうと思ったのだ。
ほんのしばらくママが考えているあいだに視線を交わす・・・円熟した色合いの目の玉には反抗的な輝きを残しているような? 引き下がるだろうと安心しきって相手を観察していたら,見ず知らずの男になにか感じるものがあったのか,ママはニコリとほほえむや手際よく準備をととのえて,あっさり馴染みのない演歌を熱唱してしまったではないか!
ところどころ音程が外れてお世辞にも上手とはいえなかったが,心を込めて一生懸命に声を出していたのは間違いのないこと。約束を破るわけにもいかない,久々に『酒と泪と男と女』を歌った。するとママはえらく喜んでカウンターの片隅から動こうとはしなかった。
3度目に店をおとずれたとき,他の常連客が早ばやと帰ってしまい,私ひとりになった。ママがなぜか暖簾を下ろし,閉めるから一緒に飲みにいこうと誘われる・・・軽度の知的障害者らしき女性が働いていたが,その娘も含めてみんなで片町に行こうというのだ。ママの笑顔に負けて誘いに乗ることにした。話がまとまると,ママは電話をかけて夫にこう説明した・・・お客さんと飲みに出かけるから迎えは要らないわ。
夜更けまで片町で適度に発散したあと,途中で手伝いの娘をタクシーから降ろし,ママは私のアパートで一休みしてから帰っていった。
それからだったなぁ,ママが出入りするようになったのは・・・
・・・思い出し笑いをするうちに,胸のうえで熟女の息吹きがよみがえり,ふたたび時が動きはじめる。
瞼を開けると,ママの顔が鼻先にあった。どちらからともなく近づいて唇と唇がそっと触れあう。その柔らかさを味わうが早いか,ママはためらうことなく突き放すように私から離れたのだ。
疾風のごとく・・・ママは車から降りて,懐かしい飲み屋のほうの暗闇の中に吸い込まれるように消えていった。
数か月が経って店舗の前を通り過ぎると,看板には見覚えのない文字が並んでいたのだった。
国立病院でも研修医として学ぶことが多く,6か月の期間はまたたく間に過ぎていった。気がつけば9月になり,いわゆる専門分野を定めなければならない。2年目の医局員は全員が教授との面接をうけ,最終的に人数の調整が行われて所属する研究室が決められていった。
向き合いたいのは生死の分かれ目・・・私は希望どおり,循環器グループの研究室に入ることになった。
10月より医局にもどって金沢大学付属病院に勤務したが,今回からは循環器を専門とする新米医師として働いた。
こののち十年余りにわたって,循環器病担当の研究室に所属しながら医局人事に従って異動を繰りかえし,大学病院と幾つかの関連病院で循環器内科医として勤務したのである。