(5)
33歳のとき,予定外の医局人事があり,東京都内のS病院へ出張しなければならなくなった。
いくつかの事由が重なってのこと・・・直接には同期の循環器医師が二人とも拒否したので,意思を示していない私に白羽の矢が立ったのだという。志願こそしなかったが一度は東京で暮らしてみたいと思っていた。それゆえ私にはさほど苦ではなかったものの,当然ながら嵩子との半同棲生活は一旦中断を余儀なくされてしまう。
ふと怪しむ・・・あのときの私は,限られた期間とはいえ,金沢から遠ざかることをなんと捉えていたのであろうか?
東京行きを自ら希望しなかったのは嵩子がいたから・・・それは疑いようもない事実であった。しかし,派遣の決定にさいして異議を唱えなかったのは,別の意味で彼女を意識していたからではなかったか?
内なる歪みの原因を見極められずにいた私は,強制的に引き離されるような任務を与えられて仕方がないことだと彼女に釈明しつつも,心の奥底ではむしろ歓迎していたのではなかったのか?
幾度となく自身に問いただす・・・正直いって,そのたびに心苦しい溜め息を漏らさざるをえないのだ。
こんかいは近隣地域への異動ではなかったため,機会を逸せずに借り続けていたアパートを解約することにした。明くる年には金沢へ戻ってくるにせよ,もう手狭な1DKで生活する気がしなくなったのである。
慣れ親しんだ住居をついに引き払うことになり,9月末の一週間はロクすっぽ眠りにつく暇さえなかった。おそくに帰ってきては引越しの支度にあけくれていた。とはいっても私は自分のものを整理し処分するだけであって,大部分の荷造りは生活用品などもふくめて嵩子がやってくれたのだが。
引越し前日の9月末日土曜日,準備完了の打ち上げを兼ねてアパート最後の日を締めくくろうと,歩いて数分の小さな焼肉屋に出かけた。
老夫婦が営むその店は,古臭いのみならず設備も不十分で,近くの住人でなければ食べに来ないようなところではあったが,こぢんまりとした素朴な感じがとても気に入っていた。とくに風呂あがりにやって来て,カウンターで喉の渇きを癒やしながら,焼けたばかりのタン塩を食べるのが嵩子も私も大好きだった。そうしたこともあって,住居と切っても切れない関係にある行きつけの店で食事をすることにしたのだ。
その晩もふだんと変わらない・・・お客が肉を焼いていれば,横壁の換気扇がどんなに回っていても店内には煙が充満してしまう。これがなければ猶のこといいのに・・・入るなり無言で顔を見合わせた。
まずは,ビールで乾杯!
「タカコと出会って5年か・・・いろいろありがとう」
おのずと感謝の気持ちが出てくるけれど,これから先どのように嵩子と関わって生きていくのか,それが今ひとつ見えてこない・・・一方で,彼女がいようといまいと常に自己はここにあって,己れしだいでかならずや生を尽くせるはずだと思ってしまう。
では,嵩子と共にいる理由はいったい何なのだろう?
言うまでもない,彼女が願っているから!・・・だとしても,私にも要因がなければ続けることは難しいであろう。そういったことを考えていた。
「わたしのほうこそお礼を言わせて・・・アリガト。あなたの世話ができて,なによりうれしかったわ」
笑みを浮かべたのち,嵩子は不意に顔を曇らせる。「でもあした,あなたが行ってしまったら,わたしはどうしよう・・・」
「たった一年の辛抱さ。来年には戻ってくるんだから」
「あなたは,東京が楽しみだろうけど,わたしはやっぱり淋しい・・・」
「遊びに来ればいいだろ」
「そうだけど・・・」
言葉に詰まり,彼女は牛バラを網にのせた。すぐに肉の焼ける音がして煙がすごい勢いで出てくる。あわてて彼女はコンロの火を弱め,思い直したようにつぶやいた。
「ごめんなさい,いけないね,わたし・・・ちゃんと待ってるから,むこうで頑張ってきて」
彼女と共にいる要因がないわけではなかった。この現実に対して私は,何一つとして求めたくはない。むろん相手が嵩子であっても同じこと。彼女がそれを望んでいるのなら,傍らに居たってかまわない。どこまでも嵩子にコダワらないで生きるだけのことではないか・・・そして彼女と暮らすことが,とりもなおさず実践の場であると思っていた。
ところが・・・一緒に居ながら,居なくてもいいように生きていくとは,とどのつまりはどういったことになるのか? またナニをもたらすのか?
それを洞察することは考えているほど容易ではなく,自己を追求するために彼女との生活に固執している面があった。
されど,行き詰っていた。意に反して内には歪みが生じ,たびたび私を狂わせる・・・果たしてこのままでよいものであろうか?
嵩子が焼けた牛バラを網の端においた。
「これ食べて」と彼女。そのあと「タン塩,焼く?」って訊く。
「いいね!」と私。
タンを網にのせつつ「ちょっと訊いてもいい?」って,ふたたび彼女。
「あぁ,いいよ」
「あなたは,なんのために生きているの?」
「何のため・・・?」
なにか志すものがあるならば,成り行きにまかせて過ごしたりはしないさ。ずっと見ていりゃあ,分かりそうなもんじゃないか・・・と漏らすかわりに質問を彼女にもどす。
「タカコはどうなんだ?」
「もちろん,あなたに尽くすためよ!」
それこそ分かって当たり前のような返答であったが,彼女自身の口から言われなければ,そう簡単には信じることはないだろう・・・コップのビールをぐいっと飲み干して語りはじめる。
「おれには・・・なにも無いんだ。なにも要らないし,なにも欲しくない。こんな人間には,生きる目的だってありゃしないのさ。強いて言えば・・・そいつが,おれの目指しているところかな」
「ナニもないのが,めざすとこ?」 彼女は首を傾げる。
「うまく言えないけど,目的とか目標とかを持ちたくないんだ。そんな生き様のほうが性に合っているし,そのようにしか生きられないから」
「目的をもたないで生きるってこと?」
依然すっきりしない表情をみせる嵩子・・・予想どおりの反応だ。戸惑うことでもない。この種の問いかけに対し,これまでまともに向き合ってこなかったのは妥当なことであって,彼女の納得を妨げている背景なんぞに私は思いを致そうとはしなかった。
「この一瞬に,イノチを削るがごとく,オノレのすべてをぶつけて生きていきたいんだ」
やけにもったいぶった言いまわしが鼻につく・・・もっとシンプルな渇望ではなかったか? 「要するに,チカラのかぎりを尽くしたいってことさ」
「まあまあ,わかっているつもりだけど・・・」
彼女の願ってやまないもの,それが私には見えていなかった。痺れをきらしたのだろう,「ねぇ・・・」って嵩子はのぞきこむようにして言った。
「わたしは,あなたの邪魔をしていないわよね?」
「あぁ,してないさ。おれの生き方は変わらないよ。けど,東京行きが決まってから,しばらく離れてみるのもいいかなって思えてきて・・・このさい,いろんなことを一人になって考えなおしてみたいんだ」
焼きすぎて固くなったタンを彼女は箸でつまんでじっと見つめ,半ば独白するようにささやいた。
「わたしは必要ないみたい・・・」
嵩子にとってオレはきっと,暖簾に腕押し・・・といった存在だったにちがいない。なにしろ好きだって告げることはあっても,そばに居てほしいと求めたことは一度だってなかったのだから。
「そうじゃないさ・・・人間,ひとりでは生きられないよ。とにかく,一年たったら戻ってくるから,待っていてくれ」
「言われなくても,待ってるわ」
ふたりともタンをレモン汁につけて口に入れ,不安もろとも噛み砕くようにして食べていた。
いずれにしても嵩子と私は,仲睦まじく暮らすという未来を確信できずに将来に対する懸念を別々の形で抱いていたが,それぞれが信ずることによって抑えこんでいたのではないかと思われる。
「あしたから東京か・・・心配だな」
「ウソばっかり,ホントは待ち遠しいんでしょ」
シメは湿っぽくならないで行く先につなげたい・・・店をでる直前,残ったビールを注ぎあい,ひとつの節目としてグラスを合わせたのだった。
翌日曜日,10月になった日の早朝。
依頼してあった赤帽が到着し,いよいよ引越し作業の開始となる。運送屋の人と協力して荷物を慌ただしく積みこみ,午前7時になる前にアパート正面から赤帽が出発するのを見届けた。
軽トラを送りだすさい,うら寂しさをおぼえて目頭が熱くなりかけたけれども,車体が視界から消え去ったとたん,感傷的な気分などまたたく間に吹き飛んでしまった。余裕といえるようなものが時間的にも精神的にもまったくなかったのである。
ゴミを始末し,それなりに掃除をして,やっと離ればなれになる前の束の間のひとときを惜しみあう・・・自販機の缶コーヒーを,ガランとしたダイニングで飲み交わしながら,言葉を発することもできずに無情にも時間は過ぎていく・・・とちゅうで『想い出のつまった愛車をよろしくな』って黙ったまま,おもむろにコロナクーペのキーを彼女へ差しだした。
やがて,その時がおとずれる。
帰宅しようとする嵩子を小路のところで見送った。エールを込め,右手を小っちゃくあげて・・・「タカコ,また東京で!」
「あなたも,気をつけて!」
運転席から思いのたけを込め,アシュラと見紛うばかりに彼女は両手を振ってこたえてくれる。
その・・・いかにも切なさを必死にこらえる嵩子のスガタは,濃いダークブルーの車体と渾然一体となり,あたかも憂いのこもった美しいレトロな映像を見ているようだった。 いまだにブルー系のクーペを見かけると,あのおりの彼女の面差しが忽然とあらわれて頭から離れないときがある。
午前9時ごろ,不動産会社の担当者に会った。手続きの確認と最終チェックを行ない,鍵を返却して引越しと引渡しは無事に完了する。
それから大学病院へ行ってやり残した仕事をあたふたと済ませ,その足で金沢駅に向かい,東京方面行きの特急にギリギリで跳び乗った。
息をととのえる間もなく電車は走りだす。デッキからホームを覗きこむと,時計はすでに午後1時を回っていた。
夕暮れどき,上野駅に着いた。東北・上越新幹線の東京駅乗り入れは,その時分は建設中の段階で実現していなかったのである。
上野から山手線と地下鉄を乗り継いで赤坂まで,赤坂からは大学の先輩が描いた簡単な地図をたよりに歩きまわったが,どうやらイラストに不備があるらしく,どうにもこうにも目印の地点に行きつけないのだ。やむなく途中にあった魚屋で道順を教えてもらい,ようやく病院宿舎に辿りついた。
向かって右どなりは・・・ナース寮。そこの管理人のおばさんから鍵を受け取り,この辺りでは滅多に見かけないくらい老朽化したアパートの3階に住むことになった。
とうにワクワク感は失せていた。玄関ドアを開ければ,朝送りだした荷物が山積みにされている。そこから布団を取り出して寝るための用意だけはしておいた。 さて,散歩がてら病院を確かめて晩飯でも食べてこようか・・・そのような段取りで街へ出かける。
抜け道が分からず,来た道路を逆もどりし,赤坂通りにでて乃木坂へ。
大きくカーブする坂を登っていくと・・・S病院と記された控えめの看板が目に入った。大通りのあちら側,一見なんの変哲もない建物は,想像していたよりも規模が小さい・・・循環器のみの専門病院であれば,こんなものか。ましてや場所柄からは無理からぬこと。
シャッターの傍には銘板が埋め込まれており,ここで間違いなかった。左横のほうには時間外入口の表示・・・その前で立ち止まってみても自動ドアの奥は判然としない。
あとは外苑東通りをぶらついた。
まぢかに消化器系の民間病院があって多少のおどろき・・・あまりに出来すぎていやしないか? まあ,共存共栄しているのかもしれない。
ほどなく眼前にはテレビなんかで見ていた防衛庁があらわれた。自衛隊員であろうか,守衛が情味のない顔つきで行き交う人々に睨みを利かせている。そのむかし通った高校の筋向かいは陸上自衛隊の駐屯地だった・・・あの門のうしろで見張っていた隊員たちの雰囲気にそっくり。
人込みに揉まれて気持ちがゆったりしない。案内板には店舗の名前がずらり並んでいるものの入ってみる気にはなれず,グズグズするうちにシグナルが変わって歩みを押し止められる・・・首都高速の真下は六本木交差点。
角を右折して地下へ吸い込まれるように消えていく一群。左のほう横断歩道のあちら側交番前では警官が金髪の外人女性と喋っていて,そこへ雪崩れ込んでいく人波と向こうから攻めてくる人波が白線上で交錯して混じりあう。
交差点の正面向こうにみえるアマンドのピンク色がやたらと眩しかった。きらめくその先には気が引けて進みたくない。食事のできそうな処がないか振り返ってみると,行き過ぎたショップの2階にレストラン? 外窓にメニューと価格が表示してあった。
・・・まずかろうが食べることができればいいじゃないか。
階段を昇って足を踏み入れたフロアは,周辺に馴染まない鄙びたメシ屋のような・・・もはや何も考えずに中へと入っていき,まばらな客に混じって定食を注文したのを鮮明に記憶している。
宿舎に戻ってからはシャワーを浴び,小型スーパーで買った缶ビールを3本たてつづけに飲み干した。たちまちアルコールが全身をかけめぐり,溜まっていた疲れが一気に噴出・・・初出勤の支度をしなくては,と思いつつも深い眠りに落ちていったのだった。
月曜日,S病院の二階にある総務課へ行き,第一日目の勤務がはじまる。
秘書の中里さんを最初に紹介された。垢抜けした聡明そうな美人で,見たところ30代,手際のよいテキパキした応対ぶりはさすが都会の一流秘書と称賛したくなるほどであった。
中里さんは私を連れて,同じ階の所長室,院長室,副院長室,各部長室,総看護婦長室,指導医たちの研究室とまわり・・・次ぎのところでは,ここが先生の所属研究室ですと告げて居合わせた同僚ドクターを紹介してくれた。
「そこの二番目のデスクを使ってください」
席を教えられてモタモタとしていたのだろう。「あと一カ所,足を運んでもらいますので・・・」と促される。
図書室に入り,突きあたりの病歴室の前へと案内された。そこは部屋というより隅を利用して矩形に仕切られた小スペース・・・一部に透明なアクリル樹脂を用いて室外の状況が分かるように工夫されていたが,反対側からも同様のことがいえる・・・図書室の奥のほうから病歴室の中は丸見えで,たとえばプライバシーの類いはとても保てそうにはない場所であった。
アクリル部分を中里さんはトントンと叩き,二人のウラ若き女性を中から呼び寄せて私と引き合わせた。
「きょうから,うちの病院で勤務される,金沢大学のオウミ先生です」
彼女たちと目が合った。
背のたかいスラリとした女の子のほうは忌憚なくいえば痩せすぎ,対照的にバランスのとれたカワイイ子のほうは,長身の子の真横に並んでいるせいで抜群のプロポーションが霞んでしまったような・・・
・・・はじめて会ったときの印象は見た目そのまま,それ以上でもそれ以下でもなかった。胸の高鳴りやトキメキとはまったくの無縁,とくべつな愛情の芽生える気配のようなものすら感じられず,さして重要でもない初対面の一コマに過ぎなかった。
中里さんは私にも女性らを紹介し,こう付け加えた。
「このふたりは先生のお手伝いをしてくれますから,わからないことがあれば彼女たちに訊いてください」
相手方におくれて「よろしく」・・・ぎこちない私の会釈を見届けてから,中里さんは「おつかれさまでした」と宣言,外来や病棟などの部門は管轄外ということなのだろう,役目を果たした様子で秘書室へと戻っていった。そのうしろ姿を追うようにして先ほどの所属研究室へ。
そこには,さっきと違うドクターがソファーで寛いでいた。名乗ってみると思ったより気さくに応じてくれ,研究室での大まかなルールや注意事項を教わっている最中,さっそく5階病棟から呼びだしを喰らってしまう。すると「なんなら病棟を案内しようか」って助け舟をもらい,おもわず『サンキュー』と馴れ馴れしく投げかえしてしまいそうなくらいありがたかった。
病棟は三つ・・・集中治療室CCUの備わった5階,通常病室のみの6階,7階は人間ドック専用。 S病院ではレジデントとして勤務したので外来診療は一切なし,入院患者の主治医としての診療が主たる仕事であった。
レジデントは7人いて,原則として順番に入院患者を受け持ち,それができない場合には合議によって割り振ることになっていた。