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 ほんの小さなことが人生を左右する。

 つらつら思いかえすと,そう気づかずにはいられない。どこかの時点で異なる選択をしていたなら・・・ふたりには,けっしてめぐり逢えなかったことだろう。もちろん裕子にも。

 

 

 

 医学生にかぎらず,長い生涯において一浪はハンデでもなんでもない。ただし,それは入学後の道のりが順調であった場合のこと。

 学生の本分を尽くした・・・などとはスズメの涙ほども言えやしない。

 わたしは最終学年では不本意な留年を,医師国家試験でもミジメな浪人生活をあじわい,かなりの回り道をして医療の現場に飛びこんだ。

 たしかに望ましいことではなかったが,かといって私はいささかも後悔なんぞしていない。

 

 あのころ・・・学生の身分をいいことに,自身の根本にかかわる哲学的問題と真正面から向き合っていた。手掛かりが得られてからも習癖はなかなか正しがたく,授業や臨床実習の学業には思うように身が入らなかった。

 この体たらくから早く抜け出さなくては・・・そう考えながらも下級生と机を並べたくはなかった。で,留年中は社会勉強と称して医学部から遠ざかりバイト三昧の日々・・・当然というか必然というか,稼いだ金は酒代へと消えていった。

 再度の最終学年,3月の初めに,教授会による判定会議が行なわれて何とか卒業が決定,ようやく学生生活にピリオドを打てることになった。国家試験を一か月後にひかえ,多少の無理があっても新しい環境で再出発しようと自らを奮い立たせる。いくぶんかは苦労かけどおしの母のことも気にかかった。それで,ともかく地元にかえって働く意志をかためたのだった。

 診療科の選定には,さほど迷うことはなかった。マイナーな科には興味がわかなかったし,手術は共同作業みたいで嫌だったし,子供は大の苦手であったから。いずれの内科にいくか・・・なんら有用な情報を持たず,選んだというより行きあたったと言ったほうが妥当,また記載された一番目を避けるという根拠のない衝動にかられることもなかった。

 入局を申し込んでみると,なんと卒業式の当日,時間厳守で面接に訪れるよう指示を受けた。晴れがましいところへは出たくもない・・・じつに好都合ではないか。

 その日は,忘れもしない3月22日。

 前夜,夜行列車で金沢へ向かった。当日の午前,刻限になるまで医局長から説明を受け,ほんのちょっぴり教授と面談,その足で帰ってくるとポストに封書が入っていた。

 早急に卒業証書を教務係まで取りにくるように,と書いてあった。

 

 国試が終わると慌ただしく引越しをして,まもなく内規にしたがい教室に仮入局しなければならなかった。ところが案の定,合格発表の日から無職男に成り下がってしまうとは・・・さすがに医局を後にするとき,身から出た錆とはいえ,なんともいえない物寂しさに襲われた。

 失意を味わって辛抱すること一年,金沢大学医学部第一内科に晴れて入局したのは,卒業翌年の同じく皐月のこと・・・合格通知のあった次の週,念願かなって医師としての第一歩を踏み出したのだった。

 ちなみに,当時はまだ医師国家試験は卒業後に実施され,合格発表は5月という日程で行われていたのである。

 

 なにゆえ,そうやって一内に舞い戻ったのか?

 記憶を辿っていると,なんとも不思議・・・あくる年,よその大学あるいは別の内科にいくカードもあったのだから。

 実際,復帰して新入局医師たちと合流し,指導を受けていたときのこと。

 オーベンでもない先輩から面と向かって「ふつう,ちがうとこへ入りなおすだろ,いまどき流行らないぜ」と嫌みったらしいことを言われた。チラッと目があう・・・見覚えのあるノッペラな顔。まちがいない,屈辱の一年前に見かけたドクターだ。このような人に本当のことを明かしたって無駄,「思いつきませんでした」って答えておいた。

 そんなわけないだろ! 流行らなくて結構,オレは意地を捨てたくはない。何があっても体裁なんかで引き下がりたくはないってことだよ・・・内心そう呟いたが,理屈と膏薬はどこへでもつく。

 国試に落ちてしまった日,ロッカーを片付けていると,あわてふためいて駈けつけたヤツ・・・一緒にクルズスを受けていた仲間だった。

 あいつの掛けてくれた一言が,やけにハッキリと耳に残っている・・・「戻ってこいよ,待ってるから」

 どう返答したのか,曖昧なのだが,こうに相違なかろう・・・「あぁ,帰ってくるさ,かならず」

 タワイもないことが,意外と気づかれないまま,魂に染み込んでいたりするもの・・・場合によっては,本人の意思をも変質させうる。

 4年後,あいつの名札は医局の壁から外されていた。どれほどの精神的打撃を受けたのかと疑ってしまうほど・・・心優しいヤツだった。

 

 それからさらに十余年の歳月が経過したころ,大学院重点化の波が押しよせて医学部は改組されてしまったのであるが,ピンとこなくなった教室名には現在でも旧一内と併記されている。

 イチナイ・・・その略称は,ウンメイの音を響かせて今なお我がココロをざわつかせる。医局人事により,はじめて派遣された出張先の病院で,わたしはタカコという女性と知り合ったのだ。

 彼女ばかりではない,さまざまな出逢いが『イチナイ』の繋がりから生まれていったのであった。

 

 

 

 医局員になって半年にも満たない10月,どうにか初期研修をこなして,職場が金沢大学付属病院からT病院に変わることになった。関連病院の一つに派遣されて内科研修医として勤務したからである。

 私は一年目としては年長のほうの28歳になっていた。もっとも年齢なんか何の足しにもならない。相変わらずT病院でも毎日が学ばねばならない臨床の連続であって,自分の役割をはたすのが精一杯・・・それ以外のことに構っていられる状況ではなかった。

 あっという間に師走をむかえる。

 外来と三つの病棟が一堂に会して行なわれた内科忘年会にしても,開始早々当直医から吐血の急患だといって内科の呼び出しがあった。こんな場合に病院へかえって診療するのは下っ端の役目,私はひとりで会場のホテルを離れねばならなかった。そのうえ治療指針の本と睨めっこ・・・迷って考えて,また迷って指示を出すといった始末。

 翌週の早朝カンファランス。消化器の先輩ドクターから開口一番,よくやったと褒められたのち,いろいろ不適切なところを指摘されて結果的には大いに勉強になったものだった。

 現実と向き合い,交わり合い,乗り越えようと試行錯誤を繰り返しながら自己研鑽に励む・・・いかなる分野であっても能力を身につけるには,これよりほかに方法はないのである。

 おもうに世の中は便利で効率的になったぶん,分かりきったことが掴みづらくなった。さらに輪をかけるがごとく,現代の新しい臨床研修制度は,誤った認識を植え付けているような気がしてならない・・・それも巧妙に。

 そもそも医学の世界のみが特別であろうはずがないではないか!

 どこの世界においても,失敗なくして成長はありえないと同時に,過誤が生じることは許されない。ただ人の命を預かる分野では,より厳しい戒めが求められているだけに過ぎない・・・つまり医療には,失敗が必要悪として認められるとしても,それ以上に過誤を無くするための絶え間ない努力と修正が要求されているのである。

 

 年が明けて1月半ば,1病棟4階の新年会に声をかけられて参加した。

 会場となった温泉旅館の大広間には,古風な御膳が縦二列に向かい合わせで並べられていた。クジを引くと私はいちばん下座の席で,真向かい端の席にはすでにナースが座っていた。腰を下ろしつつ目の前の相手を確かめる。

 となりの先輩ナースと談笑する若さいっぱいの女性・・・白衣を脱ぎすてて青春の輝きを取り戻したみたい。

 だれ?・・・すぐには分からない。「こんばんは!」と挨拶され,やがて病棟で見かける顔と一致したものの,年齢はおろか名前も定かではない・・・ましてやプライベートで言葉を交わしたこともなかった。だからだろうか,この夜の彼女の印象はきわめて鮮烈だった。

 日頃からいくらか感じてはいたけれど,なによりも間近で目にする美しい肌は際立っていて,これほど透き通ったきめ細かな肌の持ち主にはおよそ出会ったことがない・・・『まるで人形のようだ!』

 くっきりとした眉,ほどよく大きすぎない眼に黒すぎない瞳,カールした睫毛,等々・・・ポッチャリ気味で多少起伏に乏しい目鼻立ちがやや難点に思われたが,かえって白い肌を引き立てているようだった。

「いくつ?」

 ボソッと問いかけたオレ・・・けっこう硬くなっていたのだ。

「え?・・・わたし,ですか?」

「そう」

「いやだぁ,先生・・・トシ訊くなんて」

「あらぁ,かくすことないじゃない,若いんだから」と,左斜め前からビールをついでくれたオバさん看護婦。「去年から,うちで働いているフレッシュナースよ」

「新米ナースのタカコと言います。22歳で~す。よろしくお願いします」

 どうりで・・・彼女の仕事ぶりには,なんとはなしにギコチなさをおぼえる部分があった。まあ,お互いさまなんだろうけど。

 そんな嵩子と顔を突き合わせて時間を過ごすのは,未熟な駆け出し同士の気安さも手伝ってか,いつになく楽しくてしょうがなかった。おまけに彼女が微笑むたびに両頬には可愛らしいエクボができる・・・まじまじと見入ってしまいそうになるのを制御せねばならないくらいステキだった。

 ほかに印象に残っていることといえば,各自が千円以内のものを持ち寄って行なわれたプレゼント交換。

 持参したマグカップはどのように購入したのだろうか?

 幹事が暇のなかった私の分まで用意してくれたような気もするし,強引に連れて行かれて買ったような・・・? いずれにしても,そいつは知らないうちに彼女の手に渡っていた。

 私の摘まんだ小袋に入っていたもの・・・引越しのさい陶器製のために割れてしまった,あの和式便器型のカワイイ灰皿だったっけ。便器には火のもみ消しにピッタリのウンチがとぐろを巻いていた。

 かえりに旅館の廊下で中堅ナースに呼び止められて「さっきのアレ,面白いでしょ,ちょっとは使ってみてね」・・・うしろで嵩子がくすくす笑っていた。もしや便器灰皿は妹分の彼女が提案したのかも?

 

 嵩子とは親しくなり,病棟でも会話する機会は格段に増えていったが,これといった進展もないまま3月をむかえる。

 T病院への出張は年度末までと決まっていたので,当然のごとく症例に関連づけて最終課題を言い渡された。『ABO式血液型の亜型について』・・・滅多にみかけないA型亜型の患者を受け持っていたのである。

 慣れない文献検索と要領のわるさのせいで睡眠不足の日がつづいた。やっと最後となる週にケースカンファランスで報告したら,今度は院内広報誌に載せるから辞めるまえに原稿を提出せよとのこと・・・まいったね。

 むろん,ハイと返事する。拒むことなどできるわけがない。こうなったら明日までに仕上げてしまおうか・・・なにを差し置いてもデューティの苦痛から一刻も早く逃れてしまいたかった。

 翌日,朝イチで持っていくと,部長はざっと目を通して宣わく・・・よし,これでいいだろ,来週から次の病院へ行ってもいいぞ。

 やり遂げた充実感があってスッキリはしたけれど,疲労困憊して元気のなかったこのオレを,まさか天が労ってくれたのだろうか・・・異動間際になっておもわぬ出来事が待っていたのだ。

 

 くたびれていた日の午後,1病棟4階から2病棟5階へ,ゆっくり渡り廊下を抜けようとしていた。新病棟と旧病棟をつなぐ連絡通路は相当に傾斜していたので,一歩ずつ踏みしめるように。すると背後より,おさえた叫び声が聞こえてくる・・・「せんせい~!」

 振り向けば,嵩子が1病棟のほうから駈けてくるではないか。

「先生,お願いがあります」

 あわてた様子で彼女は早口だった・・・バイタル測定かなんかを中途にしてやってきたに違いない。

「なにかな?」

「やめる前に,わたしとデートしてください!」

 一瞬,告げられた内容が呑み込めない。意味が分かってからも,にわかには起きている状況が信じられなかった。気になる女の子から直接に誘われるなんて思ってもみないこと。いきなり先制パンチを喰らって判断力が働かなくなったみたい。それでいて嬉しさはじわじわと込み上げてくる。

「ダメでしょうか?」

「ぜんぜん,かまわないよ」

 フレーズが口から勝手に出てきた。「いつにしようか?」

『やったね』

 とでも言うように彼女はニッコリ笑って「わたしは,いつでもOKです,なんとかしますから」

 考えるまでもない。週末には引越さねばならないのだ。

「今週の金曜日は,どうかな?・・・もちろん仕事が終わってからだけど」

「だいじょうぶです。29日の金曜ですね」

 嵩子は真顔になって「先生,ゼッタイですよ! 約束しましたからね!」と釘を刺し,ちょこんと一礼・・・そして軽やかに踵をかえし,小走りに廊下を通り抜けていった。

『デートか・・・悪くないな』

 うしろ姿を見送ってからもその場でしばし佇んでいた。

 夢心地になって疲れはどこへやら,ニヤニヤして2病棟へ向かったのは紛うかたなき事実・・・とはいっても正直なところ,女性と交際する意思など私にはすこしもなかったとおもうのだ。

 これまでも,まともな付きあいを避けながら男の欲望を満たしてきた。その時分には医師になるまえに知り合った飲み屋のママと,いまだ縁を切らずに会っていたのである。

 

 T病院を辞める直前の金曜日。

 待ち合わせの日は朝から落ち着かない。そのうち,はたと気がついた。時刻とか場所とか細かいことをナニひとつ相談していないではないか・・・どうとでもなるなんぞと,ちと浮かれすぎ楽観しすぎだった。だいたい嵩子は,きょう勤務しているのか? それすらもはっきりしない。

 午前中は胃腸科にまわり,5名の患者に納めの胃カメラをおこなった。T病院では毎週金曜日に内視鏡の修行をしていた。そのお礼の挨拶をして1病棟の階段を4階まで駈けあがる。

 ナースステーション内はガランとしていた。頭のなかは彼女との約束のことでいっぱい・・・カルテを調べる振りをして白衣がちらつくたびに記録用紙をめくっては垣間見ていた。が,確認できたのは色白ではない顔の二人のみ。

 待てよ,大半のナースは昼休みに入っているんだ・・・ってことは,こんなの,単なる骨折り損じゃないか。肩をおとして私は研究室に向かわざるをえなかった。

 午後になって3つの内科病棟を上のほう・・・2病棟6階から順番にまわった。渡り廊下にさしかかると胸騒ぎを覚えてならない。嵩子がいたとして,ひそひそ話なんかできるものだろうか?

 1病棟4階を回診し,指示を出しては目を凝らしたが,もう一つの懸念のほうが的中していそうな気配・・・ようやく彼女が働いていないと確信したときには,もはや日勤の時間帯は終わろうとしていた。

 くそっ,いったいどうやって連絡をとればいいのだ?・・・解決策を見出だすことができない。その時代には携帯電話もなかったので,なんにしても成り行きに任せるしかなかった。

 連絡を待つなら下手に動かないほうが得策だろうと判断,夜勤に入って昼勤務の人たちが見えなくなってからも,はたしてこれでいいのか大いに不安を抱きつつ,ステーションで次期主治医への申し送りをカルテに記載していた。そこへ,彼女より一つ年上の2年目ナースが私服姿でやってきた。

 あの子は日勤をしていたはず・・・着替えているってことは,忘れ物でもしたのだろうか?

 ところが,長身で大柄なその子は私に近づき,こう声をかけてきたのだ。

「先生・・・すみませんが,写真を撮らせてください」

「いま?」

 おもわず問いかえす。よくみると,相手は左手にカメラを携えていた。

「はい,今すぐお願いします。ここでは撮りづらいので,できれば1階,検査部のあたりで・・・」

 準夜ナースが忙しそうに行ったり来たりしていて,病棟はどことなく平静ではなかった。ここでの撮影はやめておいたほうが無難のよう・・・やむなく2年目ナースについていくことにした。

 とりあえずエレベーターで降りてみると,検査部前の小ロビーはシーンと静まりかえり,こっそり写すにはこの上ない格好のスポットに様変わり・・・そこには大人の背丈くらいまで育ったあまりパッとしない観葉植物と,人ひとりが横になれる安っぽい長椅子が並んで置かれていた。

「そのソファーに座ってもらえますか」

 指示されたとおりボロ椅子の中央に,半ばヤケ気味にドーンと腰をおろす。嵩子が4階に顔を見せていたら・・・心のなかでは気が気じゃなかった。

 じきに,シャッターの独特な音があたりの静けさを破った・・・オレを責めるかのごとく,バカタレ,バカタレ,バカタレと。

『いかん,戻らなくては・・・』

 飛び跳ねるように立ち上がると同時に,その子はそばに寄ってきた。

「いろいろありがとうございました。わたしはあす休みなので,先生とはこれでお別れです。こんど行かれる病院でも頑張ってください」

 そう告げて大柄な子は笑顔をこしらえる。すると,嵩子よりも深くて大きなエクボ・・・スズランのような愛らしい花を左右に咲かせた。

「城島くんも,元気でな」

「それと,これ・・・タカちゃんからの伝言です」

「・・・ありがと」

 あっけに取られている暇はなかった。その子も時間にせかされていたのか,折りたたんだレポート用紙を手渡すなり会釈をして立ち去っていった。ひょっとしたら・・・帰るときに嵩子と出会ってキューピッド役を引き受けたってことかもしれない。

 思い起こせば・・・世話好きの2年目ナースは断るということを知らなかった。愛情に満ち満ちていたあの子・・・索漠とした現代をどんなふうに生きているのだろうか?

 

 その場でメッセージを読んだ。

 

   職員駐車場側の出入り口で待っています。

   遅くなってもかまいません。

   ずっと待っていますから,

   仕事が終わったら来てください。

                   嵩子

 

 大急ぎで階段を一気に駈けのぼり,そそくさと作業を切りあげた。

 

 外はすでに真っ暗。指定された通用口には人影はなかった。周囲を見回していると,やや離れた自転車置き場の暗がりから密かに呼びかける声がした。

「せんせい,こっちです」

 そろり駐輪場のほうへ歩きだす。瞳を凝らすと嵩子がうっすらと見えた。

「・・・だいぶ待ったかな?」

「たいしたことはありません,だいじょうぶです」

「まず,車で出かけようか?」

「はい」

「どこへ行きたい?」

「どこでも・・・先生に,お任せします」

 T病院では医師個人ごとに専用の屋根付き駐車場があった。私の車は中古の旧型セリカクーペだったが,隣には外科ドクターのソアラ最新モデルが停まっていた。どれだけ割り切ろうとしても羨ましさが消えていかない。

ソアラはいいね」

「先生のセリカは味わいがあって,わたしは好きです」

「ムリしなくてもいいよ」

「そんなのじゃありませんから!」・・・お世辞じゃないってことか?

「ゴメン,わるかった」

 

 近場では面白くないし気分も乗らない・・・遠かろうが海辺の道路をドライブしようと思いたった。しかしながら,イマイチのコースだった。目当てのパーキングまでスピードを出しても優に50分はかかったうえ,闇に呑みこまれて海原は見えないも同然・・・ドジを踏んだものだ。

 車の中では差し障りのない事柄について,たとえば入院患者やスタッフのことなどを,ぽつりぽつりと語り合った。会話は途切れがちだったにしろ,彼女の表情に苦痛の色は見てとれない。そこに似かよった波長を感じた・・・あるいは肌合いが合ったということなのだろう。

 海岸沿いの曲がりくねった道を運転すること15分前後,急カーブを切ったそのさきに忽然とあらわれたリゾートホテル・・・このあたりにホテルは1軒のみであった。

「あのホテルに入ろうか?」

「はい」と,嵩子が笑みを浮かべたので救われる思いがした。

「腹がへったから,とにかく,なにか食べることにしよう」

 レストランは1階ロビーの海側にあった。 案内されたのは,日中であれば眺めのよさそうな窓ぎわの席。テーブルは食べ終わったままの状態であったから,ほんの少し前に客が帰ったばかりとみえる。ラッキーですね,と彼女はうれしそうだった。

 嵩子はパスタを,私はピラフを注文した。

 気の利いた話題を提供するのがどうも不得手だった。話せそうなことはとっくに尽きてしまい,窓ガラスにうつる店内のぼやけた鏡像を眺めるよりほかなかった。くわえて・・・あんなに楽しみにしていたのが嘘のように昂ぶりは冷めつつあった。

 なにを血迷っていたのだろう,これが己れなのだ・・・そう思った。

 引き寄せられて大はしゃぎしたあげくのはてに,やっと気づいて本来のあるべき姿に復したみたいな・・・なんのことはない! オレが見失っていただけのこと。きょうの日は,それを把握するためにあったのではないか・・・とさえ思えてくる。そつなくトークを交わそうなんて無用,彼女にはすまないが地でいけばいいのだ。

 料理がきても黙々と食べていた。たまに嵩子の顔をうかがうと,彼女は勘づいて笑顔をかえすものの,やはり黙ったまま喋らない。それが私にはちっとも不自然に感じられなかったけれど,あとで思い返してみると,どこでどのように切り出そうか嵩子は頭を悩ましていたらしい。

 食事が終わってから,彼女は唐突に,真剣な面持ちで語りだした。

「せんせいは,今・・・」

 イマ,なんだい?・・・彼女のほうへ向きなおる。「付きあっている人はいますか?」

 切羽詰まっていたのだろう。最初で最後のチャンスに賭けてみる,というような嵩子の強い意志が透けて見えるような気がした。

「いないよ」

「わたしじゃダメですか?」 すかさず畳みかけるように攻めてくる。

 彼女の問いは,そのものズバリだった。呼応するように,私もストレートな返答をしてしまう。

「おれと付きあっても,結婚はできないから・・・」

 生まれついた性格や生きてきた環境と現実から,もはや女性を愛することはないと信じ込んでいた。愛することができなければ結婚は考えられない。また結婚を考えられる女性としか付きあうつもりはなかった。必然的に,いつであろうと本気で女性と付きあう気持ちにはなれなかった。

「なぜですか?」

「むかし,ひとりの女性に恋したけど,しょせん片想い・・・失恋して,すべてが終わったんだ。そのとき,おれの愛は燃え尽きてしまって,もうなんにも残っちゃいないんだよ・・・」

 これは作り話ではない,実際のことだった。よくある初恋は失恋の味というパターンといえる。初恋は成就されないほうがよい。なぜなら,失恋しなければ物事は見えてこないから。失恋して本物の愛がはじまるから・・・だから,オレの資質にこそ問題があった。

「結婚できなくてもいいんです。もっと先生のことを知りたいし,ずっと見ていたい・・・できるなら,先生と離れないで生きていきたい。ほかに願いごとなんてありません」

 今にしておもうと・・・私の言いぶんはかえって先方に望みを抱かせる結果にならぬとも限らない。というのも裏をかえせば,暗にみずから惚れてる女はいないと宣言しているようなものである。

 若いころ,あたりまえに無知だった。嵩子から交際を求められ,窓のはるか向こうに見えるイカ釣り船の光を眺めていた。

 ・・・愛を失ってはいても好き嫌いは無くならない。あの暗闇の明かりに吸い寄せられるがごとく,彼女の輝きに惹きつけられてしかたないが,結婚する気もないのに付きあっていいものかどうか?・・・人のこころを蔑ろにしたくない。愛につけこんだりしたくない。

 されど,誘惑を退けるだけの覚悟も経験も私には不足していた。考えあぐねた末にくだした結論は,けっして男のずるさを否定できるものではなかった。

「結婚できなくてもいいのなら,付きあってみようか」

「ホントに? 夢じゃないですよね?」

 右頬をぎゅっと抓って「やっぱり夢じゃないです!」 嵩子はそう叫んで顔を綻ばせた。

 

 こんな形の男女の付きあいはべつに珍しくもない,ありふれたことだと己れに言いきかせていたけれど・・・だれしも未熟さから出発するものであり,成熟に試練はつきもの,かならずや相手のためにもなるはずだと言いわけしていたけれど・・・たとえ如何なる結末が待ちうけていようとも,元はといえば彼女自身が望んだことではないか! そんなオモイが心のどこかに潜んでいて,たしかにオレはすこしばかり甘えていたのだけれど・・・。

 歩んでいくのちの人生において,タカコを奈落の底に突き落としイバラの道に追い込んで,わが宿命のなんたるかを思い知ることになろうなどとは,このときの私には・・・かなしいかな,マカリ間違っても想像することができなかったのだ。

 

 レストランを出て,ふたたび寡黙なドライブを1時間かけて楽しんだ。行くときとは大違い・・・かえり道の沈黙は歓喜に満たされていた。

 心の奥底に沁みてくる歓びは何としたことであろうか。どう考えても一人ぼっちでは味わえないもの。独りにこだわることこそ無意味なのか?・・・真実を見極めるためにも彼女と付きあってみようと認識を新たにしたのだった。

 彼女の家の付近まで送っていった。別れぎわに,ぜひ引越しの手助けをしたいってせがまれる。むろん断わる理由はなかった。

 T病院のすぐそばにワンルームの宿舎を安い家賃で借り受けていた。そこに少なくとも週に4日は泊まったが,大学病院近辺のアパートも解約してはいなかった。引越しの内容は,宿舎に持ち込んだ必需品ほかモロモロを,以前から住んでいるアパートへ運ぶことであった。

 

 いよいよ締めくくりの土曜日。

 午前中は胃透視の撮影をおこない,昼まえ関係部署に挨拶をしてまわった。午後から各病棟でラストとなる指示を出し,夜7時までかかって中途にしていた申し送りを書き上げる。そのあと先輩ドクターと飲みに出かけてしまい,宿舎に帰ったときには午前3時を回っていた。

 

 日曜日,午前9時。 嵩子が来てくれたというのに,不覚にも二日酔いで寝込んでいるありさまだった。正午までにキーを返さなければならない。自分に鞭打って起きあがり,ただちに彼女と引越しの準備をしはじめる。

 半年のあいだに思ったより生活用品は多くなっていた。セリカのスペースでは二往復しても運びきれなかったが,彼女が清掃を全部やってくれたので大助かり。3回目にして荷物を残らず車に詰めこんで一旦戻ってくると,ワンルームの戸口のところで嵩子が待っていた。

「終わったね」と,手を叩いて迎えてくれる。

「ありがとう。手伝いに来てくれて,すごく助かったよ」

「どういたしまして」

 一息ついて,しぜんと彼女の面立ちに見とれてしまった。

「タカコは・・・人形みたいにカワイイね」

 気恥ずかしくもあったが,名前を呼んで日頃感じていたことを偽らずに言葉にしてみた。そうしたら・・・

「じゃあ,もっと近くで見せてあげるわ」

 って応じたかとおもうと,不意に彼女は顔を寄せてきて,そのまま唇を私の唇に重ねてしまったのだ。

 意表をついた突然のキス・・・盗んだゆえに盗まれたゆえに小休止し,互いに相手の瞳を覗きこんで心の動きを確かめあう。たちまちマグマのごとき感情が湧き上がり,矢も楯もたまらなくてなって彼女に手をまわし・・・堰を切ったように濃厚なキス。

 脱帽するしかない,あまりに見事な奇襲だった。じつは随分たってから嵩子は教えてくれた・・・あの作戦はデートする前から練っていたのよって。

 

 ふたりで両手に荷物をもってアパートに入った。帰ってきたと実感するとともに,忘れていたことも思いだした。

 しばしば戻ってきてはポツネンとしていたが,たまに飲み屋のママと密会していたのだった。なるべく早めにハナシをつけなければ・・・と考えているところへ嵩子が声を弾ませる。

「先生の住んでるとこ・・・案外ときれい」

 狭くるしいダイニングキッチンと六畳一間の住居をくまなく調べながら,彼女は観賞しているかのようであった。目につくのは,ダイニングにある小っちゃめの食卓と,中学のときから使っている古くさいシンプルな学習机と,大学のときに中古で買ったガラスのローテーブルのみ・・・ラジカセや医学書やその他こまごまとした物はすべて押し入れに詰め込んであったから。

「みた目はキレイでも,中味は,まるっきり違うかもな」

 含みのある答えかたをしたオレ・・・嵩子のヒップラインがいかにも欲情をそそる。それは,さきほどのキスが無関係ではない。それまで踏み越えないでいた領域を一足とびに跳び越えさせて二人の距離をぐっと縮めていたのだ。

「テレビも無いんですね」

 と,感心した顔つきでゆっくりこちらを振り返ろうとしたその隙に,すっと彼女に詰めより有無をいわさず肉体を抱き寄せた。

 それから男の目的に向かってまっしぐらに突き進んだのは言うまでもない。

 

 このようにして私と嵩子は初めてヒトツに結ばれた。