( 12 - 8 )

 

 3月7日,月曜日。

 午後,71歳の男性に対して,主治医としては最終となるはずの,冠動脈インターベンションいわゆる心カテ治療を行なう。

 

 患者は,57歳のとき心筋梗塞を発症し,もともと他病院に通院していた。

 62歳のとき,夜間に発作をおこして救急車でうちの病院に運ばれ,緊急心カテ治療を行なって以来のつきあいになる。

 当時から男性は,百歳まで生きると公言して憚らなかった。

「目標の年齢まで生きられるかどうかは,ひとえにドクターの腕にかかっているんだから・・・ぜひとも,よろしく頼みますよ。それには,先生にも長生きしてもらわないとね!」

 これまでインターベンション治療を5回施行していたが,ここ6年間は発作をみとめず,心カテを行なわなくてもいい状況であった。

 最近になって胸部不快感をみとめたという。聞いたかぎりでは発作らしくなかったが,断定はできない。基礎疾患として糖尿病,高血圧,脂質異常症をもっているのだ。通常の検査に異常がなくても,このあたりで心カテを実施するのが妥当である。

「いつまでも元気でいたいのなら,今年はカテーテル検査を受けてもらうよ。そうでなければ,担当医を降りるから!」

「先生,それはないよ」と,口を尖らせる。「それじゃ,イヤだなんて,言えっこないよ」

 強迫じみた指示であっても,患者は素直に応じてくれる。少しでも長寿の実現に協力したい。

 ところが・・・蓋を開けてみると,結果は予想以上に,きわめて重症だったのだ。バイパス手術は避けたいとの希望があって,完全閉塞を含む3枝病変に対して戦略を立てなければならなかった。

 まずは一回目,右冠動脈中間部をターゲットに・・・以前留置されたステント遠位端の完全閉塞に対してインターベンションをおこなう。

 それに成功すれば,二回目以降,他の部位に対しても心カテ治療が可能である。しかしながら・・・一回目が不成功に終わるならば,完全血行再建をめざして外科的治療を選択するのが最善であろう。

 

 浅谷さんの看取りが終わったあと,急いで本人に連絡をとり,7日にカテーテル治療の時間枠を確保した。

 

 インターベンションの当日。

 術直前,自身の発作予防のために硝酸薬を舌下し,わたしは万全の態勢で手技に臨んだのだ。

 けれども・・・無念至極,かたい病変部を打ち抜いて血流を復活させることはできなかった。ガイドワイヤーを真腔に通すこと能わず,開始から約2時間後,造影剤の漏出を認めたところで中止を余儀なくされたのだった。

 その場で,冠動脈バイパス術の検討を患者に宣告する。

 

 翌日,撮影した動画を解説しながら,治療の経過と結果および今後の方針についてムンテラした。

 外科的手術以外の手段・・・名高い病院を受診し,卓越したスキルを有する医師のもとで,再度カテーテル治療に挑戦してみることも提示した。

 患者はこう答えた。

「せんせいが,そう言うのなら・・・仕方ないね,バイパス手術を受けるよ」

 

 

 

( 12 - 7 )

 

 3月5日,土曜日。

 午後5時より当直の業務につく。

 医師にとっては,もっとも好きになれない時間・・・そうではあるが,この役目はもう二度と回ってこないことを惜しみ,対処することを楽しんだ。

 準夜帯で10名,深夜帯で3名,合計13名の内科系患者の診療を担当する。おもったほど睡眠時間はとれなかった。

 

 明けて日曜日,自宅へ帰るやいなや,二時間ばかり眠りこけてしまう。起きてからは,久しぶりに大好きなエルヴィスの CD をたっぷりと聴いた。

 エルヴィス・プレスリーはそのルックスとカリスマ性もさることながら,あの歌声と天性の歌うセンスには独特の魅力とセクシーさがあって,後世に再来と評されるほどの歌手があらわれるとは思えない。

 ちなみに私が一番気に入っているのは,スタジオ録音もライヴも,断然カムバック後の1969年のエルヴィス。

 

 

 

( 12 - 6 )

 

 3月4日,金曜日。

 夜,呼吸と循環をテーマにした講演会に出席する。

 近年では,心不全の基本治療に人工呼吸器による換気療法が用いられ,在宅でも臨床応用されている。今後はさらに,インターネットを通じて在宅での換気状況のモニタリングを行ない,その情報をフィードバックさせて治療にも役立てる・・・といった内容だった。

 すばらしい研究と臨床応用である。心不全の管理はさらに一歩前進するといってよいであろう。

 だが一方で,精神的錯誤もますます深まるにちがいない。

 人間はいつか死なねばならぬ運命を背負っている。その定めをシンプルに受け容れることが困難になってしまうことだろう。

 このことは・・・ある重要な認識能力が,退化していくことを意味しているのではなかろうか。

 

 

 

( 12 - 5 )

 

 3月3日,木曜日。

 夕食を軽めに済ませて,裕子といっしょに映画を見に出かける。

「こんな日にかぎって,雪が降るんだから!」

 彼女が嘆くのもムリはない。雛祭りの日は冬がぶりかえし,ずいぶん寒い日になった。前日,誘ったときには天気は悪くなかったのだ・・・大雨男の異名は,いまだ健在といわねばなるまい。

 映画といっても,とくに見たい作品があったわけではない,上映中のものから適当に選べばいいと思っていた。けれど,見納めにふさわしいものがなくて多少がっかりする。

 人とは,かならず期待しているものなのだ。

 落胆しながらも映画館で『あしたのジョー』を選んだ。内心では,大好きな漫画には遠く及ばないだろうと高を括っていた。

 ところが,実写映画にしては思いの外よかったのである。登場人物にはアニメ同然の雰囲気がただよい,ジョーと力石の生きざまは私に勇気を与えてくれた。頭のなかには漫画のラストシーンが呼び起こされ,燃えつきて真っ白な灰になったジョーがスクリーンの映像に重なって見えていた。

 ・・・あの顔に浮かんでいるのは,タウ・タオ・タイの笑みなのだ。なぜ今まで気づかなかったのだろう。

 そうおもうと,このタイミングで上映されているのが,なんとも奇妙な感じがした・・・偶然にしてはあまりにも出来過ぎていやしないか!

 

 

 

( 12 - 4 )

 

 タウ・タオ・タイ

 ・・・すべてはこのまま。

 ここに存在する,ありとあらゆるものは,そのままでいいのだ! 悪であろうが,凶であろうが,不運であろうが,それがナニであろうとも。

 でなければ・・・人間は,もちうる十全なる能力をいかんなく発揮することはできないであろう。

 

 タウ・タオ・タイ

 ・・・タウをもって,タオにしたがい,タイをつくしぬく。

 あるがままでよければ,イツであれドコであれナニであれ,ひとつとして求めるものはない! ただ,生のかぎりを尽くすだけだ。

 であるなら・・・求めないままに追求することができるであろう。

 

 タウ・タオ・タイ

 ・・・いっさいのことは,そのままであり,それなりであり,それだけである。

 それ以上でも,それ以下でもない! できなければ,できなかったことがそこにあり,できていたら,できなかったことはないのだ。

 ならば・・・そこに,ありのままの価値を見いだせることであろう。

 

 呪文は不安を一掃する。悲運を肯定する・・・わたしは私でよいのだと。

 

 真実の言の葉は善悪を選ばない。行なうのは人間である。

 人によって・・・善にもなり,悪にもなる。すなわち,善にあっては善を,悪にあっては悪を,あと押しするのだ。

 邪悪に通じぬことは,真の本質を捕らえてはいない。

 

 暗闇の海のかなたに,またしても浅谷さんのあの笑みが思い浮かぶ。アルカイックスマイルも,いってみればタウ・タオ・タイなのだ。

 しぜんに顔がほころぶくらいに,神経や感情の昂ぶりは鎮まりつつあった。そろそろ引き返すとしようか。

 

 かえる道すがら,決行の日を定める・・・2011年3月13日の日曜日だ。 もはや躊躇いはなかった。

 

 深夜,裕子が帰ってくる。頭が冴えて眠れないので水割りを飲んでいた。

「きょう,いや,もう昨日になるか,浅谷さんが亡くなったよ」

「ホントに・・・なんじごろ?」

「午前11時過ぎかな」

「あなたは,よく頑張ったわ・・・おつかれさま」

「そうでもないさ・・・」

 自分のことを・・・これまでどうしても言えなかった部分を,なぜか無性に語りたくてしょうがなかった。しかし,どのあたりをどんなふうに説明したらよいものか? とてもじゃないが簡単には言いあらわせそうにない。明日も,明後日も,おそらくいつまで経っても,伝えたいことのほんの僅かでさえも口には出せないのではないか!

 そのとき,ぴったりの方法を思いたって机に向かったのだった。

 

『おまえに・・・最初で最後の手紙をしたためて,そうしてこの世を,生きおさめることにしよう』

 

 

 

( 12 - 3 )

 

 2011年2月28日,月曜日,午前11時7分。

 浅谷富子さん,家族全員に見守られ,安らかに眠るように逝く。 享年67。

 

 満66歳の往生であった。

 死に顔を目に焼きつける・・・そのとき瞼のうらに,5日前に見せてくれた刹那の笑みがよみがえる。

 そうだ!・・・あの表情は菩薩にそっくりなのだ。どうりで人智を超えていたはずだと,妙に納得する。

 正午ちょうどに浅谷さんを見送る。 合掌して,恩人と永訣した。

 

 その日の午後は,どうにも落ち着かない。

 心カテが1例予定されていたが,検査のみでは昂ぶった神経を抑えきれず,気合いと時間を持てあました。もし・・・インターベンションを行なっていたならば,どんな難しい病変にも挑戦していたことだろう。

 

 検査のあと,さっさと仕事を片づけて,時間になると帰宅した。

 家には・・・裕子はいない。そういえば準夜勤務だった。テーブルの夕食を食べてから,あてもなく車を走らせる。

 べつに意識したわけではないが,気がつけば有料道路・・・こんな時はやっぱり海を眺めたかった。

 パーキングに車を止めて,防護柵の前に立ってみる。 外はかなり寒くて,春はまだ遠い。

 大海原は・・・真っ暗闇に呑みこまれ,まるっきり見えない。が,風の音にまじって潮騒が聞こえた。こころは波打ちはじめる。

 

 浅谷さんが亡くなったことで,私の精神はあきらかに動揺し,変調をきたしていた。いかなる心理が働いているのだろう?

 ・・・ひたすら待ちわびたことをようやく手にしたというのに・・・ついに自死は完全なる専決事項となったというのに・・・どこかに不協和音が生じているらしい。

 11か月かけて自己を検証してきた。

 期間が適切であったかどうかは分からないが,結論として,我が道に変わりはなかった。それは十二分に是認できることだった。

 ところがどうだ。

 患者の死去により実現可能となってみると,これでいいのだろうか,という一種不安めいた感情がうごめいてくる。

 突きつけられた感じがして,はやる気持ちの奥に,このような運命を背負わなければならない恨めしさが息を吹きかえす。

 人なら・・・あたり前のことか。

 考えることを止め,海から吹いてくる風を思いきり吸いこんで一気に吐きだした。

 

 

 

( 12 - 2 )

 

 正月が明けると浅谷さんの病状は悪化の一途をたどった。

 

 十分に食べられないため,毎日の点滴は中止のメドが立たない。排尿障害は改善する見込みがなく,尿道カテーテルも留置をつづけた。

 心嚢水にあきらかな増加はなかったが,上大静脈症候群を合併して上半身に浮腫をみとめるようになった。もちろん徐々に増悪する。

 ときどき背部と胸部の突出痛に悩まされ,疼痛コントロールも良好とはいえない。レスキューを内服するけれど,同時に傾眠をもたらした。

 喀痰がおおく,絡みがつよいため吸入を開始する。しだいに末梢からの静脈ルートの確保が難しくなった。中心静脈カテーテルを鎖骨下静脈より挿入し,持続点滴を行なわなければならない。

 

 1月末には寝たきり状態となり,軽い喘鳴をみとめる。酸素はカヌラからマスクに変更した。いくらかでも食べようと頑張っているものの,摂食できる量は微々たるもの・・・日々衰弱しているのは誰の目にも明らかであった。

 

 2月中旬,呼吸困難が増強し,摂食は不可能な状況となった。

「せんせい,息苦しい,たすけて」

 浅谷さんは呻くようにつぶやく。絶食として内服も中止,利尿薬などは注射剤に変更した。

 家族を呼んでムンテラした。遅かれ早かれ意識障害に陥ることを説明し,症状を多少なりとも緩和する目的で,モルヒネの持続静脈内投与いわゆる持続点滴とステロイドホルモンの静脈内投与を提案する。ただし経過が早まる可能性を了解してもらった。

 

 21日より,オピオイド貼付剤を中止して,モルヒネの持続点滴を開始する。ステロイドの点滴もおこなう。

 

 22日,モルヒネを増量する。ステロイドの点滴は連日おこなう。

 

 23日の午後,浅谷さんを回診すると,意外というか期待どおりというか,目をぱちくりさせて話し出すのだった。

「とても,調子が,いいのです。気分も,わるくない,ですし,痛みも,大したこと,ありません」

 見たところ,努力呼吸をしていたし,相変わらず喘鳴もあった。息継ぎしながらの喋り方は,とぎれとぎれで苦しそうである。

 ただ先週に比べれば,たしかに所見はこころなし軽減していた。悪くなる一方だった症状が,はじめて軽くなったともいえる。

 浅谷さんにしてみれば,それが嬉しくてたまらないのかも・・・また薬物の影響も加わっていたかもしれない。

「いいですね・・・浅谷さん」

「はい。会話できて,うれしいです」

「ぼくも,もういちど真剣に語り合いたいと,思っていました」

「足かけ,3年間,たいへん,お世話に,なりました」

「浅谷さんこそ,精一杯,闘ってきましたよ」

「たくさん,悩み,ました。でも,もう,迷いは,ありません。やっと,看取って,もらえる,実感が,するのです」

「・・・」

「なに,ひとつ,できなく,なってから,ものすごく,苦しく,なってから,これでもう,ダメと,わかって,から,ようやく,正直に,せんせいに,すがる,ことが,できました」

 患者の発言は,考えてわかる領域を超えていた。私には聞くことしかできなかった。

「いま,ふしぎと,満たされた,気分,なのです」

 非常に息苦しそうなのに,何故なのだろう,その人の表情にはわずかの曇りもなかったのである。

「せんせいの,お蔭だと,おもって,います。わがままを,きいて,くださって,本当に,ありがとう,ござい,ました」

「ぼくは,出会えてよかったと思っていますよ」

「できれば,あの世,でも,主治医を,よろしく,お願い,します。わたし,待って,います」

 来世のことは請け合えないが,この世にいるかぎり,目下の気持ちで答えても構わないだろう。寒々とした心根は変わらないし,浄土へ往くことはないにしても。

「では,いつになるか分かりませんが,待っていてください」

 直後に,浅谷さんは一瞬の笑みを浮かべた。その微笑みをどこかで見たことがあるのだが,この場ではどうしても思い出せない。

 

 夜になって病室を訪れると,患者は眠りについていた。

 日中よりも安らかそうだった。呼吸不全の患者では,眠っているときのほうがバランスのいい息づかいをする場合がある。

 部屋を出るとき,念のため浅谷さんの顔を視診した。とくに問題はない。しかしながら,日中の好調と夜の安眠は,ひょっとして嵐の前の静けさではないか・・・という懸念を抱かずにはいられなかった。

 

 24日,不吉な予感が当たった。

 午前外来の前に病棟へ駈け上がる。すると,すでに浅谷さんの意識はなかったのだ。

 

 外来が終わってから,ご主人と娘さんにムンテラする機会をもつ。

 このままでは高二酸化炭素血症のため意識はもどらないこと,したがって,あとは最期を見守るしかないこと,いずれ心停止にいたるが蘇生の処置は行わないことを再確認した。二人に異存はなかった。

「ほかに何か訊きたいことはありますか?」

 問いかけに反応するように夫が語りだした。

「きのう,あいつはウソみたいに元気でした。自分にも娘にも,きっと話せるのは今日で最後だからと言って,昔のこととか,病気のこととか,いろいろ一生懸命にしゃべって,なんども感謝の言葉を口にするんです。疲れるから眠ったほうがいいって,いくら忠告しても聞く耳をもちませんでした。あんなに頑張ったせいで,ぜったい死期が早まったにちがいありません。途中で,むりやりでも休ませるべきだった,そうおもいます」

 事情の解釈が違っている・・・そのような後悔の念など,医師である私には一切なかった。かといって,身内の心情をとやかく言うつもりはない。

「先生には,長いあいだ家内をみていただき,ありがとうございました。あいつもたいへん感謝しています。話せない妻になり代わって,こころからお礼を申し上げたい」

 このあと,ただちにモルヒネの点滴は中止した。オーダーの削除と変更をおこない,ステロイドの投与も翌日から取りやめの指示を打ちこんだ。