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 私に,父親はいない。いや,記憶に残っていないというべきなのだろう。母は13年前,天に召されていった。

 

 お袋が亡くなった年の10月,何もかも清算するつもりで国立金沢病院,現在の金沢医療センターを辞し,一般病床672床を有する,いわゆる総合病院のK病院に就職した。

 その翌年の1月,裕子はナースとしてK病院に中途採用になり,立ち上げられたばかりで手薄だった救急部で働くようになった。それで当直のときや急患を診るさいに,往々にして一緒に仕事をする機会があったのである。

 言うまでもなく私のほうが病院職員として先輩であるとは思ってもみなかったし,ましてや彼女にいかなる事情があるのか知るよしもなかった。

 

 私が内科系当直を,裕子が凖夜勤務をしていた,ある夜のこと。

 当時から時間外受診の患者が少ない日は滅多になかった。その日も廊下のあちらこちらに患者が待っていた。

 午後5時過ぎより始まった診療がようやく一段落したのは,午後9時をとっくに回って10時ちかくであったろうか。溜め息をつき,診察デスクに目を落としてボンヤリ座っているときだった。

「おつかれさまでした。やっと途切れましたね」と声をかけられる。振り向いた先には,やさしげな準夜ナースの笑顔があった。「日中は,心カテされていたんですか?」

「午後から3例。それは,大したことなかったんだけど・・・おとついの夜,AMI,心筋梗塞の緊急カテがあってね。それに,きのうはきのうで患者が急変して病棟に呼ばれたから,どうも疲れが抜けきらないで残っているのかなぁ」

 ちらっと斜め前に立っていたナースを見上げる。はじめて意識して会話している相手のことが気になった。屈託のないスマイルに熱意のようなものが宿っている。 「君は,まだまだ力が余っていそうだね・・・」

「そうですか? きょうは,特別ですから・・・」

「とくべつ?」

「あの・・・わたし,ここに勤める以前は,国立病院で働いていたんです。だから,先生のこと,知っているんです」

 彼女がいきなりK病院にくる前のことを明かしたのは意外だった。けれど,オドロキよりも親近感をおぼえ,同窓生に出会ったような心持ちになって返答した。

「ホント! どこにいたの?」

「東2です」

「ひがし2?・・・外科病棟かな」

「はい」

「じゃ,会うこともないなぁ」

「そうですけど・・・先生の外来に通っていた患者さんが,食道癌のオペのために外科入院になったことがあるんです。その人の容態をみに,先生はわざわざ東2まで,ほとんど毎日のようにいらっしゃってました」

「どんな人?」

「がっしりとした,60歳くらいの男性で・・・たしか,山崎さんという名前だったとおもいます」

「ん,覚えているよ・・・あの人の術後は痛ましいかぎりだった。手術がうまくいってなんとか乗り切れると思ったんだけど・・・3か月後に胸水がたまってね,癌性胸膜炎。それで内科に入院して,ドレナージとか胸膜癒着術とか,しかるべき処置をして頑張ったんだけど・・・結局は,オペして一年と経たないうちに亡くなってしまったんだ。告知してなくて,本人は最期まで納得がいかない様子だったから,よけい可哀そうでやりきれなかった。患者とスタッフとのあいだもギクシャクして,とくに世話している奥さんがいちばん大変だったかな」

「どうしようもなかったんですね・・・そういえば,あのときの山崎さん,先生が病室に来られるのを,とても心待ちにしていました」

「そうだったな,よく知ってるね」

「わたし,担当でしたから・・・ナースになって二年目,先生のこともすごく印象に残っているんです」

「・・・あんまり良くないイメージだったりして」

「いいえ,感心したんです。よその科に入院になっても,ちゃんと患者さんを回診されるんだって」

「それは,まったくの勘違いだよ。外来患者が他科入院になったとしても,よっぽどの理由がないかぎり,回診なんてしないさ」

「じゃ,山崎さんと約束でもされていたんでしょうか?」

「いいや,なんにもないよ」

 信頼され過ぎて,たんに務めを果たしたまでのこと・・・しかし,そこらへんに関しては語りたくない。

 しばらく間があいた。なんとなく物足りない感じがして,つい挨拶代わりのような口癖が出てしまう。

「ちなみに,君はいくつ?」

「わたしですか?・・・先生は,かならず歳のハナシをするって,院内ではかなりの評判になっていますよ。やっぱり,ホントなんですね」

「気になることを,ただ正直に訊いているだけさ・・・それに,すぐ忘れてしまうから,ぜんぜん心配いらないよ」

「それなら聞かなくても,いいんじゃないですか」

「ほう,君はあたまいいね。でも,なにかヘンだな・・・」

 上手に応答できないでいると,彼女は笑みを拵えながら,さらりと告げる。

「わたし,28です」

 こんなふうに裕子と知り合い,それからは顔を合わせると時間をみつけては言葉を交わすようになった。また緊急心カテやオンコールで呼ばれて彼女に出会ったときには,心がしぜんと浮き立つのをおぼえた。素直で機転のきく裕子が気に入っていたのである。

 

 裕子と顔見知りになった年の12月中旬・・・すなわち就職から一年あまりが過ぎて病院にも周囲の環境にも十分に慣れたころ,職員有志の企画によってクリスマス会が大々的に催された。

 開くのは三年ぶりで,各部署からいろんな人が集まりますよ・・・そう放射線科ドクターに誘われた当初は,資金を援助するつもりでチケットを購入したのだった。

 ところが,ICUに重症心不全の入院があって指示を出しにいくと・・・「クリスマス会に参加されるんですよね」「やだぁ違うんですか?」「行かれるって聞きましたよ」「わたしたちチケット買ったんです」「先生も行きましょうよ」

 ・・・「わかった,そうしようか」ってな調子で,あっさりナースたちに押し切られてしまった。

 まあ,いいのだけれど。その日はこれといった用事もないし,行き違いがあったにしても期待を裏切るのは好ましいことではあるまい。

 

 会場は,それまで看板をみても通りすぎていたビルの4階。あわてて始まる間際にエレベーターからその階へ降り立つと・・・フロアー全体がレストランになっているらしい。もちろん店内は貸し切り。

 狭すぎる入口で受付けを済ませると,好きなテーブルに座ってください,って促される。そんなこと言われてもねぇ・・・決めかねて出入り口付近で会場を見回していたら,たまたま視界に入った,エンジ色の服に身をつつんだ女性のすがた。

 裕子のような,そうでないような・・・瞳をじっと凝らし,まちがいないと確信した瞬間,向きを変えた彼女の同僚と目が合ってしまった。そして,しきりに手招きするのだ,こっちこっち!って。

 渡りに舟,乗ってみるのもわるくないかも・・・そのまま釣られて,私は裕子とその仲間たちに囲まれて座ることになったのである。

 

 場の雰囲気が盛り上がり,ほろ酔い気分になってくると,同僚ナースは黙ってはいられない。たまらず身を乗りだして私の右隣にいた裕子越しに喋りかけてくる。

「ヒロコは,先生の熱烈なファンなんですよ」

「そう・・・うれしいね」

「だったら,どこかに誘ってやってくださいよ」

「そのうち・・・暇ができたら」

「もう,じれったいなぁ」

 あたり障りのない受け答えをしていたこのオレに,

「先生は,結婚しないんですか?」

 と,単刀直入に疑問をぶつけてきたのは当の本人だった。

「結婚ね・・・」

 そうつぶやいて私はテーブルに目線を落とした。よくないと思いつつ,見えないバリアーを張り巡らして独りの領域に一瞬閉じこもる・・・きっと己れを偽れなくなるだろうに。

 私はしばしば相手の迷惑も顧みず恋人のことを訊ねたりしていたが,そのさい逆に問い返されることも珍しくなかった。結婚問題でも同様。

 ふだんなら『巡り会えなくて』とか『できればしたいけど』とか,本心から程遠い社交辞令を並べていたのに,どういうわけかこの時ばかりはマトモな返答をしたのだ。顔を近づけ,彼女には聞こえても周りの騒がしさに紛れるくらいの声で。

「おれは一生涯,結婚することはないよ」

 裕子も耳打ちしてくる。

「なぜ,そう言い切れるんですか?・・・先生は,女性を好きにはならないんですか?」

「ならない」

「どうして?」

 いささか後悔しはじめる・・・特殊な心情を説き明かすなんて不可能にちかいこと,なんで本音を漏らしてしまったのだろう,と。

 かりに本気でありのままを語ったとしても,理解しがたいことに相手は了解しようとしてくれないから,かえって関係が気まずくなる・・・要するに,適当に答えておけば良かったのだ。

「どうしてですか? せんせい」

『どうしてもへったくれもないだろ。心の奥底では好きにならないんだよ!』

 その文句をぐいっと水割りといっしょに呑み込んだ。今さら,どうにもならんな・・・彼女はあくまで押してくる。オレも真実を覆したりしたくない。さりとて自己をさらけ出したくはなかった。

「・・・性格かな」

「ぜったい好きにならないと,誓えますか?」

「誓えるさ」

 おりしも奥のほうのスペースでは,楽器の得意なドクター達による日頃は見られない珍演奏がはじまった。だれもが驚きの表情で聴き入っていたが,私は苛立ちをおぼえてそれどころではなかった。

 なんでまた真剣に応じてしまったのか!・・・どこまでも悔いていた。しかしながら,のちになってみなければ掴み取れないこともある。

 

 裕子の真っ直ぐな想いがこころの奥深くにまで届いていた現実を,私はどうしても受け容れることができなかった。そのために精神が揺れ動いたという事実を,いくら突き詰めても信じることができず,また私はかたくなに信じようとはしなかった。

 

 一次会のあと,外科連中の行きつけのスナックバーで二次会が開かれた。

 誘われてしんがりに入り口をくぐると,すでに店の中は溢れんばかりの人でいっぱい・・・考えてみれば,むりに加わる必要もない。だれにも告げずに踵を返した。

 階段を降りて通りに出たところで,後方に走って近づいてくる足音・・・まさかオレを追ってくる?

「せんせい! どこ行くんですかぁ~」

 裕子だった。

「さあ・・・どこかで飲みなおすさ」

 忘年会の類いであっても最後は一人になることが多い。十分に酔っていたから,なおのこと自分を偽れない。さっきのことで鬱憤のようなものも溜まっていた・・・なにがなんでも流れに逆らって,無性に独りで飲みたい気分。当然ながら,彼女を誘おうなんて気はさらさらなかった。

 そんな私の暗いイメージを感じ取ってか,機嫌を損ねないように裕子は恐る恐るたずねる。

「わたしも,つきあっていいですか?」

 断れない性格は,ときに幸いを呼びこむ。ちいさく頭をたてに振って,ようやく胸の奥のほうに燻っていた欲求に気づいたのだ・・・ふたりで酒をゆっくり酌み交わすのもいいではないか。

「ホントですか?」と,笑みを浮かべて彼女は訊きかえした。

「よし,飲みにいこうか!」

 

 それから以前よく出入りしていた片町のスナックに,一年数か月ぶりだろうか,K病院につとめて以来はじめて顔を出した。

「あら,めずらしい・・・転勤して,心変わりでもしたのかとおもったわ」

 私より10歳若いママが,ドアを開けて入ったとたん,ちょっぴり嫌味をこめて言い放った。ならば,こちらも言い返さねばなるまい。

「アサちゃんも・・・ちょっと老けたな」

「ナニ言ってんの,アオちゃんが来ないせいでしょ! 昔みたいに飲みにきてくれたら,もっとしっかり若さと美貌を保てるはずよ」

 座ろうとして「こっちの席がいいわ」と誘導されたのは,カウンターの半円状に飛びだした部分。内側には人ひとり入れるだけのスペースがあって,ママはそこからオシボリを出しつつ,見たことのない客を品定めするように正面から見据えて・・・「彼女は,なに飲む?」

「先生は?」って,受けながす裕子。

「ブランデーの水割り」 そう私は答えた。

 ただよう空気は,かつての似かよった場面を呼び起こす・・・ママが朝ちゃんと呼ばれていた時分,嵩子と前の店をおとずれた折りもこんなだった。

「じゃ,わたしも・・・」 声のトーンに呼び覚まされるように,嵩子のすがたが裕子にダブってみえた。

 

 ・・・時間はどのように潰れていったのだろうか? 曖昧模糊としているのだが,途中でいつしか私の女性関係が話題にのぼったこと,それと午前4時ごろに店を出たことは,ふしぎと定かに記憶している。

 

 裕子の素朴な質問がきっかけだった。

「先生には,彼女はいないんですか?」

 酔いが回っていて隠すつもりも防御する心構えもなかった。

「前はいたけど・・・もう赤の他人どうしになっちまって,今はいないよ」

 これまで胸におさめていたことを打ち明けると,すかさずママが反応する。

「まあ,青ちゃん,とうとう別れてしまったの?」

「あぁ・・・」

「どっちのほうと?」

 ママには相変わらず遠慮というものがない。その問答を彼女は訝しげに聞いていた。

「どちらとも」

「二人とも?」と,もう一度ママ。

「おう!」

 ふかく詮索するなよ・・・すぐさま,とげとげしく投げ返してやった。すると裕子がたまらず口を開いたのだ。

「ふたりともって,どういう意味ですか?」

「じつは青ちゃんはね・・・二人の女と同時に付きあっていたってこと。ほかにも知りたいことがあるなら,なんでもわたしに訊きなさい」

 したり顔のママ。客の秘密を簡単にばらすとは・・・若干,許せない気持ちにもなったが,これほどズバリと的を射た言い回しはオレにはできなかったことだろう。

「先生は,そのような人ではありません! きっと,なにか事情があってのことだとおもいます」

 味方してくれるのは義理でもありがたい。とはいっても,嬉しいといった感情は湧いてこなかった。真相を知ったなら彼女だって・・・まったくもってオレには弁解の余地はないのだ。

「でもね,人は見かけによらないって言うじゃない。忠告しておくわ・・・あんまり青ちゃんを信じちゃダメよ」

 そのとおりかも・・・オレのことは信じないほうがいい,と彼女に対して胸の内でつぶやく。

 なおも裕子は聞きたくてたまらないふうであったが,ママはお客さんに呼ばれてテーブル席に移っていった。

「結婚しようって思ったことは?」

 あらためて異なる角度から問いただされる。

「・・・一度だけ」

「なぜ,しなかったんですか?」

「おれが・・・」と答えかけて,憤りとも悔しさともつかない自己嫌悪の絡みついた情念に遮られる。

 カウンター越しのグラス棚には二人がうっすらと映っていた。無くすために散々苦しんできたオレと,見いだそうと懸命になっている裕子。

 どうすることもできないではないか。せめて・・・己れの醜さから逃れようとはすまい。

「かけがえのない・・・女心をズタズタにしてしまったのさ」

 堰を切ったように,過ぎし日の修羅場が次々に想い起こされる・・・いかんともしがたい記憶の渦。そこから抜け出すことができず,裕子を置き去りにしてしまった。

「わたしなら・・・」

 彼女は口をつぐんだ。顔色をうかがい,裕子はそれ以上ふかく立ち入ろうとはしなかった。

 

 店からの帰り道,夏の季節であれば空が白んでいる時刻,犀川の堤防をぶらぶらと肩をならべて歩いた。

 なんと夜明け前の風は冷たくて身にしみるのか!

 しぜんと寄り添い,足並みがそろってしまうのも無理からぬこと。くわえて如何に鈍感であろうと,あんな問いかけを浴びせかけられて一夜を飲み明かしたあとでは,身体が触れあうたびに彼女の想いが伝わってくるというもの。それとシンクロするように,裕子のことが好きになっていく自分を感じないではいられない。

 おまけに芽生えてくる欲望をじわじわと意識しはじめる・・・それごと彼女への情動を手遅れになるまえに打ち砕いてしまおうと,唐突に立ち止まり,私はキッパリと宣告した。

「おれと付きあっても,結婚できる見込みは万に一つもないから,だれか違う男性を見つけたほうがいい」

 ところが裕子は,あたかも予見していたかのごとく,毅然として言葉をかえすのだ。

「それは,先生・・・わたしが決めることです! こんや,あれこれハナシを聞いて,はっきり決心がつきました。先生さえ迷惑でなければ・・・わたしは先生のそばにいて,いっしょに暮らしていきます」

「バ・・・バカなこと言うんじゃないよ。結婚できないのに,いっしょに暮らすなんて,どう考えてもおかしいだろ」

「そうでしょうか?」

「常識から外れすぎだよ」

「わたし,結婚できなくてもいいんです。先生をいつまでも,どこまでも,ずうっとずっと見ていきたい」

 愕然としてしまった。ああ,なんということだろ・・・これでは,嵩子のときと,ほとんど変わりないではないか!

 あのときと同じ過ちを犯すことは二度と許されないし,今の私には罪を重ねるつもりなど毛頭ありはしないのだ。

「言いかたが,マズかったかもしれない。過去にいろいろあって,おれはもう愛を捨てちまった人間だ。だれも愛せないし,だれも愛さない・・・だから,こんな碌でもない男と一緒にいたって,面白くもなんともないだろ」

「ちっともかまいません。承知のうえで望んでいることです,気にしないでください。わたしは・・・自分を偽らないで,正直に生きていきたいんです。これから先,けっして後悔しないために」

「もし,ダメだと言ったら?」

 裕子の揺るぎない視線が私の目を捉える。しずかに真意を探ろうとする瞳だった。そして,自らに諭すように彼女はつぶやいた。

「ダメだと言われたら,いっしょに生活することはあきらめます。でも,たとえ断られても・・・わたしの気持ちは,いつまでたっても変わらないとおもいます。だって先生は,だれも愛さないはずですから」

 うむ・・・なるほど。オレの弱点は,完全に見抜かれているらしい。

 彼女の目を見つめかえす。潤いのある瞳は窺い知ることのできない純真さを湛え,ほとばしる心の色は比べるものがないくらいに澄んでいた。

 

 本当は,愛を捨てても愛はある。愛なき愛は無限だと,私は信じている。

 

『気がかりなのは,彼女とおれが,はたして耐えられるかどうか・・・』

 しかし・・・それは考えても詮なきこと,共に暮らしてみなければ実際のところはわからない。

 そうやって自問自答するうちに,口許がゆるんでいく・・・露わになっていく我がココロが滑稽でならなかったのだ。

 いったい何を躊躇しているのだろう,どれだけ理屈を並べたところで逆らえるわけがないのに・・・もはや魂の重石はオレを引きずって,坂を転げ落ちるように裕子に向かっているというのに。

「どうかしたんですか?」

「ん,なんでもない」

 それでも平静を装った・・・かろうじて「下に,行ってみようか」と誘うことでバランスをとって。

 されど・・・悪アガキに過ぎなかった。

 河川敷の遊歩道へ降りていくと,崩れた体勢を立て直すどころか,なおさら流れに抗えなくなってしまったのだ。

 爽やかで力強い川瀬の音は,すべての蟠りを解き放っていった。無言のまま彼女を抱き寄せる。

「あとで悔やんでも,責任はとりかねるけど・・・いいのか?」

 ・・・分かってはいても己が本性を恨みたくなった。 『なにゆえに,かくも他力的なのか』

「ゼッタイ,あり得ないことだわ・・・」

「どうして言い切れる? この世の中,絶対なんか無いだろ」

 そのうえ,根っからのつむじ曲がりときては,どうにも救いようがない。

「ううん,悔やむなんてこと,ないもん!」 彼女は小声で,ひとり言のように零した。

「いいんだよ,キライになったときは,なったときで・・・」

「イヤ! ありもしないこと,言わないで!」

 気づくのが遅かった。目にナミダを溜めているヒロコ。

「ゴメン,ちょっと意地悪してみたくなった」

「バカ!」

 そうだな・・・死ななきゃ治らないのなら,生きているかぎり貫くしかないじゃないか。

「その大バカと,マジに付きあってみるか?」

 エッとした顔を見せたかとおもうと,大粒の雫がパチパチするマナコからこぼれ落ちる。

「うん!」

 泣いているのか笑っているのか,どちらともつかない微妙な表情がたまらなく気に入った。

『ままよ・・・』

 さきに唇を奪ったのはオレだが,幾度となく唇を重ね合わせたのは裕子のほうだった。

 

 ひとりでむなしく日々を送っていてもつまらない・・・その日のうちに,半同棲生活をはじめる。

 裕子はアパートを借りていたが,しだいに私の賃貸マンションで過ごす時間のほうが,時期によっては圧倒的に多くなっていった。そして私のために,職員に知られないよう振る舞うことを忘れなかった。

 就職して3年目の夏,分譲マンションを彼女が購入してからも,さして私たち二人の暮らしぶりは変わっていない,よくもわるくも現在に至るまで。