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 2010年4月,私は54歳になった。

 さいわい先月の心カテ以降,発作らしい発作は起きていない。また造影結果がこころの負担を少なからず軽減してくれたのも偽らざる事実である。

 

 誕生日の朝,裕子がお祝いにロケットペンダントを贈ってくれた。ニトログリセリンを入れられるという・・・なるほど,ニトロを携帯するには便利だ。出勤前であったので当日よりさっそく使用する。

 その日は火曜日で,午前中は技師の協力のもと予約検査を行なった。心エコー検査を13名,そのうち3名は運動負荷試験であるトレッドミル検査も併せて実施した。

 午後2時からは再診外来。その日は老年期にさしかかった,いわゆるシニア世代の女性が受診する予定であった。名前は・・・浅谷富子さん。例によって腫瘍内科の下田先生の外来からファイルが回ってくる。

 受付け順に予約患者を診ていき,9番目に浅谷さんを呼び入れた。

「先生,こんにちは」

「こんにちは」

「きょうは,午後一番でCT検査がありまして,さきほど下田先生から結果を聞きました。でも,ダメでした。大きくなっているって言われました・・・」

 浅谷さんは今年65歳,2年ちかく肺がんと闘っている。本来ならば,私の外来を受診する必要はないのだが,本人の希望で腫瘍外来と循環器外来の両方にかかっている。

 もともとは高血圧症で開業医に通院していた。それが,おととしの5月20日の午後,心房細動という不整脈の頻拍発作をおこして当院に紹介され,そのさい循環器外来を担当していたのがこの私であった。

 初回発作のときにはだれでも強い不安をいだくもの・・・浅谷さんも例外ではなかった。診察したとき,胸の不快感や息苦しさの症状よりも気持ちの動揺のほうが激しい印象で,息を数回吐くごとに『なんとかして!』と訴えるようだった。けれども患者自身の懸念は案外に的外れとはいえず,胸部X線で軽度の心不全所見がみとめられ,心エコーを行なってみると,少量から中等量の心嚢液が全周性に貯留していたのである。

 病状を説明し,ただちに入院治療が望ましいことを宣告する。浅谷さんは肩で息をしながら『ほらね,なにか変だとおもったわ』とでも言いたげな表情をこしらえて,そこに安堵と感謝の色を浮かべていた。

 入院当日から投薬をはじめると翌日には不整脈心不全も速やかに改善し,浅谷さんは病室で時間をもて余すほどに元気になった。ところが,運命の女神に見放されたとしか言いようがない。

 念のために施行した胸部CTで,右肺の上葉に小さな腫瘍性病変が見つかったのだ。しかもサイズはさほど大きくないにもかかわらず,周囲の縦隔と心膜に直接浸潤している所見および傍気管リンパ節の腫大がみとめられ,肺がん以外の疾患は考えにくい。したがって心嚢液は癌性の可能性が非常に高くなり,浅谷さんは退院どころではなくなった。

 6月,胸部外科に転科,胸腔鏡下に肺生検および心膜開窓術がおこなわれ,最終的に肺腺がんと診断された。予想されたことではあるが,縦隔・心膜浸潤および癌性心膜炎合併のため手術の適応はなかった。

 それ以来,浅谷さんは腫瘍内科で薬物療法すなわち抗がん剤治療を受けていて,およそ1年後の昨年7月より,副作用死の問題で目下裁判にて係争中の分子標的薬イレッサによる治療が開始となった。

 切り札のイレッサは,飲みはじめた当初は期待どおりに十分な効果が認められた。だが,いずれ耐性がかならず出現するといわれている。電子カルテで検査データを確認すると腫瘍マーカーも上昇していた。どうやら効き目がなくなる日がとうとうやって来たらしい。

「それで先生,イレッサは中止するって言われたんですけど,止めたらどうなるんでしょう?」

 イレッサを服用してからというもの,浅谷さんの顔には吹き出物が絶えなかった。なかでも最も深刻なのは指先だ・・・爪はボロボロにくずれ,周りはひどく爛れて,亀裂のような深い傷もできている。

 命が延びるとおもえるから我慢できるにしても,副作用の皮膚障害はあまりにも重篤で,肺がんに対する効果が見込めなくなった時点で即刻服薬を中止するのが妥当というもの。

「ふつうは・・・すこしずつ進行していくでしょうね」

「そうですか,やっぱり進みますか・・・仕方ないですよね」

 副作用から解放される安堵感のせいか,実情を告げても大して落ち込んだ様子には見えなかったが,その胸の内は複雑で哀しいものであっただろう。

 二年前の入院時のことを思いかえす・・・浅谷さんが胸部外科へ転科するさい,手渡された封筒には一筆箋が添えられていた。

 

   青海先生へ

 

    先生,大変お世話になりました。

   肺の病気も発見され,驚きとともに

   まさかと思いましたが,何ごとも

   平等に与えられることを知りました。

   そして,自分の周囲を見まわすことが

   でき,家族のきずなも深まりました。

   感謝します。外科病棟で未来を信じ

   頑張ります。

    先生とは,この先もよろしくお願い

   いたします。

                浅谷富子

 

 診断が確定したのちは再び内科に転科となり,肺がんの治療は腫瘍内科の下田先生のもとで行なわれた。

 その後,退院してからは循環器外来で,浅谷さんの高血圧と不整脈の管理をしているというわけである。

 まあ管理といっても,これまでは何もなかった。薬の処方内容も2年前となんら変わらない。心房細動の頻拍発作も起きていない。

 通常,不整脈などの問題が起こらないかぎり,循環器科を再診することはないであろうが,しかし浅谷さんは下田先生の外来を受診したあと,きまって私の外来に顔を出し,まるでアドバイスを求めるみたいに報告をする。

 じつは,いつ心臓にトラブルが再発するか分からないので,定期的に診てほしいと本人から頼まれたのだった。それを了承したというのに,今ごろになって手のひらを反すような診療拒否はしたくない。

 その日も浅谷さんの報告に耳を傾けていたけれど,きちんと理解するには情報が不足している。それで毎回のごとく,カルテの検査結果などを確認しているうちに時間が過ぎてしまうのだ。

 げんに闘病生活を送っている人と真摯に向き合い,制限された中で適切な助言をすることは生易しいことではない。そのうえ私はガン診療に慣れていないし,新しい知見にも明るくない。どちらかと言えば,性分にも合わない。

「これからは,先生の外来だけを受診すればいいでしょうか? 下田先生は,しばらく抗がん剤は使用しないで様子をみましょう,って仰ってました」

 とんでもない,と思った。

「そんなことはないです。下田先生は,今でこそ腫瘍内科ですが,もともとは呼吸器内科のドクターですから,治療を受けないときも下田先生の外来は定期的に受診してください」

 心臓には原発性の悪性腫瘍はきわめて稀である。医師になって原発性の心臓悪性腫瘍を一度も診たことがない。それは,循環器内科医として心臓転移の治療には携わっても,原発巣のガン治療には関わってこなかったということだ。

 当然ながら,肺がんに侵された浅谷さんの診療をすること自体に,ものすごく抵抗を感じる。あくまで私は従の診療をおこなうのみである。

「でも,先生の外来も受診しますから,ダメだって言わないでください。この外来が・・・わたしには心の支えなんです。ですから,これからもよろしくお願いします」

「わかりました。いつもの薬を出しておきますから,次回も下田先生の外来のあとに来てください」

「ありがとうございました」

 丁寧にお辞儀をして,浅谷さんは診察室から出ていった。

 

 奇妙な心持ちにおちいる・・・なんとなく原因は分かっているのだが。

 はじめて発作を自覚したあの日以来,日増しに死を意識するようになった。

『死ぬときには自ら命を絶とう』

 真子と『サヨナラ』した日に舞い降りてきた一つの思念は,歳月を経るごとに深くこころに刻まれて,もはや生きる誓いに等しいとさえいえるだろう。そして自らに課した使命のような意味合いを帯びている。何があろうとも逃れたくはない。

 されど・・・『その時』はいつなのか? 気持ちはじわじわと引き込まれていくけれど,はたしてイツであれば得心がいくというのか?

 そんな迷いの中にあるオレが,ガンを患って死の淵に近づいていく人を支えることになろうとは,じつに不思議な巡り合わせではないか!

 

 仕事を終えて帰ってくると,もうテーブルには料理が並べられていた。着替えるあいだに裕子が,冷えたワインを冷蔵庫から取り出してくる。

「きょうは,あなたのためにワインを買ってきたわ」

「いいね」

「辛口の白を探していたら,これがお勧めって言われたんだけど,ホントにおいしいかしら・・・」

「じゃ,飲んでみてのお楽しみだな」

 コルク栓を抜いてグラスにワインをちょっぴり注ぐ。一口含んで飲み干したらサッパリとして口当たりがいい。心配そうな彼女と目が合って,おもわず声を上げる。

「いけるよ! これ」

「よかった」

 裕子がふたつのグラスに程よくワインを注いでから,じっと私のほうをみて祝福してくれる。

「あなたの54歳の誕生日に,かんぱい!」

「アリガト!」

 キッリーンとグラスの合わさる乾いた音・・・ひびいた音色がまわりの空気に溶け込んでいくわずかな時間に,フラッシュを浴びたように私を取りかこむ世界が,まぎれもなくホンの一瞬間かがやいて見えたのだ。

 発作に引きつづいて,いくつかの事柄に熟慮して対応せねばならなかったので,どこか思考経路に一過性の機能異常が生じているのかもしれない。

 しかしながら・・・よしんばオノレのこころが創りだした幻影であったとしても,この輝きこそ『その時』へのスタートの合図にちがいないと,なぜか私は信じきったのである。

 

 ナニもない。

 私には生きる目的もなければ,守るべき血縁者もいない。この刹那を力のかぎり生きることだけである。だから長生きしたいとは思わない。ただ自分らしく人生の幕を下ろしたいと願うばかりだ。

 真子と別れてから,人生の幕引きのときはいつなのか,たえず自己に問いかけてきた。 それは・・・普通に生活しているあいだのことでなければならない。だんじて弱ってからであってはならぬ。

 終わりの美学などではない。おそらく罪の意識と関係している。普通のうちであってこそ,罰なのだ。心身ともに弱ってしまったなら,もはや意味も価値も薄まって罰ではなくなるだろう。

 では,どこから普通でなくなるのか?・・・命にかかわる疾病に罹患した時点で,すでに普通であるとはいいがたい。その前段階までが普通の領域といえるのではないか。

 ところで,普通の領域の終わるところを前もって見極めることは可能なのであろうか?・・・厳密には否というしかない。普通ではなくなって,はじめて何らかの兆しを見出だすことができる。つまり確証を得たときには手遅れということだ。

 であるならば,狭心症をわずらうところまで引き摺ってしまったのは,いちおう致し方ないことと諦めがつく。

 肝心なのは・・・知った時点で,成しうるかぎり早急に実行すること。

 考える余地はない。本来はそうなのだが,どうにも決心することができないでいた。もちろん今すぐに,というわけにはいかない。それなりの期間と準備が必要である。ところがそういったことではない。心のどこかで逡巡してしまうのだ。

 現代では言うまでもなく,狭心症を根本的に治療して,ぎりぎりのところまで先延ばしにする方法が選択できるということ。見方をかえれば医療とは,普通を回復させるためのものであるから,それを利用しない手はないだろう。

 だいたい,これまでも先延ばしにしてきたではないか・・・普通でなくなるまでは生きていようと。

 一方で,それではいけない,そのようなことではいつまでたっても実行できるはずがない,と叱咤する自分がいる。

 優柔不断とはこのこと,いったいどっちへ転べばいいものなのか?

 翻って再考してみる・・・今ここで,冠動脈をカテーテルで治しておいたとしても,いずれ心筋梗塞が起きたってちっともおかしくはない。動脈硬化が全身の血管を蝕んでいるから,脳梗塞を合併することだって十分にありうる。さらには腎障害のこともある・・・これから先には,普通でないことが予期せぬかたちで目白押しに控えていると断言しても差し支えないであろう。

 畢竟,延ばせるのはここまでなのだ。

 ここまで?・・・結論は,元のとおりではないか!

 なんという往生際の悪いヤツなんだ。ウンザリしてくるが,考えるうちに好ましいことも一つは見いだせた。

 結果オーライ・・・狭心症の発作をおこしても,さしあたり心筋梗塞に進展しそうにはない,イマこそ最適の時期といえる。

 であるなら,少なくとも,この時期が過ぎ去ってしまわないうちに事を起こさなければならない。

 やはり,きょうを『その時』への出発点としよう。

 

 大人になって本気で自らの誕生日を祝ったことはない。けれど・・・今年は違っている。もしかすると,最後のバースデイになるかもしれない。

 ・・・裕子をハグするようにムネに抱き寄せる。

『いつもありがとう』と,しらずしらず力が入ってしまった。

「あなた,うれしいけど・・・ちょっと痛いわ」

「あっ,ごめん」

 腕のちからを緩めると,彼女の頸動脈が柔らかく脈打っている。これからは裕子との時間を大切にしなくては。

「今年は,どこかへ旅行に行ってみようか」

「ホントに!」

「あぁ・・・どこ行きたい?」

「あなたと一緒ならどこでもいいわ」

 

 『その時』へ向かうことを決めてから,なんだか世の中が変わってきた。自分のなかで大事さの価値が変化したからなのだろう。些細なことにも囚われなくなった。

 犀川の夜桜を見に出かけた。さくらは満開をすこし過ぎたころ,散りぎわがいちばん美しい。はなびらが夜風にひらひら舞い落ちる土手にすわった。川の流れる荒々しい音も耳に心地よく響いてくる。

 ・・・桜吹雪を目にしながら息絶えるのもいい。

 そう思ってフッと笑ってしまう。なにをバカなことを考えているのだろう。そんな人目につきやすい処で死ねるわけがないではないか。

 それでも,胸に刻むことはできる。

 

   夕映えに海の向こうの雲々が

   真っ赤に染まるころ

   舞いおちる色かすかな桜の

   ひとひらひとひら

   金色の落陽は水平線のかなたへ

   ゆっくりと沈みゆく

 

 これが,最期のとき,私がこころに抱く光景だとおもう。

 

 迷いは無くなった。

 カテーテル治療はまったく受けるつもりはない。抗狭心症薬などを後輩の藤沢に処方してもらっているが,彼から心カテ直後のような抗議を受けることもない。 さて,実際のところはどうであったのか・・・推測どおり,仕事や生活をするうえでは何をやっても発作はおきなかったのである。