夜になって主治医のドクターから,現在の病状と今後の治療方針について説明を受けた。私の申し出により母は同席しなかった。
確定診断は子宮頸がんで,肺と骨に多発性の遠隔転移が認められて手術は困難な状態であった。私が医師なので,手術以外のがん治療を受けるかどうか,簡単な説明のみで近日中に決断をするよう求められた。
祖母はすでに他界し,祖父も亡くなったと聞いている。母は,私と同じく一人っ子で,未婚のシングルマザーであった。先ほど,気にかけていた父も帰らぬ人だと聞かされた。
私の一存で,対症療法中心の緩和ケアを希望し,がん治療は断わった。
かねてから母は,寝たきりになるくらいなら死にたいと言っていた。延命はしないで,と頼んでもいた。根治不能の進行がんと診断されて,放射線療法や化学療法の効果が十分には期待できないのであれば,母も死を受け容れて余命を生きるという選択に異存はないだろう。
骨盤内転移による合併症のため退院は難しいとも告げられたが,むしろ要らぬ心配をしなくて済むので,私としてはそのほうが有難かった。
「なんて言われた?」
病室にもどると,母はベッドから起き上がり,待ちあぐねた子供のようにたずねた。病名を知っていたから覚悟はしているにしても,最終診断と治療方針を聞くまでは落ち着かないのだろう。
「転移しているから,手術は無理だって・・・」
詳しい説明を加えるとかえって分かりにくくなりそうなので,結論だけを伝えるように心掛けた。
「放射線や抗がん剤の治療は,おれが断ってきたよ。たぶん,受けないほうがいいとおもうから・・・」
「わかったわ。コウちゃんがそう言うなら,そうする」
「それと,痛みやおしっこなんかの問題がよくならないと,退院はできないだろうって言われたよ」
「・・・」
「でも,入院のほうが,おれは安心でいいな」
「わたしも,今のままじゃ,家では自信がもてないわ」
母は仰向けになり,目を閉じて黙ってしまった。 あるいは・・・と,思わないではいられない。
『ふつうに会話できるのは,これが最後だったりして・・・』
あらためて,お袋を見た・・・以前に比べると目にみえて痩せほそり,お世辞にも顔色がいいとはいえない。64年間の年輪が刻まれて,そのうえ病魔に冒されているのだ。当然といえば当然であるが,なにしろ死ぬにはまだ若い。諦めるには若すぎる・・・果たしてこれでいいのだろうか?
とつぜん母は目を開けて,思い出したようにつぶやく。
「コウちゃんも小さいころに行ったことあるけど,福岡町というところに,わたしの従姉妹が住んでるの。幼いころからの仲良しでね・・・前々からその人に,お墓のことも頼んであるから・・・」
すぐにあの世へ逝ってしまうわけではないだろ,いきなり言われてもこまるよ,って思った。
「死んでからのこと,入院しているあいだになるべく書いておくから・・・ねえ,コウちゃん・・・」
「・・・」
「アトのこと・・・おねがいね」
「まだ早いよ,そんなハナシ・・・」
「だって,会ったときに伝えとかなきゃ,どうなるかわからないんだもの」
「・・・」
「しかたないじゃない,考えておかなきゃ・・・」
「そうだけど・・・」
「コウちゃんの重荷になりたくないから,わたしの両親の眠っている墓に入れてもらうことにしたの。だから,それだけは,かならずお願いね」
「わかったよ」
としか返事のしようがない。考えてみれば,諦めるとは死後を慮ることではないか。
「ありがと。やっとすっきりしたわ」
いつ時分から墓のことを案じていたのだろう。たんに他人をあてにしない性分のせいだとは思えない。父のことで苦労してきた母が,女手ひとつで育てあげた息子の性格を知らないはずがない。私のために死んだ後のことまでも配慮していたということか。
しばらくして,不意に母がささやいた。
「もうちょっと長生きして,コウちゃんの子供が見たかったな・・・」
まったく思ってもみない一言であった。なんとはなしに溜め息が出てきて,そっと吐き出す。
オレという人間は,母の期待を悉く裏切ってきたのかもしれない。とっくに結婚する意思も捨ててしまった。石よりも固い決意であると自負する反面,そのぶん申しわけない気持ちにもなる。
『ごめんな,お袋!・・・どれだけ長生きしても,孫は見られないんだよ』
心のなかで謝るほかなかった。無言の時間は期せずして私の胸のうちを代弁し,なんともいえない重苦しい空気に包まれかけたときだった。
「心配しないで・・・わたしの,さいごの愚痴よ」
と言って,母は笑った。
それから三週間後の5月,病状が急変したとの知らせが勤務中にあった。急いで入院先の病院へ駈けつける。
痩せこけた母は,虫の息になりながらも私を待っていた。というのも,着いた直後に笑みのような表情を浮かべ,しずかに息を引きとったのだ。
おだやかな死に顔はなんども語りかけてくる。
『ごめんね・・・』
『ありがとう・・・』
『元気でね・・・』
目頭があつくなり,こう答えずにはいられない。
『おれは大丈夫だから,はやく親父のところへ行ってやれよ』
『わかったわ』
そうつぶやいて,お袋がホントに微笑んだ気がした。『コウちゃんは,まけないで信じた道をすすんでね・・・さようなら』
『あばよ・・・おふくろ』